第3話 小典を連れ出せ

 黒い針状のモノは、明らかに先ほどより前に伸びていた。そして心なしかぎりぎりと内側に曲がってきているように見える。

――このまま放っておけば、の者は逃げられなくなる

 確かに小典が閉じ込められそうに見えた。桃鳥の判断は、早かった。

――どうすればいいの?

――彼の者を黒いモノに触れさせないようにお主が導け。ただし、絶対に後ろを振り返させることはまかりならん

――触れたり、後ろを振り返ったらどうなるの?

――命の保証はない

 謎の声に嘘やからかいの類いは一切感じられなかった。桃鳥は、腹を決めた。

「小典、よく聞いて。これからわたしの言う通りに動きなさい。いい?」

 小典は、何か言いかけたが、口を閉じて頷いた。桃鳥の表情と声の調子から何かを感じ取ったのだろう。

「しゃ、喋っていいのですか?」

 なぜか小声だ。

「喋るのは大丈夫だと思うわ」

 桃鳥は首肯した。

「では、どうすれば?」

「まず、右手を前に」

 小典は言われた通りに右手を前に出す。

「それまで!」

 桃鳥の声に右手がピタリと止まる。

「こんな少しだけですか」

 小典が動いたのは、三寸(約九㎝)ほどであった。

「そうよ。その先にトゲのようなモノがあるのが見えない?」

 桃鳥の問いかけに、小典は目をぱちくりさせた。

「まったく見えません」

 そう言って少し周りを見ようと頭を動かそうとした。

「ダメよ!」

 桃鳥は鋭く制止した。

 小典の頭の周りにはびっしりと黒い針状のモノが伸びていた。むやみに動けば必ず触れてしまう。

「いいから、言う通りに動きなさい。次は、左足を立て膝に」

 小典は、座している格好から左足だけを器用に立てた。

「いいわ。そのまま体ごと前に」

「どれぐらい前に行けば?」

「そうね。四寸(約十二㎝)ほどね」

 小典は、前に進んだ。

「それからどうすれば」

 桃鳥はどう説明すればいいのか迷った。すでに小典の鼻の辺りにトゲが両方から伸びている。隙間はない。唯一、可能なのは、頭を下げてくぐるようにすることだ。しかし、それだけではなく、ほとんど同時に立ち上がらないとこの不気味な黒い針状のモノから抜け出せない。その拍子を口で説明するのは難しい。

 桃鳥はおもむろに立ち上がった。

「いい?小典。これからわたしがお手本として動くから、あなたはその通りに動くのよ」

 小典は、頷いた。

 桃鳥は、さっそく、小典と同じ格好をすると、頭を下げてくぐる動作をして、ほとんど同時に立ち上がった。

「さぁ。同じようにやるのよ」

 小典は見事、同じように立ち上がった。

「と、桃鳥様……」

「何?」

「なかなかに厳しい体勢です」

 桃鳥と小典は、中腰で上半身をお辞儀をするように倒している。その体勢のまま、顔は上げている。

「わたしも同じ格好しているでしょ。もう少しの辛抱よ。我慢なさい」

 桃鳥は冷たく言い放った。

「つ、次ぎをお願いします」

「その体勢から、右手はそのままに半身になりなさい」

 桃鳥は、ゆっくりと右半身を前に出した。正面から見ると、体の厚さが消える。肩、腰、手足、全て一直線に並んでいる。どこの剣術諸流派でも基本の構えのひとつだ。それだけに難しいのだが、小典は、難なく半身になった。

「さすが、新陰流衣谷派しんかげりゅういだにはで鍛えてもらっているだけはあるわね」

 桃鳥は、賞賛を口にした。

 新陰流衣谷派は、小典が幼少の頃から学んでいる兵法の流派だ。現道場主の衣谷清十郎満晴いだにせいじゅうろうみつはるは、四十になるかならないかの年ながら江戸でも知る人ぞ知る手練れと名高い人物だ。小典は、先代の道場主から二代にわたって教えを受けている。

「恐れ入ります」

 言いつつもまんざらではない様子の小典である。

「では、次の動きも、小典殿にとっては得意でしょう。そのまま前後斬りの型のように後ろを向いて止まって」

 前後斬りは、これも剣術諸流派での基本の構えのひとつだ。前を斬りながら後ろも斬る。説明すればそれだけだ。

 小典は言われた通り、前後斬りの型通り、後ろを向いた。

「いいわ。そしたら、後ろのまま右足を前に滑らしつつ、体を床に付けなさい」

 そう言って、桃鳥は、小典に見えるように横に並んで、お手本をして見せた。

 端から見れば、ただ、大の男が床に寝転んだにしか見えない。ただ、桃鳥も小典も大真面目だ。

「次は、その姿勢のまま七寸(約二十一㎝)ほど前へ」

 小典は従う。

「次は、難しいわよ。床に両手をついたまま立ち上がって」

 これも小典は従った。

「そのまま後ろへ五寸(約十五㎝)ほど移動してから、上半身を腰の辺りまで起こして」

「次は諸手を挙げて」

「左足前の半身になって」

「嗚呼!違うわ。後ろ向きのまま片足立ちになるのよ」

「三寸(約九㎝)ほど飛びなさい」

「そんな情けない顔しないの。右足を前に出しつつ上体を極力、その右足に近づけるように折りなさい」

 桃鳥と小典は、つぎつぎと様々な体勢をした。徐々にではあるが、黒い針状のモノから小典は脱出できそうであった。そして、ついに、

「ふう。これで最後よ」

 桃鳥は、珍しく額の汗を拭った。

あとひと動作をすれば、小典は、この黒い針状のモノ、謎の声は、影針魔と呼んだあやかしから逃れることができそうであった。

「と、桃鳥様、ほ、ほんとうに最後なんですね」

 小典は、漢字の〝大〟の字のような体勢のまま言った。額には汗がびっしりと浮かんでいる。

「そうよ。良く頑張ったわ。最後は、その体勢のまま頭を下げて前にくぐらせながら、前回りに受け身をとりなさい」

 桃鳥は、言いつつ見本を見せた。

 小典は、頷きつつ、さっそく頭をくぐらせて、前に受け身をとろうと浅く腰を落とした。

「どうしたの?」

 桃鳥は、小典の異変に気がついた。

 全身が震えている。何かに強く抗っているように感じた。

「と、桃鳥様。こ、声が聞こえます」

「声?」

「声……です」

「誰の?」

「女の……ようでもあるし、男……のようでも……あります」

 顔中が汗でいっぱいだ。

「後ろ……を振り向け……といって……います」

「ダメよ!小典、前に飛ぶのよ!」

 桃鳥は叫んだ。

 小典の全身がさらに小刻みに震え出す。徐々に小典の首だけが、振り向こうと後ろに動き出した。

「小典!しっかり!前に飛びなさい!」

「おおお!と、桃鳥様……」

 小典の首筋にいくつもの血管が浮かび上がる。

 わずかずつ、首が後ろに動いていく。

「小典!」

――いかん!彼の者の着物を取って引張れ!

 謎の声が叫んだ。

 桃鳥の体が動いた。

 何かがいっせいに動いて、そして、弾けた。




 




 





 



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