第一章 みー君ですが、なにか? 3
渋谷道彦曰く、こういうことだ。
朝、間に合うと思われる時間に家を出て、学校へ向かった。その途中で横断歩道を渡れないでいる老人を助け、お礼代わりにお婆さんの家でお茶をして、お婆さんの家の犬と遊んだ。途中で学校があることに気が付いて向かったのだが木の上に鳥の巣があるのが見えて、そこでまた遊んでしまった。
自由だ。自由すぎる。
そして今、人より三時間遅れてきた転校生は机の上に立ち上がりコサックダンスを披露していた。
「こいつ、あれに似てるよな!」
「あー、あれだろ? プロ野球の青いコアラ!」
「眉毛とか目とか超似てるよな!」
ははははは!
続いて、机の上で髭ダンスを披露し始めた彼の周りにはクラスメイトのほぼ全員が集まっていた。強烈な存在感だ。
プロ野球球団のマスコットに似ていると囃された本人は
「前の学校でもそう言われたー。でも、俺的にはドアラよりもジョニー・デップに似てるって言われたほうがうれしー」
と真顔で答え、クラス中の笑いを掻っ攫った。
私は困惑していた。この自由を通り過ぎた異星人が、果たしてあのみー君なのか。丸い瞳だとか無駄に存在感のある眉毛だとか共通点は色々あるけど、このお調子者が果たして初恋のみー君なのか。もしかして、名前が同じなだけの他人の空似ということもあるんじゃないのか?
「次っ! 恋するフォーチュンクッキーの振り付けいきます!」
馬鹿すぎる。
ちらりと横目で後ろを見ると、渋谷道彦が中瀬剛に流行のアイドルの振り付けを教えていた。腰の動きがなんたるかー、ということを解きながら全身を器用に動かしていた。馴染むのが早すぎる。
私の指には綾香のくれた絆創膏がついている。綾香は今、他の子と一緒に渋谷道彦を見学している。刺した部分から私を見ているキティちゃんの顔を撫でて、私は椅子から立ち上がった。
さて、あれがもし「本物のみー君」だとして、私は一体どうしたいのだろう。あれがもし、「みー君」だったのだとしたら、私はとても嬉しい。心臓が飛び出て宇宙に飛び立ってしまうくらいに、嬉しい。今だって心臓が不安と期待でどくどく音を立てているし、体中の血が沸騰をして湯気を立てそうなくらいだった。
みー君は恐らく、私のことに気が付いていない。私は随分幼稚園のころと変わったし、時間が少し経ち過ぎている。みー君はもう、私のことなど美しい思い出の一つとして心の奥にしまってしまったのかもしれない。
わたしがいくらみー君のことを思っていても、遠く離れたみー君は私のことなど覚えてないかもしれないのだ。
そう考えたら、話しかけることが急に怖くなってしまった。もしあれがわたしの「みー君」ではなかったら? 全然知らない赤の他人で、馬鹿にされたらどうするの?
もしみー君だったとそうしても、私のことなんて覚えてないなんていわれたら、どうしたらいいのかわからない。それこそ、絶望して屋上から飛び降りちゃうくらいに悲しい。それならいっそ、もう「みー君」でなくてもいいってくらい。
トイレの水で手を洗う私の横には化粧品を持った隣のクラスの女の子がいて、ファンデを直してマスカラをつけてリップを塗りたくっている。
「今日、彼の家に行ってくるの」
なんてメイクを直すその子の隣で、別の子がウイッグを取り外して違う奴に代えていた。本当は結構髪短いんだなんて思いながら鏡を見る。
もしみー君が私のことなんて覚えてないなら、もしかしてもう、誰かのために化粧をしたりする相手さえもいなくなってしまうのかもしれないのだ。そう考えると、背中に大きな氷の塊を放りこまれた時みたいにゾクゾクブルブル震えてしまい、立っていることが耐えられなくなる。さっきまでの高揚だとか緊張とかがどこか遠くに飛んで行ってしまったみたいに動けなくなる。怖い。怖い。怖い。
体の震えを何とか抑えて教室に戻ると、渋谷道彦が歌いながら腰をふりふり踊っていた。
渋谷道彦の環境適応能力だとか社交性だとかはどうやら優れたものであるらしく、現れてから三日でクラスのほぼ全員を制覇した。それどころか、幼さを残したその顔は他のクラスどころか他学年まで広がった。教室にいれば隣のクラスの奴がやってくるし、廊下を歩けば知らない奴が声をかけた。それこそ、カッコいい生徒会の先輩から強面の不良さんまで幅広く。私だって、もう一年以上この学校の生徒として生活をしているはずなのに、え? こんな人いるの? って言う人まで渋谷道彦と仲良くなっているものだから、奴の社交性には本当に驚かされる。
そして今、廊下側の窓から顔を出して渋谷道彦と話をしている茶色い髪の男の子のことも知らなくて、私は牛乳パックのストローを甘噛みしながらちらちら横目で観察をしていた。
私の中ではもう、渋谷道彦は「みー君」であると九割九分確定をしていた。でも、どうしても残りの一割一分の確証が持てなくて、青い空に薄ら雲がかかったみたいなもやもやを持て余す。愛嬌のあるあの目だって、味付け海苔みたいな眉毛だって、お調子者なところだってみー君とぴったり当てはまっているわけなんだけど、私よりも少しだけ高い背丈だとか丸みの少ない輪郭だとかがその可能性を否定していた。
たった一言声を掛ければいいことなのに、渋谷道彦は渋谷道彦でなぜか私に殆ど声を掛けないので話すきっかけも掴めない。と、いうのも渋谷道彦が私のことを避けているわけでは決してなくて、純粋に話すきっかけがないのだ。
渋谷道彦の周りには常に誰かしら存在をしていて、うるさいほどに賑わっていた。うるさくないのは授業中くらいであり、学校が終わるとさっさとどこかに消えていた。
私には渋谷道彦の持つ積極性だとかの欠片もなくて、タイミングを見計らって話しかけることもみんなに紛れて楽しく会話をすることもままならなかったのだ。
今日も今日とて、楽しく一日を終えた渋谷道彦は皆に見送られながら上機嫌に教室を後にした。「じゃあねー、渋やん」「ばいばい、ドアラー」「気をつけてねー、みっちー」すでにたくさんの呼び名をつけられている渋谷道彦は、教室を出る直前にクラス中にちゅっちゅとキスを投げまくった。
私は私で決してつまらなくはないけれど、対して面白みのない一日を終えて帰宅をする準備を終える。いつもだったら綾香と一緒に帰るのに、綾香は違う学校に通っている彼氏と遊ぶんだって。「一緒に遊ぶ?」とか言われたけど、名前も知らない友達の彼氏と一体何して遊べというのか。そんな気まずいことなんてしたくないから、やめておくと断った。
下駄箱の辺りには彼氏と一緒に話している子とか友達と遊びに行く予定を作っている子とかたくさんいるのに、私はやっぱり一人ぼっち。
家に帰ったらどうしよう、なんか面白いテレビやってたっけ。ああ、そういえば今日は、楽しみにしていたあの雑誌の発売日だった。じゃあ駅前の本屋に行こうなんてことを考えながら歩いていると、私は後ろから声を掛けられて足を止めた。
そこにいたのは、制服をちょっと乱れた感じで着た女の子三人。皆可愛いけどちょっときつめの顔立ちで、化粧もちょっと濃すぎている。スカートだって短すぎてパンツがちょっと見えそうだし、ブラウスのボタンを開けすぎて隙間から胸が飛び出てきそうだ。
「あんた、
真ん中にいた女の子にそういわれて、私はうん、と頷いた。その子はいまどき珍しくガングロで、というか全身見事に焦げていて、それなのに唇だけなぜか白くてそれが体の黒さを際立たせている。髪の毛だって染めている上にくるくるとパーマをかけていて、傍から見ても明らかに痛みまくっている。
「あんたでしょ? 人の男に手ぇだしたビッチって」
その子の白子みたいな唇が紡いだ言葉に、私は思わず「はぁ?」と間抜けな声を返す。頭の上から大きなハテナマークを出して首を傾げると、真ん中にいた山姥みたいな子にバンッ! と左の頬を叩かれる。え? 私なんで今叩かれたの? 意味わかんないとか呆然としてると、「ちょっとこいよ」と体育館の裏に引き込まれた。
体育館の裏は妙に広いくせに日当たりが悪くて植物ばっかり生い茂っていて誰もこない。こんなところ誰も片付ける人なんて誰もいないから、煙草だとか飴ガムのゴミだとかあちらこちらに散らばってる。たまに金髪で強面の三年生だとかがここで彼女といちゃついてたりするんだけど今日に限って誰もいない。
連れ込まれた私は、雨の跡とか鳩の糞とかたくさんついた体育館の壁にどんっ!
と背中を叩きつけられる。
いきなりの展開に、じんじんと熱を持つ左の頬を抑えてぽかんと棒立ちしていると、例の白子唇の女の子が下から舐めるようにして私の顔を覗いてきた。
「知ってんのよ、あんたがこないだ、ヨーコの彼氏と遊んでたの」
白子唇の女の子は、後ろで神妙な顔をしている女の子を差した。これまたガングロのその女の子は、突き刺さるくらいに睫をいっぱいつけていて、頬っぺたにはなぜか星のシールを付けている。眉毛はすでに消えていて、その代わり無駄に盛り上げられた頭にたくさんのリボンが盛られていた。謎だ。
「かれしぃ?」
状況が全く分からず聞き返すと、白子唇の女の子に「とぼけんじゃねぇ」と怒鳴られて、私の心をビビらせる。
「タケルよタケル! あんたがヨーコの彼氏と一緒にカラオケに行ったの、サヤカが見たっていうんだから!」
サヤカ? 一体誰だよサヤカってとか思って視線を周囲に彷徨わせると、ヨーコの傍に付き添っていたツインテールの女の子が怖い顔で頷いた。この子はガングロじゃないけれど、やっぱり眉毛はもうなくて、睫もちょっと多すぎる。アイラインを引き過ぎて目の周りは羽子板で負けた後のようになっているし、グロスを塗りすぎて脂っぽいものを食べたあとみたいに唇がてかてかと光っていた。
「たけるぅ?」
「そうだよタケル! 吉住健に決まってんだろ!」
えぇ、それって一体誰だったっけとか考えて、私は先日の嫌な記憶を引っ張り出す。吉住健。あいつか。汚いパンツを見せながらへたくそな歌を披露して、私の大事な唇を奪いやがったあの男。
「あー……」
「てめー、ヨーコ謝れよ! ヨーコは、もうずっとタケルと付き合ってんだよ!」
白子唇の子に言われてヨーコちゃんの方を見ると、ヨーコちゃんはサヤカに慰められながら泣いていた。あんまり泣くと、睫取れちゃうんじゃないの? とか余計な心配をしながら、私はなんとも言えない気持ちを抱く。
ヨーコちゃん、あの吉住と付き合ってたの? つうか彼女いたの? 彼女いたのに私にわざわざ言い寄ってきたの? こんなに一途な子がいるのに? それって私に怒るのお門違いってやつじゃないの? しかもあいつ、私のこと押し倒して大事な唇奪ったんだよ? いっそのことこれを機に別れた方がいいんじゃないの? とか色んなことを考えながら、取り合えず私は謝るべきなのかなぁとか思ってしまう。
「……ごめん?」
「なんで疑問形なんだよてめぇ!」
その白い唇が唱えた巻き舌は、またしても私をビビらせる。この子怖いなぁとか思いつつ鞄を大事に握りしめて、すぅっ、と小さく息を吸った。
「……ごめんなさい。でも、あれは吉住の方から言い寄ってきたんだよ?」
私の正直な弁解に反応を示したのは、目の前の白子唇ではなくて後ろで泣いてるヨーコちゃん。
「タケルは、あんたがしつこく言い寄ってきたから仕方がなく付き合ったっていってたもん!」
そういうヨーコちゃんの睫はやっぱり半分取れていて、紫色のアイシャドーが涙と一緒に流れて汚い。恋に泣くヨーコちゃんはとっても可愛いのにその姿は山姥のようで色々と残念でままならない。
ヨーコちゃんの言葉に、私は色んな意味で絶望して、そしてそれ以上の呆れを持つ。ヨーコちゃん、やっぱ吉住と別れた方がいいって絶対。
なんてことを思っていると、白子唇の女の子はフェンスの隣に立てかけてあった竹箒を手に取って、私に向けて振り下ろした。その時の女の子がまるで鬼のような山姥のような般若みたいなすごい形相で、私のことを驚かせる。ごろごろと転がるように逃げていると、女の子はゴキブリをしつこく追うようにして箒を叩きつけてくるものだから、人生17年目にして初めて生死の危険を感じた。何この子超怖い。私このまま殺されちゃうんじゃないのとか本気で思う。私は私で活きのいいゴキブリみたいに逃げ惑っていたんだけど、端の方に追いやられて身動きが取れなくなる。白子唇の女の子が狙いを定めた猟師みたいな顔になって、死を覚悟した私は一瞬の隙をついて相手の足を蹴り飛ばす。その子の枝みたいに細い体が怯んだ瞬間、小さな両手の握った竹箒を奪い取る。トンッ! と軽く突き飛ばすと、細い体はあっという間に力を失ってペタンと地べたに座り込んだ。スカートはやっぱり短くて、布の面積の少ない紐ばっかりのピンクのパンツが見えている。奪い取った竹箒を力一杯その子の真横に突き立てて、いう。
