妃の作法

「これは……なんでこんなことを……するのですか……ンハァ」


 息も絶え絶えといった風に背中に手を回し、慣れない手つきで後ろの一列に並んだボタンを外そうとする。しかし慣れのなさは焦りを産み、手はもつれ息があがる。そしてまた、締め付けからの解放は遠のくのだった。そんなミクを教育係のセバスチャンは微笑みながら眺めている。


「せ、セバスチャン様、どうか見ていないで手伝ってくださいッ」


「そうおっしゃられても、婦人の身体には触れてはならぬのでしょう?」


 自身の大事にしたい一族の掟に言及され、ミクはムムムとふくれっ面になった。それをセバスチャンに言ったのはミクなのである。そしてなおもその身体を締め付けるものを外そうと試みる。


 ――ミクはまず、コルセットという代物に苦しめられることになった。


 歌歌いとして、腹の底まで深く息を吸い持続的に吐く訓練をしてきたミクは、腹の筋肉がしっかりしており、女性的なくびれを無理やり作るコルセットには苦痛しか感じなかった。それに、こんなに締め付けては息もできやしない。


 コルセットには姿勢を保つ効果もあると教わっても、ミクは納得できない。通る声を出すには姿勢をよくするのは当たり前で、それを実現するには体を鍛えることだと教わった。なぜ貴人は体を鍛えることなく作り物を体に宛がってはことを済まそうとするのか。


 そんなことを切実に王子に訴えても、カラカラと景気よく笑われるだけで取り合ってくれない。世話係に訴えようと、そんなことを言うお妃は初めてだと困った顔をされるだけだった。


「こんな非合理的なものなんてやりたくない!」


「……ミク様、もう少しお言葉に注意なされませ」


「まったく、なんでこうも非合理的なの……かしら!」


 ミクは一ヶ月経っても、半年経っても語尾を丸くする言葉遣いにも慣れることができなかった。


 手掴みで食べていた肉はフォークとナイフで食べることにいちいち腹を立て、椀を持ってごくごくと飲み干していたスープは手前から奥にスプーンで掬って食べるように仕付けられ、これではせっかくのご馳走も味がしないではないかと身分不相応にも貴人を哀れんだりした。


「まあ、貴人と貧民どちらが幸せかというのは難しい問題でございますからね」


 そんなことを言ってほしいんじゃないのに世話係は孫を見るように微笑み、たまに様子を見に来る王子は妃ではなく娘を見る目でしか見てくれない。ミクは歯噛みし、地団駄を踏んで暖簾の腕押しを悔しがった。


 思っていたのとは違って、この屋敷の者はミクがけもみみ持ちだからって辛く当たりはしなかった。今までけもみみを持たない人は自分を憐れんで施しをする客か自分を見下して暴力を振るう迫害者で、自分の生きる世界とは別の世界と思っていた人が、普通に挨拶をすれば返してくれ、笑顔を向けてくれる――もちろん、嘲笑ではない笑みを。


 だから、これが貴人たちの自己満足によるお遊戯で、哀れな娘を飼ってやっているという類いのモノだったとしても、今くらい、この屋敷の人間たちを信じてもいい。そんな風に、ミクは思い始めていた。


 そんなある日、とうとうミクにも社交界デビューのお声がかかった。


 とは言っても、新しいお妃が粗相をしても許される、王子にとって身近な人物を集めただけの、本当のパーティーに比べればお遊戯にしかならないほどの小規模なものだった。それでもミクは緊張し、ドレスを掴む手のひらに汗が滲む。


「ミク様なら大丈夫でございますよ。振る舞いも優雅になってこられましたし、なんと言っても優しい方ばかりですから……口を閉じてさえいればきっと大丈夫」


「わたくしの口は災いのもとにございますか!」


 ミクは世話係を睨み付けた。今にも泣き出そうかというのを懸命に耐えている。


 世話係セバスチャンは、そんなミクを眩しそうに見つめた。お世辞でなく、この娘は立派に王子の妃に成長した、と。この一年の、ミクの涙ぐましい努力を間近で見てきた彼にとって、今日の日はひときわ感慨深いものがあった。


「さあ、いってらっしゃいませ」


 重い扉が開かれる。眩しいシャンデリアがミクのまぶたを突き、明るさに目が慣れた頃にはミクを見つめる十数人の貴婦人の姿が浮き上がるように視界に入る。美しく汚れていない白いレースがテーブルにかけられ、磨き上げられた銀の食器が目を差すようにそこにはあった。


 そこはこの世ではないようにミクには思えた。少なくとも、一年前の自分なら、気後れして逃げていた場所。


「いってまいります」


 ミクは振り返らないまま、そう言った。少しだけ王子を信じるついでに、雲の上の人々の気分を味わってみるのもいい。きらびやかな会場に、一歩ミクは踏み出す。


 ミクが正式に妃と認められる、半月前のある日のことであった。

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