初めての乗馬

 ミクは第二王子に軽やかに抱かれ王子の前にすとんと腰を下ろされた。一気に高くなった視界に目眩がしそうである。


「どうだい? 初めての馬は」


 先ほどまでの王族気風の語り口とはうって変わった、ざっくばらんな口調にミクは戸惑う。


「視線が高い……です」


 ミクは正直に言うや、下を向いて拳を強く握った。そうでもしないと、落ちてしまいそうだった。つり橋効果というやつだろうか。王族の乗り物に乗っていることも忘れ、ただ心臓の鼓動が高まることを感じる。高さに怖がっているのだが、身体は変な方に勘違いもするものだった。


「ほら、手綱を握るんだ。さもないと私が馬を御せないではないか」


 ハッと我に返ると、ミクは自分の腰が王子に支えられているのを感じた。ミクは顔を青くする。母は処女である娘に触れてくる異性にろくな者はいないと常々言っていた。やはり我に返れば、異性にこれ以上体に触れられるのはごめんだった。


 しかし、慌てて手綱を握ったミクの腰を王子はまだ離さない。ミクは言い知れぬ不安を感じたが、王子は気にもとめず次の指示を飛ばした。


「それから馬の胴体を強く足で挟んでごらん。そうしたら少しは安定するから」


 ミクは言われた通りに、その細い足で馬の筋肉隆々の体を挟もうとする。しかし、その反発の強さに押し返され、ふらつく。また王子に支えられてしまった。


 ――それにしても、王子から悪意は感じない。王子に悪意を隠す才能があるのか、悪意のある異性とはそんなものなのか、はたまた本当に王子に悪意が無いのかはまだミクにはわからない。いかんせん、スラム街で生き残るために彼女の母親は異性に対する異常なまでの警戒心を育て上げたのだ。


「こればっかりは、慣れだから仕方ないね。ご覧、慣れれば手綱を取らなくても体勢が保てるようになるよ」


 ひょいと後ろ向きに回転させられたミクは思わず王子の胸板にすがり付く。これも、王子に心許したわけではないのだとミクは心のなかで言い訳をする。私が行かなければ、私の歌を聴いてくれた人が罪に問われてしまう、だからこうしているのだ、と。母はなによりもミクの歌と観客に対する誠意を叩きこんだ。


 背なかを支えられながら王子を見てみると、確かに足だけで逸る馬を押さえている。確かにすごいとは思ったが、まだ警戒心は忘れていない。身体を触られることには慣れたが、それでも王子を信用しているわけではないのだ。


「それにしても、なんでこんな苦労をしてまで殿下は馬に乗られるのですか?」


 信用するまいと思っているのに、つい気安げに聞いてしまい、すぐに後悔する。異性に簡単に心を許してはいけないのに、なんたるザマだろうか。言ったそばからミクは目線を逸らし、唇を噛んでうつむいてしまう。そんなミクを、王子は優しく撫でた。


「そういう恥じらいがあるのもいいね」


 ……からかうような口調で。


 不意を突かれた。ミクはこのような言葉に弱かった。心臓が再び鼓動をあげる。馬という獣に跨り、筋肉質な男の胸にすがっている。状況が状況で、恋愛偏差値の低いミクは己の感情を持て余す。


 口数少なくなったミクを見てミクの準備が整ったと思ったのか、高らかに蹄の音を立てながら馬は駆けた。微かに上気した頬を持て余しながら、ミクは自分が抱いている未知の感情に思いを馳せる。


 この自分が、恋などというものに身を染めたのだろうか。確かに歌のレパートリーにもあるように、心臓は高鳴っている。しかしこれは恋なのだろうか。


 戒律を順守する一族の末裔だからか、誰もが通った道だと言い聞かせても、上気した顔を大衆に晒している自分がひどく気味悪く思えた。そして、後ろを走る従者の機嫌の悪そうな顔と度々視線があってしまうのもなかなかに気まずい。


 優しい異性で、何の目的があるのかはしらないがこんなはしためを丁重に扱ってくれる。その優しさに騙されるのもよいと思ってしまう一方、肝心なところで気の回らぬ王子め、と心のなかで思ったりもした。

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