第二王子の居城

 あれよあれよと馬に揺られ、思考が上手く働かないまま、ミクは自分の姿が辻に消えるまで見送っていたあの商人のことをまだ覚えていた。


 歌歌いとして生きていく以上恋はすまいと、相手の名すら頭に留めおかない訓練をしていた。それでもなお、定期的に港に出てあの人の顔を探してしまうのは、胸の高鳴りを感じたい一心であったのだろう。そんな恋に浮かれた自分が、あの場所にいたからこそ、今自分はこんな目に遭っている。


 あの商人は、自分が王子の馬に乗せられ連れ去られるのを、どんな心持ちで見送ったのだろう。自分と王子が乗った馬を見送る彼の目は、どこか驚きを宿していて、しかしそれは興味本位といった風な感じで、ミクの恋心が所詮一方通行だったことを表していた。


 彼はこのことを他の商人仲間に言いふらすのだろうか。それともほんの少し入れ込んでいた歌歌いのことなど明日あすには忘れて、自分の財を増やすべく商いに精を出すのだろうか。


 王子の馬に揺られ、全ては自分の歌歌いとしての自覚のなさが招いたことだと自戒する。そして、早くも馬に酔った頭で、もう彼のことを考えないようにしようと心に決めたのだった。


 そんな考えを巡らすと不意にミクは疲れを感じた。馬の走る軽快な音と、片手で手綱を握りながらもう片方の手でミクの背を支える王子の体温をぼんやりと感じながら、王子の後ろを走る侍従の、苦虫を噛み潰したような顔も気にしないようになり、なされるがままに王国の首都を通り西へと向かった。


「ーー着いたぞ」


 王子が自分に話しかけていると、一瞬わからなかったミク。僅かに痛みすら感じる頭を振り、首を左右に動かす。自分が馬上にいることを認めると、ぼんやりとしていた思考がすっと晴れ、自分がここに居る意味をすぐ思い出した。


 ミクはオッドアイの王子を見つめる。


「ほら、ここが君の今宵からの住み処だ」


 そう王子は言った。


 王国の庶民ですら、横になるだけで一杯になってしまうような平屋の家しか持てない者が多いのに、流れ者のミクに日々帰る場所はなく、店先のひさしで雨を凌いではそこからも追い出されるという毎日を送っていた。


 そんなミクに想像できるだろうか。五階はあろうかという高さの、馬で駆けても半刻かかるという広大な敷地の豪邸で、自分が住むその姿を。


 そんなミクの気持ちを察してか、王子が小さな声で言った。


「ゆっくり、慣れていけばいい。君には腕のいい教育係をつける。直に仕来たりにも慣れるさ」


 ミクは耳を疑った。どうせ召使いか奴隷、あるいは慰み者にされるのがオチだと思っていたが、自分に教育係を付けるなどと……にわかには信じがたかった。


「殿下のお帰りである!」


 そんな王子のいち貧民に対する態度に当て付けるように、侍従が声を張り上げた。その声に呼応して、象一匹通れそうなほどの大きく重い門が開かれる。完全に開いたところで、堀をまたぐ橋が下ろされ、豪邸を見上げていたミクは初めて堀の存在を知る有り様だった。


「まるで、昔話に出てくる城のよう」


「ああ、ここは実は防衛施設も兼ねているのさ」


 ミクの独り言に応えた王子の声色が、少し悲しげになった意味を、ミクはまだ知らなかった。ただその威容に呑まれ、王子が下馬し自分に対して腕を伸ばしているのにも気づかない。


「――王子のお手を取りなされ」


 しびれを切らしたのは王子ではなく侍従の方で、ミクに早くしろとそそのかした。しかし、その声色は甲高い耳障りな音ではなく、人肌の温もりが感じられるものだった。妙なそれに戸惑い、ミクは侍従の顔を見ようとする。


 しかし馬に乗り慣れていない少女のバランスの揺らぎに反応して馬はフラフラと動き、ミクははっと我に返り、王子の手をとって馬を下りた。そして、悠然と歩く王子と、王子の馬を引きながら歩く侍従の後ろをついていった。

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