波乱の幕開け

 ミクの体調がこのところ優れない。そしてその意味を王子も測りかねていた。料理長からの連絡を受け公務先から気を揉んでいた王子は先ほど邸宅に帰還し、ミクの付き人からの詳細の連絡を聞いていた。話が進むにつれ王子の顔が曇る。


 付き人のエルフ耳の少年が言うには、あんなに好きだった羊肉と人参の煮物も、マッカリと呼ばれる芋のスープも、ミクは受け付けなくなったという。


「お妃さまはいつも、湯気が立ち分厚く切られた肉と野菜が羊の乳をベースにしただしによくあった煮物を、大層お気に入りになり、毎晩料理長に頼み込んで食べていたというのに、その香りを嗅いだだけで吐き気を催すようになってしまわれました。料理長は初め、ご自身の味付けが悪いのかと気を病んでおられまして、私に言づてを頼まれたのです。もしや味が悪いのではないか、もしそうなら教えてほしいと。お妃さまは申し訳なさそうにこう答えられたのです。今の私には食べ物の味がわからない、と」


 付き人はミクの身体的辛さを体現するように顔を歪め目を潤ませる。それほどの大事とは思っていなかった王子は、自身の顔色がすぅっと青ざめていくのを目で見るように感じられた。


 彼曰く、ミクがもっぱら口にするのは、蒸しただけの野菜と硬いパンだけ。身ごもっていると微塵も思わないお付きの者たちは混乱し、王子に頼み込んで王家専属の医師に往診を依頼してもらった。しかし木枯らしの吹く季節柄か医師は多忙で、第二王子の宮殿に来ることができたのはミクの体調がおかしくなって二週間も後のことだった。


「ああ、サヌサ医師。やっと来てくださいました」


 付き人のカシンが医師をミクの元に案内する。王子が第一夫人にしか手をつけず他の六人の妃は部下と思っている節があると知っている医師は、最初は子を宿したなどというのは選択肢に入れなかった。


「失礼します。これは……」


 顔をあげてはサヌサは戸惑う。食べ物が喉を通らないと聞いていたので想像よりふっくらした体形だと感じたが、サヌサはいつもするように一旦頭を空にして、ミクの脈を取りはじめる。経験ある医師こそ、経験に頼らないというのが彼の信条だった。


「脈は正常なようですね……心音を聴いてもようございますか?」


 息の荒さとぐったりした身体からミクが受け答えできないと悟ったサヌサは控えているカシンに尋ねた。


「はい、よろしくお願いします」


 許可を得てサヌサはミクの胸に聴診器を当てた。心音にも異常は見受けられなかった。サヌサはまだ病を絞りきれない。膨大な候補を前にして攻めあぐねている。まだ若かったころの問診を思い出すほどだった。


「身体に痣などはありませんか?」


 体調不良が始まってからミクの湯あみの補助をしてきた侍女が答えた。


「痣などはなかったように思います」


 サヌサは診断に、思いのほか手こずった。そして避けていたある結論に達する。しかしそれを告げるべきか迷っていた。


「診断は、まだくだらないようだ」


「あのサヌサ医師が手こずっておられるのか?」


 ミクの部屋から廊下に出された召使いたちが噂する。すでに日は落ちている。サヌサはわざと診察を長引かせて、王子の帰りを待っていた。王子はサヌサに診断を任せ、後ろ髪を引かれるようにしてまた公務に出掛けていた。果たして、王子は夜半に帰還した。


「殿下、ミク様にサヌサ医師の往診を依頼していた件ですが、診断がまだ出ないようで……」


 申し訳なさそうに告げるカシンに、王子は靴を脱ぐのに手間取っている風を装ってしばらく顔を向けなかった。


 王子にはミクの体調不良には心当たりがあった。できれば診断が下る前に王子自身が向き合って話したかったが、有能なサヌサのことだから実はもう診断がついているのだろう。そして、王族全般を診る医師であるサヌサに診てもらった以上、情報の拡散は阻止できない。明日の昼には王都でも噂で持ちきりになるだろう。


「サヌサ医師を呼んでくれ」


 顔を向けぬまま、王子はカシンに告げた。


「……はっ」


「これは、ファオンの機嫌を取らねばなるまいな」


 ファオンとは王子の第一夫人であり、唯一夫人たちのなかで子を授かった女性である。しかし、彼女はそれ以来子を授かれていない。唯一の王子の血を引く者は女性であった。


 つまり王子には女の子しかおらず、その王女もすでに有力貴族に嫁がせてある。野望がないことを示すため、王子は男の子を作ってしまわないよう細心の注意を払ってきた。その注意を唯一払わなかったのが、ミクだった。


「せめて、女の子であってくれよ……」


 この国では温かい場所でセックスをすると女の子が、寒いところでセックスをすると男の子が生まれると言う民俗的な迷信がある。あの日のミクの寝所は、荒み切っていた王子の心のように、暖房がきいていない寒い部屋だった。

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