39 ロックな彼女は光り輝く
くわえ込んだ僕の腕に、牙が触れるか触れないかの寸前。ワニは動きを止めて、虚空を見上げた。生暖かい息が右腕を包む。
「ゴゥルル……いい方法がある」
不穏をもたらす言葉に、各々が沈黙を余儀なくされた。口も舌も動かさず、地に響く声は器用に
「お前は罪を背負え。今日この場で、俺から小娘を解放できなかった嘘つきとして、のうのうと生き続けるんだ。嘘つきに命を救われた小娘はどう思うのだろうな?」
大気すら腐食させかねない毒眼が、有珠杵を捕らえた。抱きかかえる背中がかすかに震える。
「嘘つきに与えられた命で生き続ける。それは嘘の存在を肯定し、必要性の証明と同義だ。お前の
「お……まえっ……!」
有珠杵が主張を通すには、自ら命を絶つしかない——悪魔はそう促す。
僕の言葉を利用して、有珠杵が守り続けた祖母の意思を利用して、一人の少女を追い詰める。
「心底最低な爬虫類ぴよね」
「悔しいなら
ピヨの侮蔑を賛辞と受けるようにせせら笑うと、ワニは牙を引いた。伸ばした腕に冷やりとした夜気が吹く。
体躯を普段よりも一回り縮小させたワニは、純白を汚すように服を這いのぼる。有珠杵は抵抗しない。ただ瞑目し、肩を震わせていだけだ。
「間食はメインディッシュのために我慢しよう。命拾いしたな小僧」
「ま、待て……!」
ワニは悠々と有珠杵の背中に回り込む。姿を消すつもりだ。神社のときと同じ光景。だけど今回は見逃しじゃない。勝ち逃げだ。
所詮、薄っぺらい人生がつくり出す刃じゃ、呪いを断ち切るなんて無理な話だった。今できるのは、ワニの姿を眺めるだけ。
復讐なんて、有珠杵がいなくなった後じゃ意味がない。例えピヨが成長してワニに対抗できるようになったとしても……。
…………どうしてだ?
どうしてワニは、自分の不都合を残す?
有珠杵が命を絶ったとしても僕とピヨは残る。ワニが自分で言ったように、復讐する可能性を考えるべきだ。僕たちが自分の存在を脅かす脅威だということは、不意打ちで十分に味わったはず。二度目はないと、始末する意思を口に出していた。
ワニにとってベストなのは「僕を殺して有珠杵に憑りつき続ける」ことだ。相手のいない約束なんて、いくらでも破れる。
仮に守ったとしても、有珠杵はワニの望む未来を選択する。昨日の自宅での会話を聞いていたのなら、それくらいの危うさは汲み取れるはず。
僕を生かすメリットよりも、デメリットの方がはるかに大きい。頭の回るワニがそれを取り間違えるだろうか?
ワニの下半身が、ゆっくりと背中の陰に消えていく。余裕を見せつけているかのように。もしかしたら、都合よく考えているだけかもしれない。
血を失い体はだるいというのに、頭だけは活発に回転する。不思議な感覚だ。ろうそくの炎が燃え尽きる前の最後の揺らめき、かもしれない。
様々な経験が時系列を無視して浮かび上がる。これが噂の走馬灯ってやつか……。
嘘のプロフェッショナルは自分が不利な立場に追い込まれても、弱みを見せず、優位を装う。
櫻さんがワニを詐欺師のようだと
根拠なんて一切ないけれど、ワニが詐欺師と同じロジックで行動しているとしたら。すべてが自分を優位に見せるための演出だとしたら。
視界に残る黒い尻尾もまもなく隠れる。絶望確定まであと数秒。
過去の記憶と未来の想像が、洪水のように押し寄せる。情報の波に息ができない。
そして——
負荷に耐えきれず、思考回路がすべて落ちた。
空っぽの頭で。
心臓だけが動いて。
僕の左手はワニの尻尾を掴んでいた。
考えることをやめた僕の心が望むこと。
何がしたいのか。何をするべきか。
そんなの、たったひとつしかない。
肺に思い切り空気を送る。
湿った大気が鼻腔を抜け全身を巡る。
酸素で脳は機能を取り戻し、命のろうそくは燃えさかる!
