下野した妃

看板娘

 ルミディア王国王都、国王の暮らす王宮での失火から三か月。王子妃ミクは王宮から消え、身分不明の子どもが第二王子邸に暮らしていた。ミクは極秘裏に出産を終え、以降、鬼籍に居る者としての扱いを受け入れた。


 それでも、絵師によってミクの顔は国民に知られている。国外逃亡が検討され実際にそうなったのだが、ミクが譲らないことがあった。


 決して、自分に貴人の警護はつけないこと。そして、自分の顔を傷つけることを、第二王子ミラケルに許しを乞うた。自分は元はといえば貧しいストリートチルドレンである。自分はそこに立ち返る必要があると言った。


 ミラケルは理解に苦しむ顔をした。何とか思いとどまってくれないかと言ったが、ミクはとうとう折れなかった。ここで詰めを甘くしたせいで全て――王子の志まで無に帰してしまうのが許せないと言った。


 あの屋敷の、雑用をする下女の類いが使うような、錆びついた扉からミクは出た。万が一不審に思われてはいけないと、その扉までの王子の見送りも許さなかった。人が違うのではないかと思うほど、このときのミクは子と離別するにも関わらず母の覚悟を秘めていた。


 王宮のなかをむやみやたらに覗く者がいないとも限らない。そうしたら、あの時のように自分の素性が暴かれ、王子の足を引っ張ることになりかねない。


『君がそこまで言うのなら……きっと戻ってきてくれるね』


 入念に忌まわしいけもみみを巻き付けた布で隠した状態で、暇をもらった下女のように屋敷をでる。町を進むごとに、彼女は身につけた質のいい布を、畑の中を器用に歩いて農民のクズ置き場に一枚づつ捨てていく。ボロ布で身体を覆っただけの、明日をも知れぬ病人にも見えるように変装したミクは、やがて一振りの短刀を懐から取り出した。


 覚悟を決めていても、やはり手は震えるものだった。そして刃の根元からすうっと頬に傷を走らせる。その感覚は痛みというよりは冷たさ・・・だった。戻ってきますと言わなければ許してくれないと思ってついた嘘を責め立てるような感触だった。


 ミクは名を変えニニ国にいた。憐れな孤児に身をやつして居酒屋の店主に拾われては、今日も忙しく接客をこなす。幸いなことに、移民労働者の少ないこの国では移民と国民の諍いも少なく、結果として移民に対する差別もない。移民のためにと何でもかんでも諸手を挙げて受け入れてきた王国とは対照的だ。審査を厳しくせねば邪な心を持った偽装移民がなだれ込み、彼らが移民自体の印象を悪くしては結局移民のためにならないことがミクにもわかる。


 自分でつけた頬の傷で、王子妃ミクだと気づく客はまずいない。だからといってどうということはなかった。居ない者とされるのには慣れていたから。


 ――ミクは王宮での失火により、お腹の子もろとも死亡した。王子をたぶらかし過度な移民優遇で国を分断させた悪女で通っているミクが生きていることを知るのは、ミク自身と夫である第二王子、スパイのワサ、そして第二王子の妃のファオンのみである。ラカルにすら、ミラケルは明かしていない。


 王宮の失火で親を亡くした下女の子を引き取ったという名目で、今ミクの子はファオンが育てている。利発な子と風の噂に聞き嬉しく思うが、敵国のスパイの気まぐれで生かされた身である以上他人の心変わりで簡単に奪われる儚い命である。


 そんなミクは時折歌を歌わされた。つい歌った鼻歌が客の耳に止まり、今では薄給で働く鉱山労働者を癒す恒例の催しだ。王子を射止めた母を思う歌を、子として歌っていたあの日とは違い母として歌う。歌いながら、ミクは王国に思いを馳せていた。


 ミクはニニ国で多くのことを学んだ。ルミディア王国があった平地にはかつて千年続いた帝国があり、周辺諸国に朝貢を要求して見返りに強大な軍隊で安全保障を実現するという体制が敷かれていた。  

 

 しかし現国王の五代前に帝が弑され、皇帝の国は開かれた商いの国として生まれ変わった。そんなことを、薄給の労働者も知っている。受けた教育水準が高い大人たちのもつ秩序を見る。そして、出稼ぎ労働者が故郷の娘を想ってミクに手習いを教えるのに、ミクは感謝を込めて高らかに歌う。


 一方、王国は経済活動は活発になり潤った商人もたくさんいるはずだが、千年続いた国を終わらせた血に、国を開いて他国の対等の位置に威信を下げた王に国民は複雑な感情を抱いている。


 かつて帝政が混乱し国民は確かに代替政権を望んだ。しかし、国民が想定していたのは今まで頻繁になされてきた、皇帝の遠縁の青年を担いで闘い新たな帝政を創始するという方法だった。現王族たちに皇帝の血は入っていない。王家はまったくのなりあがりだった。


 国民の信託に応えると豪語して皇帝の血を廃したことは王家にとって良かれと思って成したことだったがそれに対する国民の反応が誤算だった。辺境の蛮族に過ぎなかった現王家は新しい帝の後ろ盾の勢力の役割しか期待されていなかったのである。


 そんなこんなで王家は五代続いた。ニニ国が王国の創始からずっと王国と友好関係を続けているのは、無理な朝貢を求めてきた帝国が煩わしかったからである。そしてそれを倒した王国に妃を嫁がせてきた。弱小国ではあるがニニ国は古くからある国である。


 今、王国は移民排斥と移民擁護で官民、王族までもが割れている。両陣営が情勢に過敏になっている今、仮に不法移民を武力で強制送還しても移民擁護派が弾圧だと叫ぶだろうし、移民を優遇しても排斥派が国民を大事にしない王家だと弾劾するだろう。もう一生関わることのないだろう国のことが、妙に気になってしまうのはなぜだろうか。


 自分にできることがあるなら成し遂げたい。しかしそれは子の命がかかっている契約上許されない。


 ミクは拍手を浴びてやっと自分の歌が終わったことを知るのだった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る