第2話 連れてきたモノ

 気配を感じた。

 お馴染みの気配だ。小典のものだろう。

 そう思っていると、微かな足音とともに、見慣れた童顔がひょっこりと顔を出した。

「やはり、ここにいらっしゃったのですね」

 小典は、まったく、といった風情で部屋に入ってきた。

「桃鳥様。急にいなくなられては困ります。例の事件の事務仕事がまだ残ってますよ」

 最近は、とみに事務仕事が煩雑になってきた。奉行所内には、事務方が大勢いるが、それでも与力同心がまったく事務仕事に関わらないかと言えばそうではなかった。むしろ、関わることが多くなってきていた。状況を詳しく知っているのは現場にいた与力同心であるから、当然と言えば当然なのだが、新しく赴任した南町奉行の重藤様の提案もあって、事務手続きに与力同心がさらに関わるように改定されたのだ。これは、えん罪を少なくする施策のひとつである、という重藤さまの説明もわかる。そしてこれは必要な処置だと言うのも分かる。だが、時々、息抜きしたくなるのは神仏ならざる人の性というものだ、と桃鳥は思っていた。

 今回も、その息抜きのため、少し休憩していたところであった。そこへ、ともに仕事をしていた小典が来たのである。

「桃鳥様。聞いてらっしゃいますか?だいたい、すぐにいなくなるのは、武士としていかがなものかと」

「あら。武士はいなくなってはいけないの?」

「いけません」

「どうして?」

「どうしてって……退けばやられます」

 小典は、当然だというように胸を張った。

「確かに剣術では無用に退けばやられるわ」

 桃鳥の言葉に小典は、そうでしょう、と頷いた。

「ただし、兵法ではそうとも言えないわ」

「と申しますと」

「逃げるが勝ち、とも言うでしょ」

「確かに」

「でしょ」

「しかし、事務仕事は逃げても勝てません。むしろ増えていくばかりです」

「……」

「……」

 小典の勝ち誇ったような笑顔が小憎らしい。さて、どう言い返したものかと考えあぐねていたところ、桃鳥は、わずかな気配が存在していることに気がついた。

――人ではない

 直感的にそう思った。

 その気配は、毛ほどのわずかなものであった。小典と桃鳥、この部屋には、二人しかいない。いなかった。なのに突如、気配を感じた。風に揺れる蜘蛛の糸。桃鳥が真っ先に想像したのはそれであった。その蜘蛛の糸のような気配が、ゆらりゆらりと見え隠れしているように感じる。しかも出所は……

――小典?

 それは、笑顔の小典から漏れてきているような気がした。当然、小典の後ろに人の姿形は見えない。なのに、気配だけがする。

 桃鳥はさりげなく、左側に置いてある太刀を引き寄せた。

「桃鳥様。おわかり頂けたようですね」

 小典は、黙っている桃鳥を見て、降参したのだと勘違いをしたらしい。そう言うと満足気に頷いた。

 桃鳥は、かまわず意識を集中する。

 小典の後ろの気配は依然としてある。しかも、驚いたことに蜘蛛の糸のような気配はひとつではない。複数出ていた。

「こ、これは」

 思わず声が出た。その複数の気配は、小典の体の輪郭に沿うようにでているのであった。しかも、その気配の糸が、徐々に黒く、太くなっていっているような気がした。

「何か仰いましたか」

 どこかふざけるように小典は聞いた。いつものように桃鳥が言い返したのかと思ったのだろう。

 思わず、桃鳥は太刀を手にした。

「ど、どうされたのですか」

 これには、さすがの小典も驚いたらしく。大きな目をさらに大きくした。

 小典が体を動かそうとしたその時、

「動くな小典!」

 桃鳥は言った。

 小典は固まった。

「なっ、えっ……」

 小典の周りには、真っ黒な針状のモノが桃鳥の方に向かってびっしりと伸びていた。桃鳥の目には、小典が黒い針の中に埋まって見える。その中で、小典がわずかでも動けばその針状のモノに触れる。しかし、それに触れてはいけない、と桃鳥の直感が告げていた。

 桃鳥は、太刀の一閃でその黒いモノを切り落とそうと考えた。刀の鯉口を切った。小典は依然として固まったままだ。

――斬ってはいけない

 声がした。耳元、というよりも直接頭の中に響いてきたような感じだ。

――何やつ

 桃鳥は思考した。

――その黒いモノに触れてはいけない。影針魔えいしんまだ。刀で切り落とそうとすれば、影針魔は貴殿も襲うぞ。触れずに彼の者を出せ

 桃鳥の質問には答えずに、声はいった。

 桃鳥は辺りを探った。気配はしない、がそう遠くもない場所にいることはわかっていた。桃鳥に気づかれずにここまでそばに来た者は記憶になかった。内心、桃鳥は驚いていた。

――影針魔?あやかしの類いね。ところであなた自身のことは、教えないということなのね

 桃鳥の言葉に謎の声は答えなかった。だが微かに笑った気がした。気のせいかもしれない。

――話し込んでいる暇はないぞ。みて見ろ

 促されて見た。

 桃鳥はハッと息を呑んだ。

 


 

 

 



 

 


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