28 枯れない怒り(3)

「す、すみません!」


 ふすまの奥の光景に、現状を悟った僕はすぐに頭を下げた。

 仏壇に置かれた女性の写真と、大家さんの言葉。つまりそういうことだ・・・・・・・・・・


「子供に気を使われると妻に叱られる。だから気にするな」


 壁に掛けられた大きな時計がかちかちと音をきざみ、大家さんの寂しげな声を絡めとる。


「妻は子供好きでな。公園に行ってはよく近所の子供と遊んでおった。地面に絵をかいたり、ごっこ遊びに興じたり……あいつも子供みたいな性格だったから気が合ったのかもしれん。元気で、自由奔放なやつじゃった」


 首元の蝶ネクタイを片手で器用に外し、テーブルの上に置いた。黒い机上に鮮やかな黄色はよく目立つ。


「わしはいつも遠くから眺めていた。こんな人相じゃ、子供に近づくと怖がらせたり、泣かせてしまうからな。それを不憫に思ったのか『これをつければ可愛くなるわ』とこんなおもちゃを探してきおった。ちまたで流行っている絵本に出てくる太ったペンギンと同じ姿にさせたかったらしい。まったく失礼な話だ」


 おかげで「ペンじい」なんてあだ名がついて参った。大家さんは穏やかに笑う。


「公園ができる前はあのアパート……第二孔雀荘が子供たちの遊び場だった」


「そんな昔からあったんですか? 孔雀荘って」


「ここら一帯じゃもっとも古い建造物になる。それに公園ができたのは、たかだか十数年前じゃ」


 まるで数日前の出来事みたいに言ってのける。きっと大家さんの話は、僕に遡れないほど昔の出来事なのだろう。


「第二孔雀荘は借り手がいなかったから問題なかったが、そのうち苦学生や夢を追う未成年、両親のいない子供を見つけてきては住まわせるようになった。『可哀そうだから安く住まわせてあげたい』なんぞ言いおって、おかげで商売あがったりじゃ」


 そのときの恩恵がいまの僕にも巡ってきたわけだ。あのアパートには奥さんとの思い出が強く残っているに違いない。


「ありがとうございます」


 礼を言わなければならない気がした。大家さんはしわの深い指で鼻の頭をかく。


「ふん、入居希望者を無下にする大家などおらん。家賃を決めたのもこちらじゃ、頭を下げられても困る……ったく、近頃の子供は素直さが欠けていて嘆かわしいわい」


「欠けているのはフデムラの方ぴよ、無理して悪態をくっつけなくてもいいのに」


 そういう性格、で片付ければそれまでだ。


「でも奥さんが子供っぽいなら、本当の子供も好きそうなものぴよが……あの容赦ない怒鳴り方は嫌いすぎ、というか憎しみすら感じちゃうぴよ」


 奥さんと近所の子供はもちろん別格だろうが、それにしても接し方が厳しすぎるとは思う。子供好きの奥さんは好きなのに、子供は大嫌い。なんだかちぐはぐだ。


「……どうして子供をよく思わないんですか?」


 怒られるかも、と思いつつ気になって聞いてみた。

 大家さんは再び隣の部屋に目を移す。ふすまで遮られた向こう側の仏壇を見据えるように。


「妻を子供に殺されたからだ」


 重く、静かな言葉に僕は息を呑んだ。


「今くらいの時期じゃった。中学生の女の子が点滅する信号を無視して横断歩道を渡ろうとした。音楽を聴きながら携帯電話をいじっていたせいで注意が散漫になっていたらしい。突っ込んでくる車にも気がつかんかった」


 ニュースでよく耳にするケース。こう言ってはなんだけれど、よくある事故の形。


「そばを歩いていた妻がすぐに気がついてな。信じられない速さで走っていき女の子を突き飛ばした。おかげで子供は無事。代わりにはねられた妻は……病院で息を引き取った」


 かけられる言葉など僕にあるはずもなく、頷くこともできない。


「妻は最後まで子供の心配をしとった。子供を責めないで、トラウマにならないようにしてあげてと、弱々しくわしの手を掴んで懇願してきた。そんなことを言われたら約束するしかないだろう」


 まるで今、その手を掴むように。

 テーブルの上に乗せられた大家さんの手は小さく震えている。


「後日、助けた子供と両親が謝罪に来た。だが……うちの子は悪くない、不運な事故だったとまるで娘の非を認めない。将来が心配だと保身ばかり考え、妻に対する感謝などまるで感じなかった……! 子供も子供だ、親の耳元で『早く帰りたい』とつぶやいた声、わしは一生忘れんぞ。妻はこんな人間を助けるために命を失った……!」


 断罪するような鉄槌がテーブルに叩きつけられる。


「妻との約束だ……わしはこぶしを握って自分を抑えた……じゃが! 子供が普通に注意して歩いていれば事故は起きなかった、ドライバーが速度とルールを守って運転していれば事故は起こらなかった! どちらも憎い! 憎くてたまらない! 墓の前で土下座させてやりたかった、殺してやりたいほど憎かった!」


 唾を飛ばし息を切らし、大家さんは噴き出す怒気に肩を大きく上下させる。


「わしが今やっていることは、枯れない怒りを愚かな人間にぶつける自己満足。分かっている……分かっているんだ……」


「声を荒げて交通安全を訴える背景には、個人的な想いがあったぴよね」


 枯れない怒り。怒鳴り散らすような態度は本当に怒っていたんだ。さっき国前さんが言っていた『あのこと』もおそらく事故の一件だったのだろう。

 僕には大家さんの行為を糾弾することはできない。仮に批難する資格があったとしても、たとえ個人的な憎悪を込めた行為だとしても。


 何を言えばいいのだろう……子供が憎いのなら、僕もまた憤怒の対象だ。へたな言葉は大家さんの気持ちに塩を塗るだけ。

 僕に対しての怒りが感じられないのは「奥さんが擁護していた可哀そうな事情の子供」だからだと思う。対象から外れた子供。


 大家さんは優しい人だ。

 だからこそ、奥さんの想いと行き場のない怒りに心を悩ませている。「子供を憎んでいるのに守る」という矛盾した行動に、今も続く葛藤が感じ取れた。


 呪いにかけられたようなものだ。つらいに決まっている。


「……つまらん話を聞かせた」


 落ち着きを取り戻した大家さんは、ものすごく疲れた表情をしていた。

 ここが引き上げるタイミングだろう。


「と、とんでもないです。じゃあ、僕はこれで」


「待て」


 部屋を出ようとする僕を呼び止めると、大家さんはチェストの引き出しから何かを取り出した。鍵だ。


「住むなら二〇一号室と言っていたな」


「これ、部屋の鍵ですか?」


「三度も下見に来るならもう決めているんじゃろう。学校もあるし準備は早いに越したことあるまい。細かなことや家賃は来月からで構わん」


 半ば強引に部屋の鍵を渡してくる。確かに孔雀荘でほぼ決まりだったけれど……こんな形で受け取るとは思っていなかった。あと部屋番号あったのか。

 僕は新しい家の鍵をしまい、しっかりと頭を下げた。


「これからよろしくお願いします。あと、たくあんすごく美味しかったです」


「当たり前じゃろう。妻が残した秘伝の作り方じゃ、不味いわけがあるまい」


 大家さんは照れくさそうに笑う。その表情にまた人の良さを感じる。

 だからこそ思う。つくづく、世の中は残酷だと。

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