覚悟を決める

 石造りの王宮には堀も塀もなく、生け垣と道路によって他と区別されているだけの裸同然の施設だった。王宮を取り巻くように王直属の騎士たちの屋敷がある。王宮が戦闘準備などするときには国は滅んでいるだろうというある意味他愛もない理由で、この国の王は平和が脅かされる瞬間のことを考えずにいた。


 そんな王はいまどんな表情でこのざまを見つめているのだろう。いや、すでに、彼自身の近くに侍る者の手によって安全な場所で何も見ずに過ごしているのかもしれない。炎によって燃やされる自らの、あるいは歴代の王の屋敷など見てしまえば、王国が長く信じてきた平和の理想などとうにないことに気づかなければいけない。それは多分、とても苦痛をともなうことなのだろう。


 歴代の王のツケを、払わされているのはミクだった。宛がわれた、中庭に面した部屋で、廊下を通る人々に会釈を返してしたそのとき、思わず鼻を押さえた。スラムにいた頃の、生ゴミが焼ける臭い……王宮から委託された業者が、スラム街から病気が流行らないようにと溜まりに溜まったゴミを焼いたときの気分が悪くなるあの臭気。


 そんな焦げ臭い匂いから、瞬く間に部屋が炎に包まれた。壁につけられていた絵画が音をたてて落ちる。ミクはそれを間一髪で避けた。


 これはただの放火ではなく、ミクを狙ったものなのは明らかである。ミクは体が固まりなにもできない。しかしくるくる動く耳と同じように頭は働いており、誰も死なぬ策を考え続けていた。そのとき、誰かに抱えられた


「殿下……?」


 影は答えない。


 一方ミクの側を一時も離れたくないのが本音の王子も、国王や兄の誘いを無下にはできずあちこちに出掛けていた。そしてやっと解放されたと思えば明日の式典の確認だとか言って呼び止められることを繰り返しやっとのことでミクの案内された部屋に向かおうとした矢先に、左斜め前のミクの部屋の方向に火の手を見た。


「ミク!」


 いくら平和ボケした王宮と言ったって、国王が生活する場所におめおめと火の手を許すほど甘くはなかろう、そう考えると、ミクを狙ったテロとしか思えなかった。


 王宮内にも工作の手が及んでいることは知っていたし、内通者もいるだろうとは思っていた。しかし、まさか実力行使にでるとは思っていなかったのだ。移民と国民の相互理解を推し進める第二王子を快く思わない勢力の存在は知っている。それがなぜミクへの襲撃に繋がるのか、まだミラケルはわからない。


「なぜ今……チッ」


 考えるより先に体が動き、馬上で鍛えた俊敏さで逃げ惑う人の波をかいくぐる。目の前にミクがいた部屋があり、燃え盛る火の玉に飛び込もうとしたその瞬間、誰かに肩をはめられた。振りむこうとしても叶わず、ミラケルはもがく。


「クッ……離せ!」


「私の話を聞いてくださいませんか」


「話などしている間はない! 妃が中にいるのだ」 


「ミク様はご無事ですよ。私が安全な場所にお連れしました」


 あくまで冷静に、淡々と話すその男に、王子は違和感を抱いた。


「そなた、何者だ」


「少なくとも、貴方の敵ではありますね」


 不敵に笑ってみせたのは、工作員のワサだった。


「敵が、この私に何の用だ」


 王子の血走った目に身体から沸き立つ殺気すらなんてことのないように軽くあしらい、固めた王子の肩を外してみせる。ワサは微笑み、王子を誘導して歩き始めた。ミクの居場所を知っている男に逆らうわけにもいかず、ミラケルは誰もいなくなった廊下を降り中庭に足をつける。


 内庭の石段の中ほどにミクはうずくまっていた。内庭を囲むすべての部屋が燃え盛っており、そこはワサの作りだした火の密室といえた。ミクは肩を抱き震えてはいるが、どこか今までにないような雰囲気を感じて王子はためらう。それはどこか強さを感じさせ、それでいてミク自身は圧倒的に弱い。


「ミク様は私に取引を持ち掛けられました。子を産み落とせば自分は第二王子邸を去る、と」


「馬鹿な!」


 王子は取り乱した。しかしワサは首を振った。


「王族規範第五十七条、両親のうち父親が不明、あるいは虚偽だったときその子供は臣籍とする。両親のうち母親が不明あるいは虚偽だった場合、その子供は王位継承権をもたない。ミク様が臣籍に下られお子が名もなき側女の子ということになれば、お子が男児だった場合もお子は王位継承権を持たず、我々の脅威にはなりえない」


「この子には苦労をさせることになりますが、この子が死なずに済むのなら……」


 か細げに告げるミクの目には母の決意があり、発言を曲げる気はないようだった。一方、脅威という言葉に王子は狼狽する。敵はこの国を乗っ取る気だとやっと気づいた格好だった。


「私の上司はミク様を殺したくないようでしてね」


 ワサが語りだす。


「旅館の方々を始末したと報告したとき、あの方は悲しんでおられた。計画が順当に進んでいるというのに。そのことにあの方の上司も気づいたようで、私をあの方とは別に遣わしてミク様を殺すよう命令しました。私は上司同士の権力抗争などに巻き込まれるのはごめんですので、ミク様を殺したとも助けたともとれる行動をしようと思い立ちました」


 ワサは燃え盛る火を見遣った。


「あの中に女の死体を投げ込んでおきました。あとは私の舌次第ですな。妃の腹のお子は私が目でみて確実に殺し他の場所に捨てたとでも言いましょうか」


「……お前が、あの宿の主を殺したのか」


「それが仕事なものでね」


「お前たちの目的はなんだ」


「――さあ、それを言っては仕事になりませんな」


 はぐらかしておいて、ワサは王子に決断を強いる。


「さあ、どうなされますか。私を信じないのも勝手ですが、いずれにせよ逃げ道はありますまい」


 周りには、火。そして中庭だけがその赤々と燃える炎から逃れえている。


「――君を、信じよう」


 狂気と陰謀に助けられた形となった王子とミクは、ぎこちなく手を取り合いモニュメントに過ぎない石段をどかした下にある地下への階段を進む。王族すらごく一部しか知りえない、秘密の脱出口だった。

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