第一章 みー君ですが、なにか? 4

 勅使河原駅は学校から歩いても二十分くらいの所にある。そこには鉄道付属のマーケットが設置をされていて、小さい頃は親に連れられてしょっちゅう来ていた。隣町に大きなショッピングモールができてからは随分客足が遠のいてしまい、私も今では電車を使うときくらいしかここにはこない。一階にはファーストフード店もついてはいるのだけれど、近隣にもっと大手の広いお店ができてからはここにくる機会も減ってしまった。

 だから、このお店でポテトを頼むのはとても久しぶりのことだったんだけれど、隣で落ち着きなく頭を左右に動かしている渋谷道彦はそれより更に久しぶりのことだったらしい。

「すげー。ちょー久しぶりにきたー」

 レジ前で商品を選ぶ時もメニュー表を見て瞳を輝かせ、並んだだけでうきうきそわそわ頭を左右に動かしている。いざ自分が注文する番になると「テリヤキとバニラシェイクと君の笑顔をお持ち帰りで!」などと言い出す始末。早くしろよと頭を叩くと、ちょっと涙目になっていた。

 座った席は禁煙席の窓側で、駅のロータリーが一番はっきり見えるところ。道路が噴水を囲うように敷かれていて、それをバスだとかタクシーだとかが行きかっている。天使の形の銅像からは透明な水が溢れ出て、夏を控えたこの時期に涼しげな雰囲気を与えていた。

 席に座った渋谷道彦は、きらきらと星が飛び出てきそうなほどにいい笑顔を作っていた。

「こういうの食べるの久しぶり?」と問いかけると、「久しぶりだ」とそう言った。

「おれね、あんまりこういう所こないんだ。母さんがこういうやつあんまり好きじゃないし。それに、すぐに無駄使いするからお金もあんまり持たせてもらえない。だから久しぶり」

 なんて大きい口を開けてハンバーガーに齧り付くみー君に、私は少し笑う。それから「あいちゃんはそれだけでいいの?」と、私の目の前のシェイクを指したから、これでいいのとそう言った。

「いつ、こっちに越してきたの?」

 シェイクに口をつけながら問いかけると、みー君はポテトを口に放り込みながらこう答えた。

「うーん、一週間くらい前かなぁ。あそこー、三河屋さんちの近くに売り家があったの知ってるー?」

「赤い屋根の家?」

「そう。そこに住んでるの」

 みー君の言葉に、私は以前みー君が住んでいた家を思い出そうと努力をする。茶色い屋根で白い壁の一軒家。沢山の友達と一緒に何度も何度も遊びに行ったあのおうち。

「前の家さぁ、壊されちゃったんだよねー」

 ハンバーガーを食べる手を休めることなく、みー君はこう言った。

「越してくる少し前にさぁ、ゆうちゃんと一緒に前に住んでたとこ、見に行ったの。そしたらなくて、コンビニになってた。こんなさぁ、頭の禿げたおっさんがレジやってんだよ!?」

 なんて身振り手振りで説明をするみー君。

 ゆうちゃんというのは、五つ年上のみー君のお姉さんのことだった。本名は柚子ゆずこという。とても優しくて厳しいお姉さんだった。

「ゆずお姉ちゃん、元気?」

 私が聞くと、みー君はぱっと目を上げて

「元気元気ー。今ねー、神奈川で一人で暮らしてるのー」

「へぇ」

「あいちゃんさぁ、今度うちに遊びにきなよー。父さんも母さんも、あいちゃんのこと覚えてるよー」

 楽しげにへにゃりと笑うみー君の顔には、パン屑だとかテリヤキのタレだとかがおかしいくらいにくっついていた。それを指摘すると制服の裾で拭きだしたので、急いでペーパータオルを差し出すと、「ありがと」と子供みたいに笑った。

 不思議な人だ。何年も何年も離れていて名前を憶えているかも怪しかったのに、たった数分でその距離をゼロにしてしまう。変な感じ。目の前にいるのは、記憶の中よりもずっと成長した男の子で、背も顔の輪郭も声だって全然違う。ぐりぐりとした目だって味海苔みたいな眉毛だってちゃんと私の知っているものなのに、今目の前でテリヤキのたれに紛れているこの男の子が微妙に記憶とぶれがあるのだ。

 私と彼との間には十年もの溝があるのだからブレがあるのは当たり前のことなんだけれど、今目の前でハンバーガーに齧り付いている男の子が「みー君」であるという安心感と、記憶の中での「みー君」とは違うという事実がちぐはぐな緊張感を作っていた。

