42 捨てきれない悪夢
「俺は早朝から真夜中まで家族のために働いて疲れているんだ! 静かにしろ!」
「私だって働いて、そのうえ家事もこなしているのよ。偉そうに言わないで!」
テーブルを挟んで罵り合う二人。母さんと父親だ。どちらも仕事帰りの服装。
「俺より稼ぎが少なくて楽をしているんだから、家の雑務もやるのは当然だろう!」
「雑務⁉ 週末に溜まった家事をこなすことがどれだけ大変だと思っているの!」
僕と母さんの親子仲は良好。
僕と父親の親子仲は冷めている。
母さんと父親の夫婦仲は劣悪だった。
真夜中の議論はいつも平行線をたどる。互いに相手の非を並べ、一切を認めず収束する。中学に上がったころから見かけるようになった、馴染みの光景。
最近は頻度が多くなった気がする。やっていることは変わらない。僕もいつも通り、布団を被って夜明けを待つ。
だけど、その日はいつもと違った。
「俺は出張や仕事の付き合いで休みもないんだ! これ以上面倒を押し付けるな!」
つき合い、ねえ。
母さんはテーブルに十枚ほどの写真を並べた。僕からは何が映っているのか見えないが、父親の表情は明らかにこわばった。
「調べてもらったの。出張のたびに違う女性が相手だなんて大変ね。それに自分の部下
「何を……そんなことをしたら、お前だって困るんだぞ」
「困らないわ。もう全部決めてあるから」
足元の鞄から出した数枚の紙を、テーブルの上に広げていく。
「慰謝料、財産分与、養育費についてはこっちの紙にまとめてあるから。言うまでもないけれど親権は私がもらう」
最後に胸元に刺していたボールペンを置いて、流れるような動作が完了した。
「サインして」
「脅しのつもりか!」
父親の手が机上を薙ぎ払う。
「俺が身を粉にして働いてきた仕打ちがこれか⁉ 俺はお前たちを食わせるために金を稼いできているんだぞ、俺の苦労が養われているだけのお前に理解できるのか!」
「最後まで自分のことばかりね」
テーブルを挟んで対照的な温度差。母さんは先ほどの行動を繰り返した。同じ場所に同じ紙を置き、二本目のボールペンを取り出す。
「サインしなければ裁判所に調停を申し立てる。これが最後通告よ」
「ふざ……けるな!」
怒声とともに、テレビ台に置いてあったリモコンを投げつける。当たり所が悪く、母さんの頭から赤い筋が垂れた。
「縁を切りたいなら、俺が今まで貢いできた金をここに全額用意してみろ! この家の金も、子供にかけた金も、全部返せ! ……できないよな? 俺がいなきゃお前らは生きていけないんだ! できないなら持っている証拠を全部出せ!」
支離滅裂な理屈だ。それを聞いてもなお、母さんは冷静を保つ。
「全部断れば、私をどうするつもりかしら?」
「なんだぁ、その言い方は? 俺に逆らうのか……力づくで言うことを聞かせないと分からないのかっ!」
足でテーブルの天板を踏みつける。僕の身がすくんだ。
「そうやって優斗にも手を上げるの?」
「自分の子供をどうしようが親の勝手だろうが! 大体、お前が産みたいって言うから産ませてやったんだ。面倒は全部自分が見ると言ったくせに、今さら役割を回してくるな。子供の相手なんてしていられるほど、俺は暇じゃない! 邪魔なんだよ!」
「……もう十分ね」
母さんは合図を受けたように踵を返し、血を
戻ってきた母さんの手には、包丁が握られていた。
「何の真似だ」
「脅迫に対する自己防衛よ。殺されたくないから」
「馬鹿が、それをこっちによこせ!」
父親が包丁を奪い取る。すかざず、母さんはもう片方の手に隠し持っていた果物ナイフを、父親の腕に突き刺した。痛みに叫び、床に落とした包丁は再び母さんの手に戻る。
血を流す腕から果物ナイフを引き抜いた父親が、それを振り上げながら母さんに襲い掛かった。しかし、転がっていたリモコンを踏んでバランスを崩し、液晶テレビに向かって倒れ込む。破損を免れない音が響いた。
倒れた父親に馬乗りになると、胸部に包丁が突き立てられる。
白いワイシャツがじわりじわりと赤い染みを広げていく。苦悶を訴える口からどす黒い液体が吐き出され、しぶきが散る。
「私のため、優斗のため、家族のためですって……嘘をつくんじゃないわよ」
刃を押し込む腕が小刻みに震えている。押し殺した憎悪が包丁を伝い、父親の体へ流し込まれているようだった。憎しみという毒素が生命を侵していく。
「仕事ばかりで家のことはやらない……興味も持たない……全部私に押し付けて、何一つ手伝ってくれなかった……!」
包丁の柄を離れた手は、近くに落ちていた果物ナイフを握る。逆手に構えられた刃は、眼球を、口内を、喉を、手当たり次第に裂いていく。そのたびに血が跳ね、母さんの全身から色を奪っていった。
「雨が降っても洗濯物を取り込んでくれなかった! 仕事に行くときゴミを持って行ってくれなかった! 私が風邪を引いても一人で外食に行った! 妊娠しているのに買い物袋を持ってくれなかった! 出産のときも仕事を優先して来てくれなかった! 都合のいい時だけ妻帯者! 父親面! 一家の
振り上げた手から果物ナイフが滑り飛んだ。真っ赤な手は獲物を求めるように、心臓に刺さっていた包丁を抜く。刃は血肉を貪るように、生を営んでいた臓器を幾度も食い散らかす。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
心臓から包丁を抜き刺しする動作は、壊れた玩具みたいだった。
返り血で
僕の体は丸まって耳を塞いでしまった。自室に戻ることもできず、終わりの見えない死の願いに耐え続ける。
扉一枚を隔てた先に繰り広げられる非日常を、『当時の』僕は夢だと思い込もうとした。これは悪夢だ。早く目覚めろと自分自身に命令する。
フローリングの廊下に雫が垂れた。涙か鼻水か、まったく覚えてない。
聴覚を刺激されながら、『今の』僕の意識は冷静に考える。
どうしてそんなに嫌っている相手と結婚したのだろう。永遠の愛を誓う儀式をしたんじゃないのか? 純白の衣装に身を包み、神に宣言した言葉は嘘だったのか?
