上司の苦悶

 散らばった書斎で因縁ある隣国である王国で起こったというデモの報告を聞く。なんでも、移民が国益を害していると主張する団体が暴動まがいのデモを起こしたらしい。自分が起こしたことを伝聞調で口に出してみて、その滑稽さに冷笑が漏れた。


 こうも内部工作に簡単に引っ掛かると仕事が楽だと彼は毒づいた。その団体の主張は半分間違っており半分正しい。王国に逃げてきた移民の大半は、無知なだけで害悪ではない。だから先方の第二王子が画策する、移民のための学校というのは正しい施策であり……男にとっては脅威だった。


 これから我が国の手のひらで踊ってもらわなければならない王国の国民には、あくまで移民は害悪でなければならない。そのために、移民に似せた工作員を放って王国内でテロを起こさせたりした。案の定、王国での移民への風当たりは厳しい。


 出世をかけた対象国への内部工作が上手くいっているというのに、彼は胸が苦しかった。彼に課せられた使命は、第二王子の妃の暗殺。その妃は、彼が惚れ込んだ歌声の持ち主である。


「第二王子に男児が生まれては、引き込み済みの第一王子の治世が長く続かない、か」


 王国の第一王子、すなわち次の王となる方には男児がいなかった。このまま第一王子に男児が授からなければ、第二王子の息子の王位継承権が俄然輝くことになる。


 それに、第二王子周辺の女性には知識人が多く、こちら側の工作に簡単に引っ掛かってくれないのだ。そこで共和国は、正妻しか愛さないはずの第二王子が七番目の妃とセックスをしたという身も蓋もない事実に目をつけた。


 今第二王子の寵愛を受けている妃を、腹の子ごと消せ。それが彼に下った命令。


 彼にとってこれは、できれば受けたくない案件だった。


 そして、彼はこの仕事のための情報収集を、一番優秀な部下に任せた。優秀すぎて能力に見合わない仕事をさせられている部下に。


 もしかしたら部下は上司である自分の思惑に気づくかもしれない。それはそれでいい、と彼は思った。幼いころから国の庇護下で育ち、国を裏切ることを本能が許さない自分を、外から止めてくれる人間を心のどこかで望んでいたのかもしれない。お前は自分の好いている女性を平然と殺すのか、それでいいのかと誰かに詰問されたかった。


「第七夫人ミクの臨月も近いですな」


 工作員を監視し裏切りを報告する、言わば工作員の工作員が、知らぬ間に彼の後ろに立っていた。そのことに冷や汗が出たが、さすがにそこまでは悟られていないと思いたい。


「ああ、そうだな」


「命令の完遂を望む、とのロベス様の伝言です」


 彼は背筋が凍る思いだった。あの方は、すべて見通しておられる……。彼は心を読まれまいと、ゆっくりうなずいてみせた。相手はそれを見て満足したのか、相変わらず足音をたてぬまま部屋から出ていった。


 ガタリ、と音を立てて、彼は机に手をついた。そしてそんな自分にあとから気づく。


 戸が閉まる音で、身体の力が抜けたのだと気づいたときには、彼は手が震え出すのを感じた。


 本当に、それでいいのか。


 ミクをこの手で殺していいのか。


 母親のいない自分の前で、それを知ってか知らずか、母を想う歌を歌ってくれたあの女性を――。

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