 三分の一くらいに中身の減ったシェイクは半分くらい溶けていた。プラスチックのカップには水滴がついて、それがテーブルの上に輪を作っている。

 私が黙ったまま下を向いて、シェイクの結露がぽたぽたと制服の上に落ちていくのを見守っていた。

 ハンバーガーを食べ終わりポテトに口をつけていたみー君は、口いっぱいに頬張っていたハンバーガーを飲み込むと、私の名前を呼んだ。

「あいちゃん」

「へ?……うぐっ」

 口に無理やり押し込められたものがポテトであるということに気が付くまで、ほんの数秒時間がかかる。

 みー君は、私がそれを咀嚼して飲み込むまで待って、切り出した。

「おれねぇ、ホントは最初っから気が付いてたんだ」

 みー君の茶色いトレーの上にはハンバーガーの包み紙と空になったポテトのケースがくしゃくしゃになって置かれていた。

「でも、あいちゃんは俺のことシカトするし、覚えてるのと全然違ってたから」

 だからちょっと自信なかった、といって揺らしたシェイクの入れ物には殆ど中身が入っていなくて、カラン、と軽い音を立てた。

 みー君の言葉に、私はシェイクのストローを軽く噛んだ。それから反論しようと口を開くが、あっさりそれを遮られる。

「それは――」

「あいちゃんさ、こないだ雨のとき、こけて定期とか落としたでしょ?」

 みー君の言葉で、私は体の動きを止める。それから、先日の世界で一番嫌な記憶を思い起こし、思わず体を縮こませた。無意識のうちに、シェイクを握った両手に力が入って容器が凹む。それから、あの時の赤いポロシャツを着て青い傘をさした男の子が目の前で容器を弄んでいる男の子と重なって、私は思わず「あ」という声を上げてしまう。

 するとみー君はなんともいえないような笑みを作り、軽く脱力をして硬めのソファに体重をかけた。

「ま、でも」

 歯型のついたストローに噛みついて残りのシェイクを飲み干すと、みー君はこういった。

「でも、あいちゃんに会えてよかった。おれ、ずっとあいちゃんに会いたかったんだ」

 みー君はソファ越しに振り向くと、入り口付近に設置されている遠く離れたダストボックスを目指してカップを投げた。シェイクのカップは綺麗に宙を描いて、落ちることなくスポンとごみ箱に収まった。なんという命中率。失敗したらどうするつもりだったんだろう。

「ないっしゅー」

 などと音符の記号が付きそうなほど機嫌よく振り向いた渋谷道彦。今にも鼻歌でも歌いだしそうなみー君とは対照的に、私は渋谷道彦の顔をきちんと見ることができなかった。恥ずかしくて嬉しくてたまらなかったのだ。心臓は胸から飛び出て宇宙の先まで飛んで行ってしまいそうだし、血液はロケットみたいに音を立ててミサイルみたいにあちらこちらに走り回っていた。ひどい顔をしているであろう自覚があった。鼻の先から耳の裏まで真っ赤なのは確実だったし、少し気を抜けばだらしなく顔が弛んでしまうこと必至だった。

 みー君の茶色い鞄の中から流行の曲が聞こえていて、オレンジ色のスマートフォンを取り出した。

「はーいはい……そうですよ、道彦ですよー……今? 駅のマック……えぇ?や だよ。なんで、屈強のおばちゃんたちに囲まれてそんなことしなくちゃいけないんだよ……うー……それはやだ……わかった」

 ぷちっ、と通話を切ったみー君は、とてもとても嫌そうな顔でこういった。

「ごめんあいちゃん。今かーさんから電話があって、6時半からのタイムセールで人参と牛蒡買ってこいって言われた」

 私の知っているみー君のお母さんは、いつも元気でとても気の強い人だった。他の園児よりもずっと手のかかりすぎるみー君は、いつだってお母さんに怒られていたのだ。

 携帯の時間を見たみー君は「やばい! もうすぐで始まっちゃう!」とか言いながら大慌てで退散をする準備をする。

 席を立つ瞬間にみー君は、「あ!」と何かを思いついたように声を上げて、スマホを取り出した。

「ラインこーかんしよーよ。おれ、なんかあったら連絡するから」

 メル友になろうぜ! と言いながら器用に動くみー君の指は骨ばっている上ささくれていた。通信を終えると、球団のマスコットに似ていると揶揄される彼は「じゃあねっ」と言いながら風の速さで去って行った。

 遠くなる白い背中を見置くって、私は新しく加わった連絡先を確認する。みー君。ちゃっかり画像も添えられていて、そこにいたのはあの球団のマスコット。ジョニー・デップのほうがいいとか言いながら、ちゃっかり気にいってるんじゃない。

 青いコアラの映し出されたスマートフォンを握りしめながら、私は今にも叫んで走り出したい衝動に駆られていた。

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