もしも結婚という
「——死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 地獄にっ! 落ちろっ!」
静寂は唐突に訪れた。
再びリビングを覗く。母さんの姿をした人間が、父親だった人間に馬乗りになったまま両手をだらりと下げている。全身で呼吸し、獣のような息遣いが漏れ聞こえた。
周囲の床や壁、取り巻くすべてに惨劇の跡が咲き乱れている。
見たくない。なのに逸らすことは出来なかった。視線の気配を嗅ぎつけたように、血走った眼が僕に向く。大きく跳ねる心臓。僕は観念したように扉を開けることを選んだ。
「駄目よ」
叱りつけるというより指示に近い。僕の足は境目をまたぐ前に戻る。
大きく息を吐いて立ち上がった母さんは、いつもと変わらない表情に戻っていた。
「だいぶ汚れちゃったわね。片づけなきゃ」
取り込んだ洗濯物をしまうような感覚で言うと、包丁とナイフを持って台所に向かった。水がステンレスのシンクに流れている。聞きなれた生活音。
洗った手で血にまみれた書類を束にして、テーブルの上を濡らしたふきんで拭っていく。休みの日に見かける光景と変わらない。
一通り拭き終えると、腰に腕を当てて額を拭う。返り血が伸びてぼやける。
「思っていたより重労働だわ。壁は普通に拭いても綺麗にはならなそうだし、床もひどい有様……その前に、まずこれを何とかしなきゃね」
床で赤い液体を流し続けるものを見て、ため息をついた。テレビを新調したときに、古いテレビの処分に悩んだ姿と似ている。
リビングを抜けた母さんは、僕の横を何気なく通り抜け、洗面所へ入っていった。
「うわっ! ちょっとコレ自分でも引くわー……ひどい顔じゃないの。スーツも変えたばかりだったんだけれど……処分するしかないか」
しゃべり方を聞けばまぎれもなく、いつもの母さんだった。
戻ってきた母さんは、ありったけのタオルを抱えていた。ソファの上に置くと、いそいそと自室へ。次に持ってきたのは、かなり大きいサイズのスーツケースだ。
中を開いてタオルを敷き詰め、邪魔だったものをしまって、蓋を閉じる。
「大きいのを選んでおいて正解だったわ。さて、私も準備しないと」
時計を確認した母さんは再び自室へ。戻ってくるまでの十数分間、僕は一歩も動かなかった。
静まり返ったリビングには、メタリックレッドのスーツケースが異質な存在感を放っている。じっと見ていると、いつか動きだしそうな気がした。
着替えて顔の汚れを落とした母さんは、買い物バッグに手際よく散らかった物を詰め込んでいく。壊れたリモコンまで入れてしまった。
平静を装っていただけなのかもしれない、と今になって思う。
「よっ……と。やっぱり重いなあ。車に詰みこむときが大変そう」
スーツケースを押し、肩に膨らんだバッグを下げた母さんは、どこか、とても遠い場所へ行ってしまうように見えた。
廊下の壁にもたれかかる僕に、母さんは優しく微笑み、頭を撫でる。
「ちょっと出かけてくるから。帰ってきたら一緒に朝ごはん食べようね」
玄関を出ていく背中。
僕は布団にもぐって夜明けを待った。
一生懸命目をつぶっていると、すずめの鳴き声がした。玄関の扉は閉じたまま。
机の上で電話が震える。僕は飛びつくように通話ボタンを押した。
『もしもし、仲村優斗さんのお電話ですか……警察署の……先ほど……』
知らない男の声は、母さんが二度と帰ってこないことを告げた。
山道を猛スピードで走行中、カーブを曲がり切れずに転落したらしい。
潰れた車内から父親の入ったスーツケースの他、刃物、血の付いた衣服、スコップ、懐中電灯などが見つかった。
警察は計画的犯行ののち、死体処理の移動中に起こった事故と判断する。
母さんには会えなかった。損傷が酷く、首から上は原型がなかったためだ。
ここから記憶は混線し、断片的なものになる。
刑事ドラマでしか見たことがない場面が、リビングで行われた。
あの日の夜のことを聞かれたが「知りません」「夢を見ていました」と言い続ける。二人のやりとりの詳細は知らないし、母さんが何を考えていたかなんて、僕の方が知りたい。
通夜や葬儀は気がついたら終わっていた。知らない人間の集まりなんてほとんど覚えていない。