「逃がすかぁぁぁぁぁぁッ!!!」
突起でざらついた尻尾を全力で引っ張る。見た目以上に軽い。
勢いのままテニスコートに叩きつけ、無理やり口を押し開け、乱暴に舌を掴む。
「ピヨもう一回だ!」
「やるぴよっ!」
足りない言葉などなかったかのように、瞬時に手先へ移動していたピヨが、舌にもう一度、無力化の能力を発動する。だけど放たれる光は初撃より弱々しい。
早々に手を引き抜いた僕は、ワニの背中に覆いかぶさり、とにかく舌を引き抜こうとした。暴れまわるワニに必死にしがみつき、牙や爪で至る所に傷が生まれる。
どうにかできるなんて算段はなかった。ただ必死で、唯一の弱点である舌に指先を食い込ませた。無計画で、ダサくて、惨めな抵抗。
「それでも嘘つきになるよりマシだ! 死んでも有珠杵の呪いを解いてやる!」
「仲村君!」
有珠杵の声が聞こえたが、振り向く余裕はない。ワニの動きはさながらロデオの暴れ牛。僕は振り回されてもしがみつく、格好悪いカウボーイだ。
ここまで情けない姿を、同じ場所で同じ相手に見られるなんて、金輪際笑いもの確定だ。一回目はお前のペットボトルスマッシュだけどな!
それでもいい。
たとえ手足を噛み砕かれても、四肢と引き換えにこの舌を引きちぎる!
「放せっ! 放せぇ!」
がむしゃらな行動に対して、ワニは噛みつくことも巨大化することもしない。焦るように僕の手から逃げようともがいている。再び有珠杵を人質に取ることもしない。
「早く……早く隠れないと……」
立ち回りで擦りむいた頬に一滴、冷たい刺激。
頭部、手の甲を続けて叩く。
嘘、だろ?
思わず見上げた空には、くっきりと輪郭を見せる満月が煌々と輝く。
こんな時に限って……天気雨ってなんだよ! どうしてワニに恵みをもたらす!
ワニが一層激しく暴れる。放さないように全神経を握力に注ぎ込む。水によって力を得たのかと思ったが、それにしては冷静さがまるでない。
黒い皮膚に雨が当たった。濡れた箇所が水ぶくれみたいに膨らむ。水が落ちたところからぶくぶくと、沸騰し始めた湯のように水疱を生み出す。
「俺の……俺の『皮』が」
前足の水疱が弾けた。皮が破れ、ペンキのように真っ白な液体が流れ出す。
「自慢の『皮』が……痛んでしまう! 最高級の『皮』がダメになるぅぅぅ!」
雨は水辺を住処とするワニに力を与えてしまう。そう思っていた。
だけど今の姿は傷ついているようにしか見えない。つまり、導き出される結論は。
「このワニ、水に弱い!」
神社でも隠れた後に雨が降った。
箱庭でも、有珠杵が全身ずぶ濡れになった後は姿を消した。ワニのくせに水しぶきを嫌がっていた表情にも合点がいく。
天候を察知して、雨を避けるために隠れただけ。弱点を知られないように、もっともな言動を見せていただけ。本当は僕の腕を食いちぎる余裕もないほど恐れていた。
有利だったのは僕の方だったんだ。
ワニの表面が傷ついていく一方で、暴れる力は増している。僕は一本のロープにしがみつくように舌を握りしめていた。握力は限界に近い。雨は傘をささなくてもいい程度の降り方。
水が少なすぎる。もっと、大量の水があれば……!
願った直後、ワニの背中に半透明の液体が大量に降り注ぐ。大量の気泡が生まれて弾ける様子は、コップに注いだ炭酸飲料の泡を想起させる。
断末魔の
「嘘が好きな割りに真っ赤じゃないのね、中身の色は」
有珠杵は聖水の入ったペットボトルの底面に、短剣を突き刺していた。先ほどまでの弱り切った様子はなく、冷静過ぎるほど冷静な口調で言葉を並べる。
「小娘の体には興味がない、なんて嘘。本当は浴室の水にも、濡れた私にも触れなかっただけじゃない」
短剣を払い、空のペットボトルを振り捨てる。徐々に増し始めた雨量が、僕と有珠杵の全身を濡らしていく。
「水に触ると皮膚を焼くのなら、水に濡れた私はお前に触れるということかしら」
「許さねえ、絶対に許さねぇ……俺が俺でいられなくなっちまうだろぅがあ!」
強打の衝撃で呼吸が止まる。痛みで声も出ない。それでも食いしばってうつ伏せに転がり、両手両膝を立てる。
「有珠杵、逃げろ……」
かすれる声は雨音に消される。目の前では、ワニが狂犬の如く次の獲物にとびかかった。しかし有珠杵は動じない。その場で体を
