ある日の午後

 パーティーが終わった次の日の午後のことだった。


 前日の気疲れか昼近くまで眠りこけていたミクは、肩を撫でる温かい感覚に気づき戸惑いながら目を覚ます。


 朝にしては明るすぎる、窓から差す日差しを目の端で捉えてもしばし夢の中だったミクだが、前日ドレスを着たままベッドに横になり考え事をしてはそのまま意識を失ったところまで思い出すと、恥ずかしさのあまりすっかり頭が冴えてしまった。


「おはよう、姫君」


 慌てっぷりをからかうようなその声はまごうことなく王子のものであり、ミクは顔が真っ赤に染まるのを感じた。


「殿下ッ……いつからそこに?」


「そうだなぁ、君の寝顔を堪能させてもらったよ」


 昨日正装の王子が見せた、物言わせぬ威容とは打って変わった、やはりくだけた口調である。ミクはそのギャップにまだ振り回されてばかりだ。これが王子の魅力といったらそうなのだが、慣れないままでは心臓に悪い。


「そんな、お戯れを」


 ミクは腕の上で寝てしまったため痕がついた頬をゴシゴシと乱暴にこすり、立ち上がってはドレスをパタパタとはたいた。


「殿下はお暇なんですの?」


 何の気なしに聞いてみる。昨日のパーティが一種のきっかけになって、違和感なくすっかり板についた姫様言葉になんだか自分でくすぐったくなりながら、王子の反応を待つ。


「フフ。二人きり、いやこの宮殿のなかにいるときは、ミクのままでいい。昨日はあんなことを言ったが、しばらくミクにはここでのんびり暮らしてもらうよ。作法や仕来たりを頑張って覚えたごほうびでもあり、気張らずに貴人であり続けられるための訓練でもある。諸外国から来る国賓は、着飾った優雅を見抜くからね。まぁ、のんびりしてよ。君が羽を伸ばすのを見て私も羽を伸ばすから」


 せっかく苦労して身に付けた鎧を、今さら脱げと言われたようでミクは困ってしまった。所作の数々、ドレスの端を踏まないための歩き方から指先の置き方まで、それらはここに居続けることができるための命綱に思えたのだ。これができなきゃ自分に生きる価値はないと言われているようで、見えないところでミクは無理をしていた。


 そんなミクの心を察してか、王子はいつになく真摯にミクの目を見つめた。


「ありのままのミクをもっと見せてほしい。君が私の理想とする国の在り方に共感してくれるというなら尚更、仕来たりばかりの政治の世界で私が理想を見失わないための杭になってほしい。君が君の耳を隠して、慣れない所作をして、飾り立てて、鎧を被って……君がそうしなければ立ち入れない世界のなかで、そうしなくても生きていけるために闘うのは、思っているより骨が折れることなんだ」


 王子のオッドアイの美しい目に、ミクは釘付けになる。そして、気圧されるようにうなずいた。


「じゃあ、君の全てを見せてくれるね?」


「……えっ、あっ」


 王子は瞬く間にミクの唇をふさいだ。息の仕方を忘れたミクは王子の体にすがり付く。突然のことに頭と身体が混乱し、ビクンとその身が跳ねた。そして戸惑いつつも、王子の舌に自分の舌をくっつけてみようとした、その時だった。


「……すまない。君は慣れていないんだったね」


 思い出したかのように王子は身を引いた。ミクは引きずられるように前のめりになり、そして躱されたことを受け止めようとする。王子はそんなミクを見て悲しそうに呟き、気まずいまま部屋を出ようとした。そんな王子に、ミクは慌てて追いすがる。


「ごめんなさい、初めてで……」


 拒絶したわけではない。それだけを伝えたかったのに、王子の志を受け入れる用意があると言いたかったのに、王子は手早く身だしなみを整え大仰な扉へと向かった。


「ミラケルさまッ」


 初めて彼の名を呼んだ。王子は殿下と呼ぶものと教えられ、それを忠実に守ってきた。しかし、いま名を使わずしていつ呼ぶのか。立場の名前を呼ぶことで、貴人への所作をすることで、心の中の真意を伝えられるほどミクはまだ器用ではない。


 ミラケルと呼ばれた第二王子が、こちらを向いた。


「ミク……?」


「あ、あの、その……」


 ミクは口ごもる。なんといえばいいのか、わからなかった。そんなミクを、王子は待ってくれる。これが彼の優しさだった。


 ――初恋のあの人に捧げたかった初めてを、奪われた。それも悪くない、とミクは思い始めていた。


 それは初恋のあの人への裏切りのようでいて、そうでもないような気がしていた。きっとあの人は、自分が幸せになることを望んでくれているに違いない。――それは、自分がけもみみで、スラム街の人間で、彼が恋愛対象にするような人間ではないからこそだった。


 彼は自分を所詮歌歌いとしか見ていまい。その才能にしか、惚れこんでいないのだと。


「私は、ミラケル様のことを、好ましく思っております」


 それは少女なりの告白で、しかしそれはなんとも不格好で、王子はそれを愛しく思い、気持ちまで王子妃となってくれた少女を優しく抱きしめた。

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