農園の羊たち

 この屋敷の人々を信用しだして、心境の変化に身体も慣れてきた頃。堅苦しく思えたドレスやラグジュアリーが、肌に馴染んできたように思えたある日のこと、ミクは堅苦しいコルセットを外すのを許され、カジュアルなワンピースで館の外に出向いた。


 今までは粗相があってはならないと緊張しては、せっかく外を出歩いても周りの風景をろくに見ていなかったことにミクは気づく。余裕がないガチガチの所作では、確かに人前に出せたモノじゃない。人を信用するにつれ、彼らの風習にも慣れがでてくるのだろうとミクは納得した。


 それにしても、美しく高い空だった。四季を通じて温暖なルミディア王国ではあったが、夏になると季節風の関係で商船はあまり来なくなる。つまり陸路や河を伝っての商いが盛んになる時期でもあった。隣国との国境に流れるラオ河では北国ニニからの鉱物の取り引きが盛んになると聞く。お陰で港は閑散としているらしい。


 ルミディア王国の在る大陸は大半が寒冷だが、ルミディア王国と隣国のサオマーン共和国は南の島に当たって流れ来る海の暖流のお陰で気候は温暖、大陸にしては珍しく冬でも港も氷で閉ざされない。不凍港という奴だった。


 ミク自身は、あの商人が来る時期しか港に出なかったから、あまり気にしていなかったことだった。


 つい一年前まで、自分がいたはずの港を回想するミクは、夏であるのに胸の内に木枯らしが吹いたような、言い知れぬ寂しさを感じた。そんなミクに、動物の奇妙な鳴き声が届く。ミクの耳は立ち、くるくると音の出所を探った。


「羊……?」


 フワフワと豊かな毛を持つそれは、どうみても羊だったが、ミクは首を傾げる。


「羊に角なんてあったっけ?」


「それが、あるんですよ。姫様」


 後ろから聞こえた声にミクは心底驚いたようで、口の開きだけで「いつの間に」と伝えた。それが可笑しかったのか、声の主は口を開けて豪快に笑った。田舎の愉快な牧場主といった印象を受けた。


「少し前からここにおりましたよ。見ないお顔だなあと思っていたところです。もしや、貴女がミク様でございますか?」


「は……はい、そうです、わ」


 驚いたのもありせっかく身に付けた言葉遣いがすっかり庶民のそれになっていたことを知りミクは恥じらう。しかし男は気にするな、という風に手を軽く上げ、話を続ける。


「この国の家畜としての羊は、ヒトに害を為さぬよう角が切られるか、角のない種類として生まれます。殿下はあえて、角のある羊をお屋敷に飼っておられるのでございます」


 この屋敷に住むようになってから、色々なことを学んだ。あえて、の意味をもうミクも分かるようになっていた。ありのままの姿で人が生きられるような国づくりをすると、飼う羊一つをとっても宣言しているのだろう。王子の言葉が脳裏をよぎった。慣例を重んじる世界で慣例を壊すのは並大抵の努力ではできないこと。


「それにしても、よい天気でございますなあ」


 さっきまでミクが見上げていた空を見上げて彼が言う。ミクは今さら見上げる気にはならず、目の前の男に興味を示し続けていた。


「ちなみになのですが……貴方のお名前はなんというのですか?」


 男は頭をかき、そういえば名乗っていなかったとまだ豪快に笑ってみせる。


「ここで農夫をやっておりますノンと申します、お見知りおきくださいませ」


 ミクの受けた印象通りの立場と名前を名乗り終えると、良いことを思いついた、とノンは膝を打つ。それを見てミクは目を二三見開いては閉じた。


「ミク様も、ぜひ羊の世話をしてやってくださいませ。この子たちも喜びます」


 ミクはノンの言葉に甘え、ブラシで羊の毛をとくのを手伝った。メエェメエェと鳴く羊は、目を細めてミクにブラッシングを許し、確かに喜んでいるように見えた。ミクは先ほど感じた寂しさが、風に乗って癒されていくのを感じた。


 私には、ここがある。例えかつての自分と変わってしまっても、慕ってくれる人がいるここなら、自分を見失わずに生きていける。


 そうミクは思った。

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