宮殿での日々

ケモ耳の私でも……?

 ミクは比較的新しい建物の五階の角部屋を宛がわれた。白亜の建物を縫うように進んだせいで、ミクにはとうに方向感覚はなくなっている。――それほどまでに、この屋敷は広く複雑だった。


 よく賑わっていた貧民街の食堂ほどはあろうかという部屋の広さと、レースのような布で回りを囲われたベッド、キラキラと輝くシャンデリアに目眩を覚えながらも、なんとか辺りを見て回る。世話係とやらが来る前に、最低限把握しておかねば笑われると虚勢を張った。


 それにしても、広い。長屋の壁を取っ払ってできたような安くて不味い飯を食わす食堂が、不意に懐かしくなった。ミクはその食堂以外では、店の閉まる夜に軒先で丸まって寝ることもできなかった。薄汚れた泥棒猫と言われ追い出されたことなど掃いて捨てるほどある。


 ……ヒクヒク。


 忘れたころに動く耳に、ミクは呆れた。手で乱暴に耳を潰しては、やっとやる気がでてきた心がおれそうになる。ミクの複雑な思いとは別に、耳は新しい生活に新鮮な興味を隠しきれないらしい。謙虚で控えめを是となすこの国で、はしたない娘を「エルフの耳」と呼ぶように、息つく間もなくクルクルと回る耳が疎ましい。


 貧民の大半を占める外国からの移民は皆陽気な人が多く、彼ら自身もそれを誇りに思っているようだったが、ミクは違った。住む土地の価値観に合わせるべきは移民だと考えを譲らなかった。おかげで、ミクは移民仲間にも嫌われた。


 弱者のふりして団子のように固まって、そのテリトリーの中でだけ自分らしく振る舞うだなんて負け犬のようじゃないか、恥ずべきことがないなら尚更、堂々と現地の人たちと交流するべきだと大声張り上げたあの日から、ミクは真の意味で一人になってしまった。


 同じ貧民でも、けもみみを持つ者と持たない者がいる。幸いなことにけもみみを持たずに生まれてきた混血クラーダは、中身を問われず純国民の仲間入りした。移民の血が濃くてもけもみみは現れないこともあれば、血も濃く、あるべくしてけもみみもあるミクのような者もいる。


 そして、純国民になって職を得られたはずのクラーダがスラム街にいることが一番厄介なのだ。彼らは、中身にいわくがあって純国民のテリトリーを追われた者。盗人かレイプ魔か殺人者、あるいは不法な手段を使って脱税した者などだった。


 彼らは街に災厄しかもたらさない。彼らのせいで移民はやはりだめなんだと嘆息され、なおのこと「耳の有無」での区別が進む。そして彼ら自身は、搾取の対象を同胞に向けてブクブクと肥え太る。


 ――幼いミクにはまだわからなかった。正論を言うことが、街を支配するクラーダ《闇の支配者》に目をつけられるということに。


「ふん」


 妙なことを思い出してしまったと頭を振って気持ちを切り替える。いつもはヒクヒクとせわしない空気の読めない自分の耳もさすがに萎れていた。あのことだけは、思い出したくなかったのに……。


 気分の冴えないままさて、とだだっ広い部屋のなかをさらに進もうとすると、背後から声がかかった。


「ミク様、お召し物の用意ができました」


 そこに居たのは、燕尾服に白く整えられた髭の、背筋の良い男性だった。


「お召し物……はっ」


 服を変えろということだと気づき、ミクは顔を赤くする。やはりこの服では王子の妃になどなれない。当たり前のことだがやはり悔しい。そんな時ですら、ミクの耳は新しい登場人物に喜びを隠そうともしない。おとぎ話に喜んだ幼い頃の自分のままなのだ。


「くっ……」


 意のままにならぬ自分の耳を従えようと悪戦苦闘するミクに、優しく声が掛けられた。


「可愛らしいお耳でございますね」


「そんな、お世辞なんて嫌いです」


「お世辞などではございませんよ。実は、私も……」


 意味深に与えられた空白に釣られるようにミクは顔を上げる。そうすると、目の前には長い耳を持つ男性がいた。


「あなたも?」


「ええ、私も。まだこの耳を曝して国を歩くことはできませんが、殿下はそんなこの国を変えようとしておられる。貴女にも、きっと、ご自分を誇りに思える日が来ますよ」


 ミクはホロホロと大粒の何かが頬を伝うのを感じた。


 ――例え王子が自分を奴隷にするために飼ったとして、この屋敷の奴隷は大層待遇がよさそうじゃないか。


 自分を追い出さなかったあの食堂の、純国民であるはずの白い肌の女性を思い出していた。


 辛辣な皮肉を言葉の端々に湛えながら、何も知らないまま母を失ってしまい歌しかなかった自分に世間のあれこれを教えてくれた。それでいて、ミクを店の中には是が非でも入れなかった。クラーダ《闇の支配者》に目をつけられた子どもを入れなどしたら私も死ぬ、庇護者が死ぬことはお前に悪いことだと言ってくれた。


 ギリギリのところで自分を生かしてくれた、その女性と、性別が違うにも関わらず目の前の教育係がダブって見えた。


『例え王子があんたを奴隷にするために飼ったとして、この屋敷の奴隷は大層待遇がよさそうじゃないか。元気に奉公して、たまには戻って来な、ドジっ子の泥棒猫!』


 彼女が笑ってそう言った気がした。


 まぶたが腫れぼったく、それでいて心が温かい。母の言いつけに背き人前で涙を見せてしまったことへの罪悪感すら、遠い異国へ吹き飛ばしてしまう優しさが、世話係の男性にはあった。

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