43 あの月に手を伸ばせば
あの月に手を伸ばせば、もう少しで手が届く。
「…………、……を…………よ」
手元まで引き寄せれば、別の道を照らしてくれるかもしれない。
「…………と、め…………すぴ……」
新たな道を教えてくれ。僕は、本当は、
「目を覚ますぴよ、ユートぉぉぉぉ!」
痛みを感じ、視界の輪郭が定まる。僕は柵の外へと身を乗り出していた。
端の欠けた満月の下には、点在する人工の明かり。遥か真下には、全てを飲みこむ色をしたアスファルトが敷かれている。
突然求められたバランスを維持するため、柵にかけた足と上体に極端な力を入れる。結果、大きく後ろに反って、硬い床に背中から倒れ込む。
痛みが現実に帰ってきたことを教えてくれた。
「僕は……」
「気が付いたぴよ⁉」
馴染みのある声は右肩からだ。
「びっくりしたぴよ。水鉄砲を浴びてから人が変わったみたいになって、ピヨが声をかけても届いていないみたいだし、リビングをじっと見ていたかと思うとベランダに出て……」
まくし立てる言葉で、意識のなかったであろう時間を理解する。チクチクと痛む耳を触ると、指先に赤いものが付着した。
「他に止める方法が思いつかなかったぴよ……」
ばつが悪そうにしょげるくちばしにも、同じ色がこびりついている。摘ままれたことを責める気はない。
「思い出したんだ」
向き合った、のほうが正しいかもしれない。
嘘にしたかった事実を、僕は改めて認識した。
真っ暗な部屋の中へ戻る。明かりをつけた室内は、今までと何かが違っていた。色鮮やかで綺麗だったのに、今は何もかもがくすんで見える。
漂う不快な臭いが鼻をつく。辿っていくと台所のゴミ箱だった。蓋を開けると、よりきつい異臭が立ち上る。中にはいくつもの弁当の容器と、変色した生ゴミが混在していた。腐ったりんごの芯にはハエがたかっている。
ワニの口の中と同じ臭いだ。嘘にまみれた臭い。
洗面所に戻ると、床には壊れた水鉄砲が落ちていた。割れた破片が飛び散っている。もう使うことはできない。
「僕が落として壊したのか」
「事故ぴよ」
洗濯かごには、僕の衣類が山を作っている。この家に住んでいるのは僕だけなんだから、誰かの洗濯物は混じるわけがない。
母の寝室も父の寝室も、こざっぱりしていた。ベットシーツにはしわ一つなく、使われなくなって久しいのが見て取れる。
家の中を一通り見て回り、再びリビングの扉に手をかける。
開く途中で、室内にあの夜の光景が浮かび上がった。テーブルを挟んで口論する二人。刃を振り下ろす母さん。飛び散る鮮血。
今は一滴も残っていない。調べ終わった警察が掃除をしてくれたのだろうか。
液晶テレビには大きなひび割れが走っていた。どう見ても壊れているようにしか見えない。映るわけがないと断定できるわけだ。
ソファに腰を下ろす。テーブルの上の弁当はすっかり冷めきっていた。手を付ける気にはならない。ペットボトルの蓋を開ける。
「落ち着いたぴよ?」
「不思議なくらい」
体調不良も現れない。矛盾という負荷がなくなったからだろうか。ぬるいお茶が苦く感じる。
「水鉄砲はユートの……忘れていた記憶を洗い出したぴよ?」
「忘れていたんじゃない。ごまかしていたんだ」
嘘を洗い流し、真実を浮かび上がらせる。
真実は正しいけれど、重い。
もし本当のことを見続けていたら、今日が来る前に、ベランダから柵の向こうに行っていたかもしれない。嘘に頼り、信じてきたおかげで僕はここにいられる。
嘘と真実。二つを釣り合わせることで生きていくのが、人生なのかもしれない。
「ピヨは僕の事情、知っていたのか?」
「初めてコフレの家に行った翌日、児童養護施設の職員が訊ねてきて知ったぴよ」
今なら思い出せる。僕のことを終始
「職員が名乗った後、ユートはさっきみたいに人が変わっちゃったぴよ。話も聞いているのかいないのか分からなくて……次の日にはまったく記憶になくて不思議に思ったぴよ」
ピヨが両親のことを知ったのはそのときだろう。ゴミ箱には同じパンフレットが三冊、捨てられている。何度もゴミを捨てているのに、まったく気がつかなかった。
「直接確かめようとは思わなかったのか?」
「ユートの体調不良が精神的な部分に起因しているのは、何となく分かったから……無理には聞けなかったぴよ」
「頭のおかしなやつに質問するなんて、勇気がいるもんな」
僕が逆の立場でも同じだ。
「ユートはおかしくなんてないぴよ」
気遣いを隠そうともせず、言葉を被せてくる。
「
記憶喪失。そんなの、漫画やゲームの中にしか出てこない設定だと思っていた。
きっと女性の職員も、僕の状態に心当たりがあったのかもしれない。だから、根気よく同じ話をした。
「受け止めるには……あまりにもつらい事実ぴよ」
説明中は今回のことを「不幸な事故」と表現し、具体的な話はしていない。だからピヨは、僕が「交通事故で突然両親を失ったショックで記憶を失った」と思っているだろう。わざわざ真相を明かすこともない。
肺に充満していた嫌な空気をすべて吐き出し、目を
現実に嘘を覆いかぶせ、なかったことにしたのは、受けとめられなかったから。自分の心を守るために、頭の中で『合理化』していた。
もう一度ベランダに出る。風が甲高い音を立てて吹きすさぶ。
「神様とは話がついたのか?」
「ピヨが話していたのは使いの者だったぴよが……また今度連絡するぴよ」
話を中断したのは僕の様子がおかしくなったからだ。悪いことをした。
「結晶、せっかく手に入れたのに壊しちゃったな」
「あのまま渡せばいいぴよ、状態については何も言われていないし」
「お
回収さえできればいい物らしい。嘘で覆い隠した真実を強制的に暴く道具なんて、喰らった方はたまったもんじゃない。今度は空の上から落っことさないよう、厳重に管理して欲しい。
これでピヨも帰ることができる。思い残すことはない。
僕はベランダの柵に足をかけた。
「な……何やってるぴよ? またおかしくなったぴよか⁉」
「意識はある」
ここから地面に到達するまで、何秒だろう? 遅く見積もっても、これから生きていく時間の長さに比べれば、一瞬だ。
手すり部分を一気にまたぎ、半身を柵の外側に晒す。体の芯は熱を増す一方で、外気に触れる皮膚は急激に冷たくなっていく不思議な感覚。
「馬鹿なことはやめるぴよ!」
「ちゃんと考えた……考えた結果、これしか思いつかないんだ」
記憶が戻っても、現実は戻らない。絶望は現存し、僕の人生に先はない。
残っていた体半分も柵の外に出し、ベランダに背を向ける。あとは後ろに回した手を離せば、何もかも片づく。
「なんだかんだ楽しかった。今度探し物にくるときは、もっとまともな奴を選べよ」
「ふざけたこと言うなぴよ! ユートが死ぬ理由なんてどこにもないぴよ!」
「生きる理由がないから死ぬんだ!」
元から理由なんてなかった。しいて言えば、平穏で平凡な人生を送ること。唯一の目的すら、全てを失ったおかげで叶わぬ願いとなった。
目的もないのに生きるなんて、意味がない。
「したいこともないのに生きて、なんになるんだ? 空っぽのまま無駄に時間を重ねるだけじゃないか」
「理由がないと生きちゃいけないぴよか?」
「僕は……そう思う」
理由のない人生を終わらせる。この高さなら確実に死ぬ。痛みなんて感じる間もない。簡単だ、手を放すだけ。
寒さで、歯がかちかちと音を鳴らす。
「ユートは」
落ち着いた声で問いが降る。
「死にたいぴよか?」
「そん、なの……」
無視すればいいのに、返す言葉を考えてしまった。
手を離せばいいのに、張り付いたように指が動かない。
生きる理由がないから死ぬ。単純明解な理屈が実践できない。生きる希望も利点もないのに。
死にたい。
たった四文字が形にできない。言おうとすればするほど、言葉がのどに張り付き、呼吸を圧迫する。心臓も頭も熱い。
欠けた満月が溺れていく。溢れ出たものが頬を走り、夜の
