第一章 みー君ですが、なにか? 2

 雨上がりの朝はいつもより少し寒かった。

 カーテンを開けると、気持ちのいい太陽がピカーッと部屋に差し込んで、私の体内を活性化させる。緑の木の葉に朝露が光ってとっても綺麗。

 着替えて降りると、いつもはリビングでコーヒーを飲んでいるはずのお父さんがすでに出かける準備をしていた。不思議に思って問いかけると、

「お父さんの会社に、新しい人がくるんだ」

 社会人は大変だね。

 朝ごはんを食べて外に出ると、朝の爽やかな空気が体中に広がった。少し歩いていると、後ろから自転車に乗った綾香がやってきて大声で私の名前を呼んだ。

「愛ちゃん、昨日どうだったぁ?」

 わざわざ自転車から降りて私の隣に並ぶと、まるで悪戯を仕掛けた子供みたいな顔を作った。

「どうこうもないよ。最低」

「うっそー。恥ずかしがっちゃってー」

「違うの。もう二度と会わないからいいの」

 ぷんっ、と膨れっ面で顔を反らすと、綾香が興味深げな顔でこちらを覗き込んできた。それからくるりと私の前に回り込んで、

「大丈夫だって。男なんてたくさんいるし――ああ、そうだ。今日ね。転校生が来るんだって。格好いい男の子だといいね!」

 そうだね。少なくても、吉住健よりもいい男だといいよね。



 学校へ着いた私には、仕組まれたとしか思えないような不運が待っていた。

 まず、昨日の雨で濡れていた玄関先で滑りお尻を打った。それから、なぜか天から植木鉢が降ってきて、天文学的な確率で私の頭に命中をする(三年生がベランダでふざけていて、育てていたアサガオをうっかり落としてしまったらしい)更に教室のドアに小指をぶつけて、机の端で棘を刺した。

 綾香に借りた刺繍針でちくちく棘を取りながら、もしかして今日は厄日なのかもしれないとか思う。いや、昨日今日だから厄週間? 女の厄年って一体いつだったっけなどと考えていたら、うっかり針を刺し過ぎて、ぷつんと赤い水たまりができた。

 あ、刺しちゃったとか人差し指を咥えたら、隣の席の中瀬剛と目が合った。中瀬剛は、厚い眼鏡の奥から恐々と覗くようにして

「痛くねぇの?」

 痛いよ。

 傷口には綾香から貰ったバンドエイドをつけた。キティちゃんの模様の入った可愛いやつ。

 そうこうしている間に先生が教室に入ってくる。目ざとい誰かが、

「せんせー。転校生はどうしたんですかー」

 と声を上げると、先生は困ったように腕を組んだ。

「それがなぁ、まだ来てないんだよ」

 ざわめく教室。先生は静かにしろよーと出席簿を手に取ると、

「今日来るはずなんだけどなー。もしかして、道に迷っちゃったのかもしないなぁー。電話をしたら、とっくの昔に家を出たっていったからなぁー」

 のたのたと出席を取り始めた先生の声を聞きながら、どうやら転校生はとてもルーズな奴らしいと私は思った。


 転校生はホームルームが終わり一時間目が終わってもこなかった。

 二時間目が終わった辺りで、クラスの誰かが「間違えて前の学校いっちゃったんじゃねぇの?」と言い出して、三時間目が終わった後には「転校が嫌で逃げたんだよ」とか言い出した。

 各教科の先生たちは、出席のたびに不思議そうに首を捻っていた。

「あの子、まだ来てないの?」

 今年25歳を迎えたばかりの増田先生はとても綺麗でまだ若い。清潔感のあるストレートヘアーを項の辺りで一つに纏め、黒のパンツスーツに身を包んでいる。スラッと背が高くてモデルみたいだ。

 きてませーん、と委員長が答えると、そうなの、と呟いて出席を取り始めた。後ろの席の高郷まどかが、「転校生ってもう来ないんじゃないの?」と呟いた。そうかもしれない。別にいいけどと思う反面、ちょっと残念。

 増田先生率いる日本史の授業は、今日から第一次世界大戦に入っている。千九百十四年年のセルビア事件だとかオーストリア皇太子の暗殺だとかそういうことを覚えながらも、半分くらいは夢現だった。

 今日はとても天気がよくて、爽やかで、六月の日差しが心地よい。青い空には丸い太陽がにこにこきらきら笑っていて、ほどよく眠気を誘ってくれる。窓際のやつらはすでに眠気に負けていて、綾香だって突っ伏したまま机に涎を垂らしていた。

 かくいう私も例外ではなくて、大きな窓から差し込む魔法に意識を奪われてしまっていた。先生の声は子守唄のように聞こえたし、教科書の文字は怪しい魔法の記号に見えた。

 眠る準備は万全で、さぁいつでも寝れるぞっていうその時に、コンコン、というガラスを叩くような音が耳に入った。小鳥かもしれない。学校内の木には鳥の巣があって、時々小鳥が石を投げたり悪戯をするのだ。

 だからあまり気にしていなかったのだけれど、あんまりこんこん煩いから音の方向へ目を向けた。

 そこにいたのは鳥ではなく、学生服を着た男の子だった。

 背はあんまり高くない。というか、目に見えて低い。私と同じくらいの背丈か、それより少し高いくらい。そもそも体自体が大きくない。童顔だ。小っちゃい顔に、ぐりぐりとした大きな目と立派な眉毛とよく動きそうな口が絶妙な位置に並んでいる。その男の子は地面からずんと伸びた木に座り込んで、手の中にある小石をこんこんとガラスに投げ当てていた。

 窓際の生徒は、大部分がすでに気が付いているらしく、笑いを堪えてるような新しい生き物を見たようなもしくは見てはいけないものを見たような、なんとも言えない表情を作っている。

 増田先生は、話を聞いていない生徒たちに気が付いて叱咤しようと睨み付けた。それから、私たちの視線の先にいる男の子の姿を捉えて、彼女もまた何とも言えない顔をした。 

「と……とりあえず開けてみたら?」

 気の利く誰かの提案で窓際の子が窓を開けると、その男の子は慣れた様子で教室内に飛び込んできた。

 男の子の体には、木葉とか木屑だとかがたくさんついていた。髪の毛もぼさぼさで雀の巣のようになっていて、かと思ったらすでに小鳥が乗っていて私たちのことを驚かせる。

 男の子は、窓から身を乗り出してそれらの汚れを叩いて落とすと、のたのたと先生の傍に近寄った。先生は行き成り現れた小柄な男の子のことをじっと見て、それから急いで生徒名簿を捲りだした。

「渋谷、道彦……くん?」

 増田先生の言葉に、渋谷道彦は「いえぇぇぇぇす!」とテンション高く叫んだ。

 それからくるりと回転をし、まるで劇団員のように両手を左右に動かすと、

「渋谷道彦でぇぇぇえす! よろしくお願いしまぁぁぁぁぁす!」

 と、一昔前のアイドルのようなポーズを取り、ウインクをしたままの体勢で固まった。静まる教室。わたしは目の前がぐらりと暗くなることを自覚した。

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