29 すべての真実が密室の奥に
「来週にはここで暮らしてるのか……」
畳に寝転がり、木の板が張られた天井を仰ぐ。どこの模様も眉をひそめる人の顔みたいだ。
僕は下校すると真っすぐ孔雀荘にやってきた。昨日、大家さんからもらったアパートの鍵で二〇一号室に入り、これからの暮らしについてぼんやりと考えている。
「上手くいくかな……いかないと困るけど」
「だいじょーぶぴよ。ピヨがユートのファイナンシャルプランナーとして資産の運営・管理を行うから、お金で苦労はさせないぴよ」
僕の胸の上に座るピヨが小さ片翼を高らかに広げた。
「とはいえ、生活がひと段落したらアルバイトも探さなきゃいけないぴよね」
「アルバイト……やっぱり働かなきゃダメだよなあ」
節約生活していても確実に減り続ける貯金。今後のことを考えれば収入源の確保は次の課題だった。
本格的な労働なんてしたことがない。お金を稼ぐなんて自分にできるのだろうか。
「怖がることはないぴよ」
気持ちを読み取ったのか、ピヨがぴょこぴょこと鎖骨のあたりまで寄ってくる。視点を合わせようとすると首が痛くなるので、後頭部は畳につけたまま耳を傾ける。
「最初は新しいことの連続で大変ぴよが、真面目なユートなら十分こなせるぴよ」
「簡単に言うけどさ……とりあえずバイト雑誌買ってこないとな。その前に引っ越しだけど」
まずは目先のことを一つずつ片付けよう。
となると、どうしても出てくる問題。
「早いとこ結晶を見つけて落ち着きたいな」
「探すのは引っ越ししたあとでいいぴよ、まずは生活基盤を固めること。それに近くに来れば探索が楽になるって利点があるぴよ」
「お前が焦らないおかげで、僕もいまいち切迫しないんだよな。それに結晶だけじゃない、依緒のことだって」
「呼~び~ま~し~た~ねぇ~」
依緒の声がした方向に目を向けると、押入れのふすまに少女の頭が浮いていた。
「ぎゃぁぁぁびっくりするだろうが! 首だけ透けて登場するな、全身で出てこい! 別に工夫とかいらないから!」
「えー、いっつも同じじゃつまらなくないですかぁ?」
そんな
「こんにちわユートさん、ピヨせんせー」
「こんにぴよ。イオはいつも元気に挨拶できて偉い子ぴよね」
「やったーほめられたー! ぅわーい!」
ぴょんぴょんジャンプして喜ぶ依緒。本日も幽霊の概念を覆すほど活力にあふれている。
「ところで優斗さんはどうしてこんなところで寝っころがってるんですか? わたしも寝ていいですか?」
「来月からこの部屋に住むからだよ。あと許可出してないのに寝るな」
「ころころー。あはははっ」
依緒は僕の隣に寝転ぶと右へ左へと身体を転がして笑い始めた。何が楽しいのかさっぱりだ。本当に子供っぽいというか、マイペースというか……。
「そういや昨日はなんで急にいなくなったんだ。隣で一緒に見てたよな」
大家さんが言い争っていた一件を思い出し、問いただす。
「ふぇ? もう一日経ってたんですか。あんまり時間の感覚がなくって」
依緒は仰向けで回転をやめ、僕と同じ格好で並ぶ。
「人が集まっていて、おじいさんとサラリーマンっぽい人が言い合いしていたのは覚えています。それから……気づいたらいつもの場所にワープしていたんです」
「その『いつもの場所にワープ』っていうのは?」
「ワープっていうのは、そんな感じがするってだけなんですけど……真っ暗ですごく狭いところなんです。誰も気づいてくれないような場所で、身動きも取れないし、ここにいるって叫んでも全然届かなくて……でも、優斗さんがわたしの名前を呼ぶ声が聞こえるとパーって光が見えて、そばに出てこられます」
申し訳ないけど全然意味が分からない。もしかして幽霊だけが行ける場所があるのだろうか。
「行きたくないんです、あんなとこ。本当に暗くて……ずっといたら身体が真っ暗に溶けちゃいそうなくらい」
「暗い場所は、寂しいよな」
「…………優斗さん。手、握ってもいいですか」
不安を押し殺すような声と、切望する依緒の瞳。
仰向けのまま差し出した僕の左手に、同じ体勢で寝転ぶ依緒の右手が重なる。
微かに震えていた。握ると小さな手も呼応するように閉じていく。
重ねた手に温度はない。冷たいわけでもなく、常温というか、寒暖を感じない。でも皮膚の触り心地は人のそれと一緒。
幽霊とも人間とも言えない、その中間みたいな感覚を覚える。
「やっぱりあったかいな、優斗さんの手。お日さまみたいにあったかいです」
「僕の平熱は低いぞ」
「そういうことじゃありません。なんだか安心するし、元気になれるっていうか。ご飯をいっぱい食べてしあわせーって思うとき、みたいな?」
「依緒の元気って僕のエネルギー吸い取って出してるのか。つつましい食生活なんだからほどほどにしてくれ」
同時に顔を向けて、しょうもない話に笑みをこぼす。依緒の表情から怯えは消え、震えも止まっていた。それでも小さな手は僕を離さない。
「優斗さんが依緒って名前を呼んでくれるたび、わたしは『わたし』なんだって確かめられるんです。ここに居場所があるんだって思えるんです。みんながわたしのことを忘れちゃったらきっと……別の場所にいかなきゃいけないって思うんです。ここじゃないどこか……わたしみたいな幽霊がいっぱいいるところに」
「じゃあ僕が依緒の名前を呼び続けるよ。だからずっといればいい、
うれしい。つぶやいた表情はまったく嬉しそうじゃない。
「いられるといいな」
離れたくない。独りになりたくない。
自分をつなぎ留めておく鎖のように指を絡めてくる。そうしなければ存在が消えてしまうことを悟っているかのようだ。
救いたい。そんな気持ちが漠然と浮かんだ。
依緒は
どちらにせよ共通しているのは執着。鍵を握るのは一〇二号室――あの密室だ。
初めの下見で大家さんは一〇二号室を「修繕中」と言った。これはおそらく嘘。
次に来たときは「他の部屋は気にするな」と釘を刺された。どこか釈然としない物言い。
もしも『何か』を隠したい部屋があるのなら、誰か住んでいるように装ったほうが都合がいいはずだ。空室で人の気配なんて怪しいし、大家という自由に出入りできる立場なら偽装なんて造作もない。
それをしないのは……なぜだ?
密室に結晶の気配はあるのは偶然なのか。投函口から覗いたときだけ察知できる原因も未だ分かっていない。ただこちらの行動に反応するのは確かだ。僕は間違いなく、
本当にあの部屋には誰もいないのか?
依緒が執着する理由も、結晶反応の正体も、大家さんがひた隠しにする存在も。すべての真実が密室の奥に集約される。
僕にできることは何もないのか……誰かに頼らない、僕自身にできることがあるんじゃないのか?
使命感の皮を被った直感的な発想に突き動かされて、僕は立ち上がった。
「もう一度、下の部屋を調べに行こう」
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