臨月

 ミクの悪阻は変化していた。食べたら気分がよくなる、いわば食べづわりである。健気な少女というべき細い体だったミクも、すっかりふくよかで既に母の雰囲気を漂わせていた。


「ミク様、殿下のお帰りです」


「あら、お出迎えしなければ」


 ミクはよっこいせ、と口にして立ち上がり、侍女に照れるような笑みをみせた。ミクは他の妃の嫉妬や嫌がらせとは無縁に暮らせており、三番目の妃のサラを姉とも慕うほどだった。このところ政治にも目立った動きはなく、王子の帰りは早くミクもリラックスして過ごせていた。しかし……


「おかえりなさい、殿下」


 ミクの住む建物の玄関で王子を出迎える。屋敷には数多くの建物があるが、ミクの住む建物は敷地の奥にあった。


「……」


 気難しい顔をした王子は妻の出迎えにも気付かないらしい。乱暴にマントを控えていた男に渡すと、足早にミクの隣を通り過ぎ、奥に行ってしまった。女の前では決して出さない殺気とも呼ぶべき雰囲気にてられ、ミクは夫を追うことができなかった。


「どうなされたんだろう」


 押し込まれるような圧迫感を押し出すように、心配そうな口ぶりで言葉にしたが、控えの男もわからないという風に首をかしげてみせた。


 この男、ろうであった。秘密を聞かないようにこの建物には王族以外にはろうの者しかいない。彼は読唇術に長けているが、言葉を発することはできない男だった。彼はミクの許しをえて、王子の服を仕舞う専用の部屋に下がっていった。残されたミクはぼんやりとそこに立ちすくむ。


 ミクはみごもった身として無闇に狙われぬよう、第二王子の宮殿のなかでも政治の中心であり警備も厳しい執政所に住まわされていた。執政所は王子の寝室も備えており、そんな建物のある一室にミクの部屋が新たに整備されていた。王子が帰宅後すぐ妃の様子を見られるようにという配慮だったが、それがミクを逆に危地に立たせてしまう。


 ――王子をあんなに怖い顔にさせたのは何?


 一方ミクはというと、動くのもままならぬほどの時期が過ぎ、安定期に入ったからこそ、母親の役目は安静にすることだと諭されても納得できなかった。散々迷惑をかけた手前、身体が動くのに安静にしろと言われては思いを持て余してしまう。王子の力になれるならなりたいと思ってしまうのだ。


 やってはならぬとわかっていながらも、ミクは王子が吸い込まれるように入っていった奥の部屋に近づいていく。その足は知らず知らずに摺り足になったが、それを嗅ぎ付けたように計画が動き出す。その部屋は、妃が要らぬことを知って心の調子を崩さないよう、近づくことを禁じられている部屋――。その部屋に、第七夫人が近づくのを心待ちにしている集団がいる。


 そうとは知らず、ミクは沸き上がる興味に抗えず、会議の間を盗み見た。


(……おい、妃が窓にいるぞ)


(本当か? すぐ絵師を登らせる)


 低い声が城壁の外側で囁かれる。この日をずっと待っていた絵師が眠そうな目を無理矢理見開いた。一か月待った。やっと報酬を手に入れられる――!


 そこには、唯一敷地の外から建物の中が見える窓があった。少し前までは違う建物に隠れていたのだが、農夫ノンの裏切りを想起させる家畜舎を好まぬという第三夫人の言葉を王子が取り入れる形で取り壊されていたのだ。オッドアイの王子の目は左目が青く、窓は建物から入って左側にある。一般にオッドアイの人間は青い方の目が弱視であることから、王子の死角であった。彼がオッドアイでなければ気づいたかもしれないのだが――。


 もしかすると、今まで政治に目立った動きがなく王子と妃が平和な時間を享受できていたのは他ならない第二王子を油断させるためだったのか。


 敷地の外から、とある有能な科学者が開発したという性能のよい望遠鏡が、宮殿の中に向けられる。公私でいうならわたくしの、プライベートな時間であったから、ミクはその耳を隠してはいない。来客にはターバンで隠して応対していた。


 工作員の横で望遠鏡を覗く絵師が、驚いた声を出した。しがない春画の絵師に過ぎなかった彼は、彼の身分に余るほどの報酬に目が眩み工作員の男の先導で王族の屋敷の高い城壁に登っている。王族の管轄の敷地を侵すなど、露呈すれば即刻死刑になる重罪だったが、甘言に乗せられた絵師にはそんなことは大したことではなくなっていた。――彼は借金の返済に窮していた。魔の手は窮する者に伸びるというのは洋の東西を問わないのだろう。


 そして、望遠鏡を覗く絵師の声が上ずった。恐ろしいものをみたように目を望遠鏡から外し、キャンバスに触れた筆は震えていた。


「まさか……けもみみ?」


 その声には怖れと、穢れを忌避するような気持ちが表れている。


「はよう描かんか、警備員の巡回はもうすぐだ」


 絵師は慌てたように視線を落とし、器用に片手で第七夫人の顔のラフ画を描いていく。


 ミクが移民の……それもけもみみを持つ移民の出であることが、翌日には国中で噂になるだろう。そして、国内でテロを起こした、移民に化けた工作員も、けもみみを持っていた。


 負の感情が、王子の妃と結びつく。それがこれを仕組んだ者の狙いだった。

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