「一応言っておこうと思うんだけど」
息切れ交じりにそういうと、白子唇の女の子は震えた声で「は……はい」と返事をした。
「私、吉住と付き合ってないし。それどころか、もう二度と会うことないと思うから。あと、最初言い寄ってきたのはあいつだから」
それから私は、ヨーコちゃん! と後ろで抱き合って震えている女の子に声をかけた。
「吉住と別れたほうがいいよ。あんなやつと付き合うのもったいない」
そういって立ち上がり、力を入れ過ぎてちょっとだけ地面にめりこんだ竹箒を抜く。先の部分からぼろぼろと湿った土が落ちてきて、白子唇の靴下にかかった。今時ルーズソックスと珍しいとか思っていると、三人の女の子たちは半泣きで逃げ出していった。三人揃ってパンツ丸出しなものだから注意しようかと声をかけると、更にスピードを上げて逃げた。
あまりの逃げ足の速さに箒を持ったまま立ち竦む。それから、遠いところから聞こえてきた竿竹屋さんの声で我に返り、箒を元の場所に戻しておいた。
「見っともないなぁ」
パンツ丸出しで逃げた彼女たちは充分見っともないけれど、私だって他人のことは言えなかった。
草の上を転がって全身見事にぼろぼろだし、あちらこちらに草や石ころが付いていた。膝小僧は擦り剝けてちょっとだけ血が滲んでいたし、掌を虫が伝っている。鏡を見なくても髪の毛がぼさぼさなのは自分でわかるし、きっとあちらこちらに散らばって、砂利だってついているだろう。
転がっていた鞄を拾って制服を軽く叩くとなんだかちょっと泣きたくなり、ぼやく。
「……なにやってるんだろう、私」
「いやいや、かっこよかったですよー」
突然飛び込んできたその声に、私は思わず箒を身構える。
「あの、箒を突き刺したときなんかかっこよすぎて惚れそうになった。シビレル―」
と、語尾にハートマークでも付きそうなくらいに軽快な口調。他の男の子に比べてワントーン高い無邪気な声。
その声の主は、右斜め上のフェンスの上に座っていた。目が合った瞬間、待ち侘びていたというようにしてストン! とまるで少年漫画のヒーローのように飛び降りて、私の前に現れた。
愛嬌のある大きな目とプロ野球球団のマスコットのような眉毛を持ったその男は、にこにこという太陽みたいな笑みを称えていた。
癖のない黒い髪と、白いスニーカーの指の先まで眺めてから、私は言った。
「……いつから」
「ううん?」
「いつから、いたの?」
声を押し殺したように私が言うと、渋谷道彦はうーん、と唇を尖らせて考えるような仕草を取る。
「あんた、高崎愛? の辺りから?」
「それって滅茶苦茶最初じゃない! 馬鹿!見てたんだったら助けなさいよ!」
なんて突っ込むと、渋谷道彦はぶー、と不服そうに頭の後ろで腕を組んだ。
「だって、あの子たち怖いんだもん。顔なんか妖怪みたいだし。箒持って追いかけてくるし。こーんなんだぜこーんなん!」
なんて身振り手振りで先ほどの白子唇のまねをする渋谷道彦。子供みたいな行動に、私は頭を抱えて蹲る。
すると渋谷道彦は、とことこと距離を縮めまるで子供をあやすように私の肩をぽんぽん叩いた。
「まーまー。どっちにしても、あいちゃんが無事だったのならいいじゃないですかー」
ねぇ、とひどく間延びをした声で言われて、私はなすすべを失くしてしまう。こういうやつなのだ、渋谷道彦という人間は。人間の持つ毒気だとか、嫌味だとかをいとも簡単に吸い込んで、どこかへ追いやってしまうんだ。
それから私は、少し遅れて渋谷道彦が私のことを名前で呼んだことに気が付いた。
「……あいちゃん?」
「そう、あいちゃん」
地面に体育座りをするようにして蹲る私。
渋谷道彦は、そんな私と視線を合わせるようにして屈みこむと、いまいち焦点の合わない私の目玉を覗き込んだ。
「……みー君?」
「はい。みー君です」
それがなにか? という、人を小馬鹿にしたようなその口調。
その言葉は、まるで鈍器のように私の頭を殴りつけ、炎のように全身の熱を上昇させていったのだ。
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