41 一瞬の出来事

 平手打ちか、拳で殴られたのか分からない。痛みを帯びてくる頬に触れる腕には手錠がぶら下がっている。思っていたよりずっと軽くて現実味がなかった。


「ふざけるなぴよッ!」


 畳に倒れた僕の頭上で、ピヨが鳴き叫ぶ。


「子供を力でねじ伏せるなんて、ただのクズぴよ! お前なんて正義の味方でもなんでもないぴよッッ!」


みな自分を悪だとは思わない」


 僕を見下ろす国前が僕の左手を掴みあげる。


「自己の正当性を判断せず、他人を批判する愚か者ばかりだ」


 逆の手で引きはがそうとした瞬間、空洞だった手錠の輪にもう一本の腕が封じられた。そのまま胸ぐらを捕まれ、気管が締められる。


「私の正しさは私の立場が証明している。お前の正しさを証明するものはなんだ。ないだろう? ならば正義は私にあり、お前は悪だ」


「あんた、自分の言っていることが……」


 酸素が足りないから錯覚かと思った。

 目の前にいる警察官の身体から、紫がかったもや・・のようなものが揺らめいている。


「老人でも子供でも、男でも女でも関係ない。認めろ、私は間違っていない。さあ持っている鍵を出せ」


 紫のもやは細く天井に立ち昇り、換気扇が吸うように消えていく。


「クァゥ……そうだ、そうだ。もっと吐き出せ。お前は正しい。間違っていない」


 ささやく声に国前の締め上げが強くなる。もう声帯が動かない。


「ユートから手を離すぴぃぃぃぃぃぃィぃッ!」


 全身に電気が走るような感覚。直接触れている国前も感電したようにビクリと身体を震わせる。ピヨが何をしたのか分からないが、僕は締め上げから解放された。

 国前の追撃はない。その場で立ち尽くしたままだ。紫のもやも止まっている。


「ぴぃ、ぴぃ……早く、逃げるぴよ……」


 朦朧もうろうとする意識の中、四つん這いになりながら玄関のドアに飛びつく。ドアノブを回して……外に出なきゃ。


 感覚でドアノブがある位置に手を伸ばす。しかしそれらしい感触に当たらない。


「どうし、て……?」


 脳に酸素が供給されて視覚の意識が戻ってくる。改めて視認すると、ドアノブは影も形もなく、ドアポストだけが生えた木の一枚板がたたずんでいる。


 押入れを消したようにドアノブを消したのか。

 これじゃあクジャクの能力を無効化しても開けられない!


「手をだ、出すなと言われたけど、逃がすわけにもいかないからな」


 ドアに飾り羽の模様が走り浮かぶ。羽模様の目玉は僕の姿を見つけるとドアから剥がれ、腕に巻きつこうと伸びてきた。


 しかし身体に触れた瞬間、飾り羽は化石のように白くなり砕け散る。


「や、やっぱり力が効かない。ちっ、早く子供を引きずり戻せ」


「私は……何を……」


 国前は焦点の合わない目を玄関に向けたまま佇む。脱出するなら今しかない。

 僕は手錠に繋がれた手で、唯一外へと通じるドアポストの蓋を開けた。


「誰かっ! 助けて!」


「む、無駄だ。声なんてれない。ボクがかき消しているんだから」


「誰か! 誰かいませんか!」


 クジャクの言葉を無視して叫び続ける。

 ほかに出来ることはない。僕は助けを呼び続ける。


「大家さん! 公園にいる人! 依緒っ! 誰でもいいから返事してくれぇ!」


「……優斗さん?」


 がむしゃらに呼び掛けた声に反応があった。細長い窓の向こうに、依緒の目元が現れる。


「なんでそんなところに……唇から血が出てますよ、どうしたんですか!?」


「大丈夫。それより――」


 ……それより?

 依緒を呼んでどうすればいいんだ?


 普通の人間には認知されない幽霊が助けを呼ぶことはできない。この部屋も入ることができない。


 状況は何も変わらない。


「優斗さん中で一体なにが……」


 隙間から室内を覗き見た依緒の目が見開き、後ずさる。依緒の身体が急激に透けて、背後の風景を浮かび上がらせた。

 物体を透過するところは見たが、存在を薄くするのは初めてだ。

 こうやっていつも目の前から消えていたのか。


「……だめ」


 震える全身を両手で抱きかかえ、自分に言い聞かせるようにつぶやいている。


「いま逃げちゃだめ……もう逃げちゃだめ……隠れちゃだめ。決めたんだ」


 何を見たのか振り返ると、変わらず立ちすくむ国前の姿。


「や、役立たずめ。仕方ない、少しだけ返してやる・・・・・


 国前の真上からクジャクの首だけが現れ、開いたくちばしから紫の煙が吐き出された。煙は国前の身体を取り巻き、口の中へと吸い込まれる。


「私は……正しい……悪いのは……私をたぶらかした女だ。死んだのは自業自得」


 依緒が突然いなくなるとき、その場には必ず国前がいた。

 姿が消えるのは、自分を殺した犯人から身を隠そうとしたため。死の間際に覚えた恐怖が魂にも刻まれているんだ。


 今さらそんなことに気がついたって。


「優斗さんを助けるんだ。今度は私が助けなきゃ」


 少しずつ依緒の身体が不透明さを取り戻す。再びドアに近寄ると、向こう側にはついているドアノブを回し、バンバンとドアを叩く音が響く。


「どうすればいいの……なんで開かないの!」


「クァ……何の音だ? まさか、ボクの世界を開けようとしてるのか?」


 クジャクの注意が僕に向く。今度は逃げられる保証がない。

 足を踏ん張り前傾姿勢でドアに全力を押しかける。


「開けぇ……開けぇぇッ! 開いてくれぇぇ!」


「お願いだから開いてよっ!!」


「おいっ早く動け、じゃないとお前の罪が世界に知られるんだぞ!」


「私は――私は罪など犯していない!」


 意識を取り戻した国前が僕の襟首を引っ張る。ワイシャツが喉にめり込み、またしても気管を圧迫される。

 必死にドアポストに手を突っ込んでしがみつく。それでも相手の力に逆らいきれない。


 小指が離れ、薬指が離れ、人差し指が離れる。

 もう限界だ……!


「優斗さんいっちゃだめぇ!」


 全力を込めた最後の指先を掴む感触。


 ガチャリ。


「えっ」


 一瞬、扉が開いたような音が聞こえた。しかしドアに隙間はない。

 変化があったのは目の前の光景だ。


 扉を透過して依緒が入室してきた。


「なん――で?」


 依緒は拍子抜けした顔をしていたが、すぐに僕の背中をにらみつける。つられて振り返ってしまった。


「優斗さんに乱暴するな!」


 こらえていた僕の手がドアポストから離れ、引っ張っていた国前も反動で後ろにそり返る。

 そこへ依緒が全身でぶつかった。


「なっ!?」


 その表情を見る限り、依緒の姿を知覚していなかったのだろう。突然の衝撃にバランスを崩した国前はふんばることも出来ず、後ろの柱に後頭部をぶつけた。


 鈍い音が聞こえ、国前は畳の上に倒れ込んだ。

 一瞬の出来事だった。

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