頬を伝う涙

「はぁ……」


 何やら王子が帰ってきたらしく、慌ただしくなる部屋に侍女と医師だけが動かない。ミクは侍女とサヌサの二人に傅かれゆっくり背を擦られていた。先ほどからサヌサは慣れた手つきで同じ検診しかせず、ずっと一点を見つめて思案に耽っている。


 ミクには思い当たるところがあった。あの日王子に乱暴に犯された日を境にして体調がおかしい。しかし次の日には王子は所用で出かけてしまい、誰にも話せぬ秘密を身重の身体に抱えたままミクはずっと一人だった。


 部屋の扉の前に陣取っていたとみられる人の気配が消える。仕事をサボっていた訳ではないだろうが、聞き耳をたてていた後ろ暗さがあるのだろう、王子が来られると聞いてその場を去ったのだ。


 そんな野次馬たちに似た感情がミクの胸を占める。疚しいことはしていないのだが、どこか後ろ暗く感じてしまう。久々に王子に会えるという喜びの反面、複雑な立場ゆえミクの胃は痛くなった。


 王子が扉の前に立った。サヌサはひとたびミクから離れ膝をついて扉に向かう。侍女もミクの後ろに下がって膝をついた。この屋敷の主人はミラケル王子であって妃のミクではない。


 ガチャ、と重苦しい音を立てて扉が開いた。ミクはまぶたを開き正装のまま着替えもせず駆けつけた王子を見つめる。怒っているだろうか、それとも困惑しているだろうか。


「殿下……」


 王子が目を見開くのがミクにも見えた。サヌサがミクを振り返り、どこか安心したように王子に向き直る。


「初めて声を出されました。殿下、どうかミク様の手をとって差し上げてください」


 王子は小さく頷き、サヌサたちがしていたように椅子に座るミクのもとに膝をついた。サヌサと侍女は違和感なくその場を離れている。


 そんなことをしてはお召し物が汚れてしまいます……。


 そう言おうとして叶わなかったミクは、王子の温かく大きな手にだらりと垂れ下がった右手を包まれ、王子がすまぬ、と囁くのを聞いた。


 何に対する謝罪なのか、ミクは間違った察し方をした。このまま身重の身で自分は捨てられるのだと。貧民出身の妃に子を孕まれるのはやはり迷惑だったのだと。


「殿下…………」


 知らぬ間にポロポロと涙がこぼれるのをミクはその頬に感じた。短い間ではあったが王子の志と優しさに触れることができ、美しいオッドアイが一瞬でも自分だけを見つめたことは、この先どんな試練が自分を襲おうとも乗り越える糧になってくれるとミクは思った。


 例えあのスラムになんの護衛もなく放たれたとして、腹の中に宿った生命を死なせることなく、必ず誇り高い人物に育ててみせるとも。


「君、少し席を外してくれるか」


 しばしの静寂ののち、王子が侍女を下がらせた。ミクはいよいよか、と身を固くする。王子はなかなか言葉を発さない。その表情は怒りとも、戸惑いとも、嬉しさを持て余しているともとれた。


「殿下、お伝えするか非常に悩んだのですが……」


 すでに前提としてあるその事実を、サヌサはあからさまにしようとする。サヌサは王子がそれを望んでいると思ったのだ。侍女を下がらせたことは、王子自身ではなくサヌサ医師から言えというサインだったのだと感じたのだ。


おのこかい? それとも女の子かな」


 サヌサの声を遮る王子の声は努めて明るく、顔には笑みが浮かんでいた。


「……このたびは、お妃さまのご懐妊、誠におめでとうございます」


 もう引き返せない。サヌサの手によって王子の妃が身ごもったことは王家の知るところとなる。第一夫人しか手につけなかったはずの王子がミクに子を孕ませたことは、王国に様々な憶測を呼ぶだろう。


 ミクを魔性の女と見る動きもあるだろうし、男を授からない第一夫人を見限って若いミクに男の子を産ませようとしているとして王子の野心を勘ぐる動きもあるだろう。王子は今までのように自由に動けなくなり、妃たちの心も揺れるだろう。


 しかし、王子はそれほど悲観していなかった。ミクとなら、この難局を乗り越えられるとなぜか信じられたのである。強い眼差しで自分を睨んだこの少女となら。


 一方ミクは混乱していた。王子が子を喜んでくれていることは嬉しかったが、自分と腹の子が王子の夢の足かせになるならそれはミクにとって素直に喜べないことだった。


 六人の妃に先んじて男児を授かりなどしてしまっては仲のよい妃たちの和を乱しかねない。王子の意思を汲み女性独自の人脈を以てして仲間を増やそうとしている妃たちの足並みが乱れるのは、独自の活動方針をとっている王子にとって致命傷だった。


 息の荒いミクの背を椅子から少し起こし、自分の胸にミクをもたれかけさせた王子は、まだ膨らみのないミクの腹に恐る恐る触れる。ミクは王子のその手に触れ、さっきとは違う意味の涙を目から溢れさせた。


 ――殿下、本当に私でいいのですか?


 私に大命が果たせますか?


 その問いはミクの口から発せられることはなく、涙だけが流れ続けた。


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