唯一残っているのは、式に来た担任の
「落ち着いたらでいいから、戻って来いよ。大したことはできないが……それでも、お前が前と変わらない学校生活を送れるようにはしておく。何か困ったことや悩みがあれば話してくれ。できる範囲で手を尽くすから」
渡された紙切れには電話番号が書かれていた。先生の人気は伊達じゃない。
家に知らないスーツ姿の男性が来る。七三分けに四角い眼鏡をかけ、司法書士と名乗った。遺産整理業務の完了報告に来たらしいが、それがなんなのか、という説明は忘れた。テーブルの上に並べられた書面も、小難しい文章で記憶に残っていない。覚えているのは、関わりの近い話だけ。
この部屋を売り払うことになった。理由は僕に維持費を払う能力がないから。併せてガス・電気・水道も止まる。家財は売却か処分となり、必要な物だけ残せと言われた。
親のクレジットカードは解約。それに伴い、スマートフォンへのオートチャージが停止する。今後電子マネーの残額が少なくなっても、お金が補充されることはない。
失う物の説明が終わった後、二冊の通帳が目の前に置かれた。どちらも名義は仲村優斗。
片方は毎月、決まった額が預金されている。おそらく進学する場合の積み立てだろう、と言っていた。
もう片方には五十万円の預金額が記されている。携帯料金を初め、必要な出費の引き落としはこちらの通帳に変更されたそうだ。これからの生活費に
そんなこと言われても、使い道が分からない。
またスーツ姿の人間が来た。今度は男女のペア。首から下げたカードケースを提示する。児童養護施設から来たらしい。
身寄りのない僕に、入所の案内をするためにやって来たそうだ。
それぞれ事情を抱えた子供たちが一緒に暮らす場所なんだと、パンフレットを見ながら説明された。
母さんの両親は他界しており、父方は不明。頼るべき親族はいない。これから住む場所もない。
初めて会った人間に絶望を再確認させられたのが、腹立たしかった。
他人と集団生活なんてしたくない。できるわけがない。でも路頭に迷うのも御免だ。決断ができず沈黙していると、相手は引き上げていった。
どうしてこんな選択を迫られているんだ。
こんなの、現実じゃない。受け入れられない。
またスーツ姿の人間が来た。今度は男女のペア。首から下げたカードケースを提示する。児童養護施設から来たらしい。
名乗っても反応のない僕に、女性は先日の確認をしてきた。今日初めて会ったことを伝えると、何かを納得したように一から話し始める。結末は先日と同じ。
受け入れたくない事実を、悪印象の人物ごと、記憶の奥深くに沈めたんだ。
嫌なことは忘れてしまうに限る。
急変する生活に訪れた空白の時間。夜の闇に溶け落ちたリビングで、僕は膝を抱えていた。
未だに追い付かない頭に、これまで溜まっていた現実がゆっくりと染み渡る。新しい世界の情報が浸透し、信じていたい事象を過去と認識させる。
捨てきれない悪夢の可能性と、まごうことなき現実が体の中で渦を巻く。一切口にしていないのに、吐きたい衝動が続く。大量の水と油を飲まされ、体の中でずっとかき回されているようだ。理屈はせっけん水の代わりにならない。それでも、無理やりにでも納得しようとした。
でもやっぱり理解できない。
捉えられない。把握できない。飲みこめない。考えられない。組み立てられない。釈然としない。納得できない。受け入れられない。承知できない。割り切れない。決められない。何もできない。動きたくない。動けない。
ゲームのようにセーブデータからやり直せればいいのに。
そうすれば、今度は詰んでしまう選択を回避する。ゲームオーバーを待つだけの時間にコントローラーを手放すこともない。
分かっている。
人生はゲームじゃないってことくらい。
リセットボタンはないってことも。
ベランダに出る。肌寒い風が吹き、鋭利な三日月があざ笑うように光を放っていた。僕には口角をあげる気力もない。
なあ、余裕があるなら教えてくれ。これからどうすればいい? その輝きで、僕の
救いを求めるように、月に向かって手を伸ばした。
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