商人として、工作員として
各国を股にかける敏腕商人キラブラは、工作員
これまでに得た情報によると、ミクを妃に迎えた第二王子もミクの歌に癒されたという。俗に言うスパイとして気の休まらぬ生活を送る自分と、その自分の工作により気の休まらぬ政治生命を余儀なくされている王子が、よりによって同じ女性を愛すことになったとは、なんとも皮肉なことである。
彼は既に内通者のいる王宮に、商人の一人として滞りなく入ることができた。門番が手元の人相書きと自分を見比べて顎をしゃくったのを平身低頭でいなし、いかにも王宮に入り慣れているお抱えの商人を装った。
懐には毒薬と短刀があった。彼の上司が用意周到だと褒めたが、短刀の方は自分が死ぬためのものである。職業上許可なく死ぬことも許されないので適当に笑っておいた。
王宮の料理を一手に引き受ける大きな厨房から裏手に出てきた料理長が、籠を担いだ商人たちの顔をざっと見る。そして、自分のもとで視線は止まった。
「初顔かね?」
「はい、各国を回り調味料を取り扱っておりますキラブラと申します。ミラケル殿下のお妃さまのご懐妊を祝う席に、北国で見つけました上質なソースを是非お使いいただければと思います」
さすがに仕入れを担う人間を欺くことはできなかったが、審査がないと入れない王宮に無事入ってきた商人がまさか敵の刃とは思うまい。信頼ある、長い付き合いの仕入れ先でも、店の人間が風邪で倒れただけで半月の仕入れ禁止を通達されるほどの審査の徹底ぶりなのだから……。王が口にする可能性もある食事には、些細な(呪術上の)穢れもつけるわけにはいかないという理論らしい。
そんな、入れ替わりの激しい修羅場において、ペコペコと妙になれなれしい新参者に向けられる、同業者の商敵を警戒する視線と料理人たちの疑わしげな視線を軽くかわしながら、料理長の目だけを見て話す。信用されるには堂々とすることだ、市民は挙動不審な者しか悪人と見なさないからな、と笑った上司の顔が浮かんでは消えた。――あなたの教えは、役に立っています。
「大事な祝典の日に私のような新参者の調味料を使えぬというのもごもっともでございます。しかし、このソースの味は絶品でございます。よければ一度、味をお確かめくださいませ」
差し出すソースを男は指ですくい、音をたててその指を吸った。ポン、と音がして料理長は笑う。
「よいな。毒見ののちに使うかどうか考えさせてもらおう」
こうなれば、勝ちである。ミクの出身である西方の民族にしか効かぬ毒を盛った。この料理長には効かないがミクがこれを食べれば死ぬだろう。王家に存在するけもみみはミク一人しかいない。毒見で見破れる毒ではない。
「ありがたき、幸せにございます」
身に余る幸せにではなく、今から己のなす所業に声が震えた。
「うむ。では下がってよいぞ」
その声を合図にして、新参者のせいで出遅れた商人たちがこぞって商品の宣伝を捲し立てる。騒がしい空間から逃げるように外に出て、短刀を握った。
――願わくば。
願わくば商人としてでもなく、スパイとしてでもなく、可憐な少女に恋をしたただのただの男として死にたかった。
王都を歩くこと
ミクもここで育ったと、調べもついている。
ここらで死のうか。そう思ったその時だった。
なにやら、王宮方面が騒がしい。見遣ると、火の手が見えた。
「火事か? ……ハッ」
背筋が凍る。視線をやや戻せば、工作員を監視する工作員、彼がそこにいた。
「あなたの考えを書記長は見抜いておいでだ」
「……」
「お前の部下を借りた。ワサがミク夫人の部屋に火をつけた。生きては帰れぬだろう」
言い終わらぬうちに舌を噛もうとしたがあえなく止められる。顎を掴まれ、声にならなかった息が漏れた。
「貴様、お前自身が我らの母国にとってどれだけ
あの毒は、人間を植物状態にするだけで死なせはしない。死なせはしなかったのに、結局こうなるのか。自分はあの子を死なせた挙句自分は死ねないのか。
「お前には、たんまり生きてもらうぞ。あとお前の計画を見抜けなかった貴様の上司には命を絶ってもらった。奴よりお前の方が
死ぬことも許されないこの本当の恐怖を垣間見た気がした。ミクが死んだ以上、キラブラには死ぬまで共和国に仕える以上の選択はない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます