28 枯れない怒り(1)

「……また来たのか小僧。物好きじゃな」


 大家さんの背中はいたたまれなくて、僕は声をかけずにいられなかった。


「見とったのか」


「はい……すみません」


 謝るのもおかしいが、他に言葉が出てこない。

 フン、と鼻息を吐き出すと、大家さんは勢いよく流れる車を眺めた。歩道の縁石えんせきに腰掛けた姿は丸い体形をさらに強調させる。さっきまで怒鳴り散らしていた覇気は影も形もない。


「よくあることじゃ。分からず屋どもを叱るのは」


「不審者とは言わないぴよが、あんな騒ぎを毎回起こしていたら有名になるぴよ」


 ピヨの見解に加えて、大家さんの奇抜な格好。いくら交通安全を訴えても、ねじ曲がって届いてしまう。中身が正当なら乱暴な言葉が許されるわけじゃないけれど。


「先月も自転車と乗用車の衝突があったばかりだというに、自分には関係ないと目もくれない。お前さんも気をつけい」


 はす向かいに立つ電信柱のふもとに添えられた花は悲惨な出来事のあかし

 大家さんも直接、行政に文句を言えばいいのに。事故多発地帯なら対策してくれそうだけどな。


「しかしボロアパートを三回も下見に来るとは変わってるのう。他に目的でもあるのか?」


「そういうわけじゃ――」


 あるんだけどと思いつつ、その目的がいなくなっていることに今、気がつく。

 依緒はいつ消えたんだ? ここに来て、大家さんがスーツの男性と言い争っているところまではいたはずなのに。


「まあええわい。また部屋の中を見たいなら鍵を取りに戻らんとな。ワシの家はすぐそこじゃからぐがぁぁっ!?」


 座り込んでいた大家さんが立ち上がろうとした直後、急に悶絶してまた腰を戻す。食いしばるような表情で、痛みのつらさが伝わってくる。


「突然どうしたんですか! どこか痛いんですか!?」


「あらら、もぴかしてぎっくり腰ぴよ?」


 ピヨに言われて、これがぎっくり腰かと思わず観察してしまう。いきなり腰が痛くなる症状とは知っていたが、実際にわずらった人を見るのは初めてだ。そんなに痛いのか。


「あ痛たたた……こっちもよくある事じゃ。しばらく座っとれば治る」


「しばらくって、外でじっとしてたら風邪引きますよ」


 間もなく日が暮れる。五月の外気には未だ冬の名残を感じ、夜風は暖かいものや家の中が恋しくなる冷たさだ。外でじっとしていれば身体にさわる。

 大家さんの隣には膨らんだスーパーの袋が二つ。買い物帰りの出来事だったのだろう。荷物があるなら、なおのこと歩いて帰るのは大変だ。


「タクシー捕まえましょうか」


「車なんぞ乗るか馬鹿もん! たかだか二袋、簡単に……ぐっ、ふうぅう」


 立ち上がって荷物を持ち上げようとするが、袋は一ミリも浮かんでいない。


「む、無理しないほうが」


「子供は自分のことだけ考えとれ。どうせすぐそこまでじゃ、この程度……」


 表情には鬼気迫るものを感じるが、やっぱり袋を持ち上げることはできない。


「まったく頑固なおじいちゃんぴよ。でも放っておくわけにもいかないぴよね」


 じゃあさようならと大家さんを見捨てて帰れば、確実に心証は悪くなる。今後のためにも事態の放棄はできない。

 僕は大家さんが手を離した隙にスーパーの袋を掴み上げた。


「じゃあ荷物運びを手伝います。ちょうど周辺の地理を調べに来たので」


 外見より重さがあった。痛めた腰でぶら下げて歩くのは重労働だ。


「ご自宅はどちらですか?」


「…………こっちじゃ」


 とってつけた理由を怒鳴るかと思ったが、観念してくれたようだ。

 僕はひょこひょこと歩く丸い背中の後を追った。

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