二人分の一人

 屋敷にいることを許されたことは喜ばしいことだとして、それにしてもミクの悪阻は重かった。受け付けない食べ物の匂いがほんの少し香っただけで戻してしまう。そんな主人を見守ることしかできない周囲の者たちの心労もバカにできない。


 ミクは細々と単調なものしか食べられず、体を動かすのも辛いとあって筋力は落ちた。お腹回りだけが胎児を抱くようにふくよかで、四肢は痩せ胸は力なく上下する。屋敷の外の悪意ある市民は、それを「移民の子などを嫁にした業」や「第七夫人は王家に災いをもたらす」などと無責任に論じた。


 ミクは腹に手をあてた。仕えてくれる者たちの気遣いはあれど、繊細な妊婦だからか遠ざけられた悪意も器用に感じ取ってしまう。それに敏感に応じるのは腹の子であるとはわかっていてもナーバスにならざるをえない。


 お腹は容赦なく、ミクを置き去りにして大きくなる。王子の妃ともあれば守らなければならないジンクスも多く、重要な来客があればずっと引きこもっているわけにもいかない。この後も来客があった。


 王族の妃は単に配偶者であるだけではダメで、嫁ぎ先の顔にもならないといけないのである。ミクは第一夫人であるファオンの、王女を産むまでの苦労をおもんばかった。ファオンは身ごもっていても客に毅然とした態度で対応したと聞きミクも頑張らなければと思うのだった。


 侍女も世話係もミクを気にはかけてくれ、献身的に世話をしてくれたが、しょせん彼らにとっては仕事の一つであり、一日中侍れと命じるわけにもいかない。お腹の子の父親は今日も公務に忙しい。夜にもなれば鈴こそ枕元に置かれるがミクは寝室に一人にされる。


 お腹の子も含め二人分の命を一人で賄わなければならない苦しみを、お腹の子はまだ理解していないだろう。温かい命を感じる一方で、その命を包む自分はがらんどうのだだっ広い寝室の真ん中に置かれるだけ。生命の密度に反比例する広さに心折れそうになることもある。――今夜がまさにそうだった。


「う……ん」


 泣かないと決めていたのに涙が顔を横切った。もう仰向けでは寝られないほどお腹は大きくなっている。仰向けなら拭えたのに、とミクは恨めしげに思った。


「ひっ……ひっ」


 押し殺された声は引き笑いのようになり、そのおかしさにミクは泣くことさえ忘れて無機質に冷笑した。なんて頼りない妃なのか、とも思ったからそれは自分への嘲笑でもあったのかもしれない。


 目新しかったシャンデリアも装飾の施された箪笥も、今やただの無機質な物質に成り果て、それはミクに温かさを与えてはくれない。その無機質さが自分の精神すら蝕む。


 ――そばにいてほしい。


 命を抱き続け我を失いそうになる自分を抱き止めて、狂って叫びそうになる自分を大地に打ち付ける杭がほしかった。


「んひぃ」


 もう泣けないと思っていたのに次の瞬間には声が漏れる。歯を食い縛ったのに涙は止まらない。


「ひぃ、ひぃ」


 過呼吸のような声を枕に押し付けて、ミクはなんとかその夜を堪え忍ぼうとした。


「入るぞ」


 マッチをする音がして手燭に火が灯る。


「……殿下?」


 鼻の通っていない声を王子に聞かれてしまった。


「なんだ、泣いていたのか」


 歩み寄ってきてくれた王子の、ぼんやりと見える顔はやつれていた。甘えようとしていた自分を恥じ、ミクは身体を起こす。その背中に途中から王子の手があてられた。


「すまない、最近来られなくて」


 王子も、一人で戦っているのだろうか。公務で色々な人と接し、腹心の部下も心優しい奥方もいる王子に、自分と同じ臭いを感じたことにミクは戸惑った。確かに王子も厳しい戦いを強いられているのだろうが、彼には共に戦う仲間がいるではないか。それに比べて、私は一人。


 王子を励まさなければいけないのに、くだらないことを考えていた自分を見透かすような言葉が、王子の薄い唇から紡がれる。


「大丈夫、きっと健やかな子が生まれるさ」


「……すみません」


「何を謝るのだ。お前は戦っている。私も、共に戦いたい」


 もう、無理だ。そうミクは思った。差し出された温かい手に縋りつかないと、心が壊れてしまう。妃としての品位とか、職責とか、どうでもよかった。あとで嗤われてもいい、いまは王子の……夫の胸に身をゆだねたい。


「殿下」


「膝を貸そう」


 王子はミクが起き上がったことでできた、ミクの背のあった部分によじ登り、向き直って靴を足で器用に脱いでみせた。ベッドボードにもたれる形で体勢をとり、胸をミクに対してあけてみせる。


「さあ。明日は休暇をとったから、心配することはない」


 王子の言葉に導かれるように、ミクは何日かぶりの睡眠に身を委ねた。驚くほどに、あっけない入眠だった。無礼かもと考える間もなかった。

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