黒幕

 王子がいないと騒ぐ彼専属の家政婦の声でミクはブルン、と体を震わせた。彼に埋められた唇はいまは冷たく、歯で強く噛みしめて自分を奮い立たせようとする。しかしそれもかなわない。


 自分の部屋で人が死んでいるのを見てしまったミクはただでさえ精神が不安定で、肩を抱いたまま震えていた。そんななか誰もミクに構う余裕がなく、ましてやミクを不安にさせる言葉を聞かせてしまっては、ミクにじっとしているという選択肢はなかった。


 王子の屋敷は防衛施設でありながら、今まであからさまな悪意に晒されたことはなかった。晒されるのは専らミラケル王子で、その方法は嫌味やっかみなど。人が死ぬことはなかったのだ。だからこそ、能天気に移民は善と信じられていたのかもしれない。王子たちは移民に家族を殺された国民の悲しみを身をもって知ることになる。


 ある意味、ミラケル王子以外の陣営の、心が試されているといっていい。


 移民排斥を進めていると思い恨んでいたはずの王家に王子のような人が存在することは、国民にも移民にも幸せなことだと、彼の理想に触れるにつれミクは思っていた。しかしそれ以上に、王子はミクにとって重要な位置を占める存在になっていた。


 恐慌状態の屋敷のなかで、ミクの心は湖面のように静かだった。それは恐怖ではなく、無関心だった。王子以外のことは考えられないようになっていたのである。


 ざわ、ざわと湖面のほとりの針葉樹の森が揺れた。ミクは突き動かされた。針葉樹の暗い森のような、どこか深いところにある憎悪に。


 言葉を封じるように奪われた唇が、今王子の熱量を欲して渇いていた。水に飢えた旅人のように、ミクには王子が必要だった。ミクは、自分が手に取るものに毒を仕込まれたことよりも、それを王子に持たせたことが許せなかった。


「殿下、殿下ッ」


 裸足のまま部屋を飛び出して、真っ暗な宮殿の中を歩く。それはほとりの森のようで……


「殿下、どこにいらっしゃるの」


 歩き疲れても逸る心は足を止めることを許さなかったが、もはや視界も狭くなってしまっていた、ミクは庭園に植えられたバラのトゲに足を取られてついにミクはへたりこんでしまう。


「殿下……ッ」


 痛みがミクを湖面から引き戻した。ミクは今さらながら夜の寒さに寒気を覚え、歯を鳴らして体を擦った。冷気にあてられ早々と風邪をひいたのか、くしゃみをした。心なしか微熱もあるようだった。


 そんなミクの身体がグイ、と後ろに引かれる。大きな男の腕が後ろからミクの小さい胸に滑り込み、自らの方に引き寄せたのだ。


「殿下……」


 ミクは思考もおぼつかない。そんなミクに非情な悪意が迫る。


「誰だか知らんが人質にさせてもらうぞ」


 耳の後ろから太く冷たい声が響いた。首もとに冷ややかな何かがあてられる。


「止めろ! ミクを離せ」


 待ちに待った王子の声に安堵するとともに、目も虚ろなミク。そんなミクにあてられた刃物の切っ先が揺れた。


「ミク……様」


 野太い声の主は、農夫のノンのものだった。ミクはおぼつかない思考で彼の情報を思い出す。彼は穏やかな声で羊を導く人のよさそうな青年ではなかったか。これは本当に彼の声なのだろうか。


「ノンさん、本当にあなたなのですか」


「……」


「どうして……! どうしてこんなことッ」


 意を決したノンに後ろから腰を蹴られミクは地に伏し、身体中を走る痛みに顔が苦痛で歪む。ミクは王子に心配をさせまいと奥歯を噛んで耐えたつもりだったが、王子にはわかったようだ。


「よせ! ミクの体を傷つけるな。……何が望みだ」


 王子の声にノンが唾を吐く。それはまるで人が変わったようで、ミクの心は追いつかない。ミクの心は、今にもあの湖面に逃れようとしていた。そんなミクの耳にノンの声が響く。


「何が望みだァ? 決まっているよ。あんたの理想が実現されては困るんだ」


  ――人のよさそうな農夫の面影はどこにもなかった。


「どういうことだ!」


「対立は金を産む……戦争は儲かるんだ」


「何が言いたい?」


 王子の怒声に、ノンは薄気味悪い笑みを浮かべた。


「あんたの国とあの国が戦争をすれば、サオサーン共和国は一儲けできる……奥方を暗殺しようとした国を攻めねば王国の威信に関わるからなァ」


 サオサーン共和国は今、共和政とは名ばかりの独裁状態にある。王国と長らく戦争状態にあり、やっと戦争が終わっても敗戦国として多額の賠償金を王国に支払い続けてきた共和国の財政は、破綻寸前だったのだ。――共和国は王国と三十年前まで戦争状態にあった。


「議長ロペスの差し金か? ……待て、早まるな!」


 王子が背中に冷気を感じてノンに駆け寄ると、ノンは既に舌を噛みきり果てていた。逃げおおせるためにミクを人質にしたはずのノンが自決したのは、王子を恐れてだったろうか、それともミクに少しながら良心の呵責を感じたからだろうか。


 いずれにしろ、この陰謀の黒幕が判明したのは死人がでたなかでの唯一の救いだった。


「死の商人……それがお前たちの出した答えかッ」


 王子はぐったりと力を無くしたミクを抱き上げ、膝に乗せて馬を駆けさせた。

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