名を知らぬよく知る人
それはもう、見事なまでの化け方だった。長きに渡り王国に尽くしてきた騎士としてそれなりの邸宅を与えられ、それなりの生活をしてきただろうに、彼は貧民の様相もその顔に見え隠れする悲哀も、地の底を覗くように歩く背格好も全て再現してみせた。
「どこから見ても乞食ですこと」
ファオンが感嘆したようにいい、誉め言葉ですわよと慌てて付け足した。
「ミク様もよく溶けてございます」
そう絶賛されたこともあり、二人は自信をもって貧民を演じられた。それが結局、露呈のしにくさにも繋がっただろう。
「私のことはディラとお呼びください……母の名なのです」
「お母上の。では私はハミルとでも名乗りましょうか。――互いに敬語は厳禁だぞ、ディラ」
「わかってるわ、ハミル」
そう話ながらいよいよ王国軍の勢力下の町に近づいていく。
そうするとふと、ディラに化けたミクが立ち止まる。
「あれは……?」
見慣れた、名前も知らぬ人がいた。
「
ミクの才能を港で見つけ、長く応援してくれていたその人であり、ミクの初恋の相手その人であった。しかしミクは彼すなわちキラブラが、シリという名でスパイをしていたことなど知らない。思わずそちらにふらふらと傾きかけるミクを、ハミルすなわちサオンが身体で止めた。危ない相手だと見抜いたのだろうか。
しかし二人の乞食の動きのよどみにキラブラも気づいてしまった。王子妃ミクを見慣れて久しい国民にとっては乞食に扮したミクはミクに見えないだろうが、キラブラにとってはこの姿のミクこそが恋い焦がれたミクそのものである。キラブラは一目で王子妃だと見抜いた。王国への内部工作を見抜きかねない切れ者の第二王子ミラケルの心を折れさせる手段として殺害を命じられたが、最後まで抗ったその相手である。忘れるわけも、見間違えるわけもない。
「生きていたか、歌歌いのカナリア」
その身なりは貧相で、顔はやつれている。死地を彷徨ったラカルの比ではないほどに。そして彼の後ろの路地に暗い影が見え隠れする。
「あれは……スパイの末路か……」
「スパイ……?」
ハミルがサオンに戻って呟いた。レオンがワサを処刑したときに恩赦されたキラブラだが、そのレオンは国外亡命の憂き目にあったため、権力の波の谷に落ち込んでしまい、レオンの後を継いだ臨時政府に利用価値はないと判断されたのだ。そんなことをサオンはまだ知らないが、勘付くなにかがあったのだろう。
「……ッ」
「ミク様のご友人ですかな?」
「しかし……ここで私情はっ」
「助けましょうか」
反抗する手段を全て奪われた上で町に放たれ、誰とも接触することを許されず追剥に襲われたように偽装され死ぬだけの男を、サオンは救うと言った。それ以上は言わなかった。それがミクにとっては有り難かった。利用価値があるから命を救うと言われたら、利用されることでしか生きていけない男の生きざまが心に迫るようで、苦しくなっただろう。
サオンは老いたとはいえ騎士だった。側にあった棒切れで瞬く間に刺客五人を打ち負かせた。ミクは目を見張った。かくして、キラブラは第二王子傘下の手に落ちた。
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