「どうすればいいのか、分からないんだ……!」
思ってもいなかった言葉が口を突いた。
「いきなり母さんがいなくなって、ずっと暮らしてきた家がなくなって、この先どうすりゃいいんだよ……! 僕が何をしたって言うんだ……大金なんていらないから、元の生活に戻してくれ……!」
考えてもいないのに言葉が湧き出る。止まらない涙と鼻水だけが、僕よりも先に落下していく。拭いたくても、手は離れない。
生死の狭間で言いわけを並べることしかできない自分は情けなくて、矮小だ。
「嫌だ……何もかも……自分も……こんな性格も……全部、全部っ!」
「理由が——目的があれば、ユートは死ぬことをやめるぴよ?」
肩の上に降りていたピヨが問う。
「じゃあいい考えがあるぴよ。とってもナイスなアイディアだから、聞いてからどうするか考えても遅くないぴよ」
鼻水をすすって耳を傾ける。
「……なんだよ」
「話を聞く前に鼻をかむぴよ。じゃないと、話に集中できないぴよ」
だからベランダに戻れ。そう解釈して、慎重に柵の内側に移動した。
ほっとする自分がいる。その自覚がみじめさに拍車をかけた。
ブレザーのポケットに入っていたティッシュ——ピヨが身だしなみだと持たせたもの——で顔を拭き取り、ベランダに座り込む。座ることにここまでの安心感を覚えたことはなかった。
「一緒に
立てた膝の上で、ピヨは片翼を掲げた。
「もう見つけただろ」
「結晶はひとつじゃないぴよ」
衝撃的なことをあっさりと言う。
「お前、なんで黙っていたんだ」
「初めにいくつもあるなんて言って、協力を断られるのも困るし……まずは一個、どんなものか知ってもらってから話そうと思っていたぴよ。ぴへへ」
はにかみながら羽先でほっぺを搔く。その姿に、僕はため息しか出ない。
「で、結晶はあといくつあるんだ」
「それは……今度聞いておくぴよ」
「適当すぎるだろ」
ひとつ手に入れるのにどれだけ労力と時間を使ったと思っているんだ。しかも、
「それはピヨの目的であって、僕の目的にならない」
「ここからが提案ぴよ。ユートがピヨのお手伝いをしてくれたら、ピヨはお礼として、ユートに生きる目的を見つけるぴよ。お互いに利益があって、はっぴっぴー♪ なアイディアぴよっ」
月の光に照らされたピヨが、羽を広げてくるりと一回転する。
「報酬はピヨの目的が達成されたときぴよ。それまではサービスで、ユートの面倒も見てあげちゃうぴよ……どのみちピヨも、全部見つけないと帰れないわけだけど」
まだ、一緒にいてくれるのか。
「だからそれまで……死んじゃだめぴよ」
ひざからももを滑り台のようにしゅるりと降りて、腕を伝い、肩までやってくる。
「ユートがいなくなったら、コフレやロキが悲しむぴよ。それにピヨも、いっぱい泣いちゃうぴよ」
そんな人、いないと思っていた。
「ユートは一人じゃないぴよ。だから涙を拭いて生きるぴよ」
ふわふわと柔らかい黄色い羽が、僕の頬に伝う涙を受け止める。いつの間に泣いていたんだ……これは、なんの涙だ?
暗闇の向こうに流した涙とは質が違う。それだけは感じ取れた。
提示された目的に断る理由は見つからない。僕は親指で目尻を拭った。
「あーあ、またしばらく小言を聞き続ける毎日か」
「ユートが高校生として健全な生活態度でいれば、ピヨは何も言わないぴよ」
「ひよこのくせに細かいからな、お前は」
「ひよっ子のユートにはそれくらいがちょうどいいぴよ」
何を言っても返してくる減らず口に、思わず吹き出してしまう。似たもの同士だ、僕たちは。
目を凝らせば、小さな星が点々と光っていた。頼りないけれど、確かにそこにある輝き。真っ暗な世界の
方角なんて分からない。それでも、やみくもに進むよりは希望が掴めそうだ。
僕とピヨ。一人と一匹の
【第二話へ続く】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます