27 混沌は加速する

 アパートの敷地を出てすぐ近くの十字路。路肩に停まっている黒い自家用車の近くに人だかりができていた。僕たちは隙間から中心を覗き込む。


「お前の乱暴な運転で子供が引かれるところだったんじゃぞ!」


「信号無視してガキが飛び出してきたんだろうが!」


 互いに譲らない怒声。片方は黄色い蝶ネクタイをつけた老人―—孔雀荘の大家である筆村さん。相手はスーツを着た若い男性だ。やりとりを聞く限り、車の持ち主らしい。大家さんの後ろでは小学生くらいの女の子がすすり泣いている。


「嘘つけ、わしは見とったぞ! 黄色に変わったから急いで曲がっとったな。教習所で何を学んだんじゃ馬鹿者め!」


「赤で渡ろうとする方が悪いに決まってるだろ! 俺は悪くない!」


「周囲に気を配って運転するのがドライバーのモラルだと知らんのか、お前みたいなやつにハンドルを握られるといらん事故が増える。さっさと免許を返納してこい!」


 言い争う二人はどちらも主張を譲らない、というか言いたいことのぶつけ合いで話がかみ合っていない。僕を含め、周囲の人間は傍観ぼうかんに徹している。


「ちょっとどいてください、一体どうしたんですか!」


 騒ぎを聞きつけ二名の警察官がやってきた。うち一人は国前さんだ。交番はすぐそこだし、僕と同じく九ブレーキの音を聞いて駆けつけたのだろう。

 人だかりをかき分けて中心に入ってきた国前さんは、大家さんを確認するなり、窮迫した表情を崩した。


「やっぱり筆村さんですか……」


「おぅ国前、すぐにこの男をしょっぴけ! そのためにわしは税金払っとるんじゃ」


「まずは状況の確認が先です……もう大丈夫だからね。怖くないよ」


 大家さんの憤慨を軽く流し、まずは子供の安否を確認する国前さん。その間にもう一人の警察官がスーツの男性に対応する。


「そっか、車が飛び出してきたんだ。可愛い服が汚れちゃったね、怪我はない、ちょっとおまわりさんに見せてね」


 国前さんは膝をついて水玉模様のスカートを手で軽く払うと、手やひざの外傷を念入りに確認する。職務もあるだろうけれど、それでも子供への優しさを感じずにはいられない。おかげで女の子の鳴き声も収まった……と思ったら。


「子供でも信号の意味くらいわかるじゃろ!」


 ほったらかしにされていた大家さんが、今度は女の子を叱り始めた。小さな体が大きく跳ね上がり、恐怖の対象に目を丸くする。


「車の信号が黄色になったら渡っていいなんぞ、どこのどいつに教わったんじゃ!」


「ちょっと筆村さんやめてください、子供が怖がってるでしょう!」


「車は一瞬で人の命を奪う、あいつみたいな無能ドライバーの運転ならなおさらじゃ。それを肝に銘じて安全を確認しろ、分かったか!」


「ぉい爺さん、無能ってのは俺のことか⁉」


「お前以外に誰がおる! 交通ルールも守れんやつを雇うとは、お前の会社もそろって無能の集まりじゃな」


「んだとコラァ!」


「ふ……ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!」


 再び言い争いを始める二人を止める警察官たち。泣きわめく女の子。物言わず展開をただ見守る不特定多数の目。混沌は加速する一方だ。


「まりちゃん!」


 収拾不可と思われた事態に割って入る声。人の垣根をかき分けて来たのは明るい茶色の髪の毛に、各所に目立つ装飾品を身に着けた若い女性。女の子を抱きしめる姿を見て母親だと分かった。


「駄目じゃないの勝手に一人でどこかに行ったら! ママから離れないでってお店の中で言ったよね? なんで守れないの?」


「だって、ずっとお化粧ばっかり見ててつまんなくて……公園に行こうと思って」


 通りには大きめのドラッグストアがあり、横断歩道を渡れば公園はすぐだ。おそらくいつも遊んでいる場所で、距離もないから自分一人でも行けると踏んだのかもしれない。


 母親に怒られてしゅんとはしているが、泣き止んだところを見ると安心したようだ。周囲の大人にもほっとした雰囲気が生まれる。


「自分の子供から目を離す親がどこにいるんじゃ!」


 穏やかな空気を破ったのはまたしても大家さんだった。この人は誰に対しても説教をする。


「物心つかない子供は良し悪しも分からず感情と興味本位で動き回る、危険に対しての注意はない! どういう教育をしとるんじゃ」


「……ハァ!? こっちも色々あるんだよ、ずっと見ていられるわけないだろうが!」


 怒鳴られた母親は豹変したような口調で大家さんをにらむ。


「おいジジイ、うちの子に何してくれたんだ?」


「車は危ないっちゅう当たり前のことを教えてただけじゃ。もっとも、親がしっかりしてりゃあこんな騒ぎも起こらんかったろうに」


 周囲の何人かが少しあきれた表情を見せた。「騒ぎの元凶が何を言ってるんだ」と物語っている。


「どいつもこいつも自分は悪くないと言い訳たれおって。やったことを正当化する前にちっとは自分の罪を認めろ! 全員が気を付けりゃ死なずに済んだ人間は大勢いるんじゃ!」


「調子いいことばっか言ってんじゃねえジジイ!」


 全方位オールレンジ説教でまいたガソリンが、子供の母親に引火した。


「交差点で毎日勝手に交通指導して正しいことやってるつもりか? 頭のイカれた老人の迷惑行為だって近所じゃ不審者扱いされてんの! 警察も先にこいつどうにかしろよ」


 いきなり矛先を向けられた国前さんは金魚のように口をパクパクさせてうろたえる。女の子には優しいのに大人の女性には弱い。そんな一面がよく見えた。


 鋭い目は再び大家さんに突き付けられる。


「他人のことをとやかく言うヒマがあるなら、さっさとあのボロアパート潰せよ。木のせいで歩道の幅は狭いし不気味だし、子供が怖がるんだよ。説教垂れる前にやることやれや!」


 周囲から賛同の声が上がった。近隣に住む人々にとって孔雀荘は好ましく思われていない、というのはよくわかる。確かに壁のように立ち並ぶ木々は異質に見えるし、茂った枝葉が歩道にはみ出している部分もあるので、歩きにくさもある。


 さらに言い返すと思っていたが、大家さんは黙って相手の言葉を受けている。震える手で黄色い蝶ネクタイを握るだけだ。


「まっ、まあまあ、落ち着いてください」


 恐る恐る国前さんが前に出る。


「ここは交通の妨げになるので、お話の続きは交番で……」


「話すことなんてねえから! ったく税金払ってんだからしっかり働けよ警察。行くわよまり、ほら立って!」


 座り込んでいた子供を力ずくで立たせると、母親はその場を離れた。流れに乗じてか、スーツの男性も車を走らせいなくなる。興味を失った野次馬たちも通行人の流れに戻っていく。町はいつもの風景を取り戻した。


 警察官のうち一人も立ち去り、残ったのは大家さんと国前さん。二人の背後にいる僕は気づかれていない。声は拾えるが表情は分からない距離に立つ。


「筆村さん勘弁してくださいよ。何度目ですか、こういうの」


「覚えとらんわ。馬鹿を相手にした数なんぞ」


 拗ねたように縁石に座り込む大家さん。その小さくなった姿を見下しながら、国前さんは帽子のつばを深くしてため息をつく。


「ちょっと過敏すぎるんですよ。あのこと・・・・があったから気持ちは分かりますけれど、穏便にしてくれないとさすがに弁護できなくなります」


「……どの口が言っとるんじゃ」


「いいんですか、あのアパートが取り壊されても。思い出が詰まってるんでしょう」


 大家さんが国前さんを見上げる横顔は、それまでの騒動とは違う、静かな怒りをたたえている―—そんな風に見えた。


「とにかく、慈善活動はほどほどにしてくださいね。お互いのために」


 国前さんも交番へ帰り、取り残された大家さんは縁石から立ち上がらない。

 雑踏の中に身を置く老人の背中はひどく小さくて、寂しいものに見えた。

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