カウンターを喰らって落ちたワニの尻尾を掴むと、真上に放り投げ、即座に距離を測る。沈着していた眼が鋭く尖った。集中からの気合一閃。
覇気と共に繰り出した回し蹴りが、落下してきたワニの腹に慣性をねじ込む。弾き飛ばされた体は、鉄を砕くような音とともに、近くの物置小屋に打ちつけられた。
ワニにかつての姿を見る影もない。頑強な漆黒の鎧は剥がれ落ち、雨と埃で汚れた白が全身を上塗りしている。肌は水疱の破裂で無残に荒れ果てズタズタ。今の姿は使い古したボロ雑巾と大差ない。大きさもテニスラケットほどにまで縮小している。
ゆっくりと歩いてきた有珠杵がワニの鼻先に立つ。手には短剣。衣服は肌に張り付き、長いツインテールの先からは雨粒が滴る。
ワニを見下す目は凍えるほど冷たく、全身からは焼けつくような怒気を放つ。
有珠杵は無言でワニの鼻先を踏みつけた。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
「ヒールじゃないのが残念」
凄惨に告げる。踏むたびにツインテールがぴょんぴょんと振れた。
兎が餅を
「仲村君、もういいかしら」
「へっ? ……あ、ああ」
なぜ僕に止め時を聞く。
さんざん踏みつけたあと、有珠杵はつま先でワニの口を蹴り開き、雨に濡れた手で二枚目の舌を掴んで持ち上げた。体力が尽きたのか、ワニの口はだらしなく開き、舌があらわになっている。さばくために吊り下げたアンコウみたいだ。
息も絶え絶えなワニが、声を絞り出す。
「や……やめへ……くれ」
「却下」
舌の根元に短剣を刺す。血は出ない。
もはや痛みを訴える気力もないらしく、ただぐったりと唸る。
「大切なものを守る嘘なら必要、それ以外は不必要。だけど私は売り言葉に買い言葉で、全ての嘘を否定した。そしてお前に憑りつかれた。冷静さを欠いた取引は良い結果を出さないって、おばあちゃんも心がけていた」
今までのうっ憤を晴らすように、有珠杵はしゃべり続ける。
「青春時代の一年間なんて高い授業料を支払ったものね。でもこうして過払い分も取り返しているし、いい勉強になったと思うことにするわ」
引き抜いた短剣を、別の場所に刺す。ワニの体が小さく震える。
「だから今度は、私がお前に教えてあげる」
三つ目の風穴を開ける。反応はない。
「死んだ人間の言葉はゴミなんかじゃない。生きる人間を導く指針となり、希望の星となって人生を照らす。おばあちゃんも星を掲げた一人。目指すのはこの私、
有珠杵が短剣を水平に構える。露に濡れた刃が屋上の間接照明を受け、鈍く光る。
「『恋』で男を『振』りまわす女であれとおばあちゃんが名付けてくれた、
叫びは夜空へ、満月へ、天へと響き渡った。遥か遠くまで決意を伝えるように。
「やがて真実となる名前をその身に刻んで——地獄へ堕ちろォォォォッ!」
叫声とともに薙いだ刃が、ワニの舌を根元から
どさりと地に落ちたワニの体は、青白いもやのような煙を上げながら、蒸発するように跡形もなく消えた。
「
手の中に残っていた残骸を宙に放る。
照明の光を一身に浴びる有珠杵は、まるで別人だった。ずぶ濡れで凛と立つその姿は勇ましく、
これが有珠杵恋振という人間の正しい姿。嘘や真実に捕らわれなくなった、本当の彼女。
正しいことしか言えなかった彼女は正しくなかった。
嘘をつくことが人間の本質ならば、それを失った時点で存在は嘘になる。
だったら、嘘は人間にとって必要なのかもしれない。正しくあるために。
有珠杵が口にするロックが正しいかどうかは、やっぱり分からない。
だけど嘘でも本当でも、ロックな彼女は光り輝く。それだけは間違いない。
「仲村君、腕の怪我を見せて」
そばに座り込んだ有珠杵が答えを待たず、右腕のシャツをまくった。
「……傷が、ない?」
そんな馬鹿なと疑うも、現実に僕の腕は傷一つなかった。そういえば痛みがなくなっている。動かしても違和感がない。
でも、牙が突き刺さる感触も激痛も覚えている。シャツも赤く染まったままだ。
「きっと、ワニが消えたからぴよ」
ピヨの声には疲労の色を混じっていた。
「嘘つきに噛まれた傷はまやかし、だから傷も消えたんだぴよ」
「そういうもの……なのか」
よく見れば振り回されたときの擦り傷もほとんどなくなっている。痛みの記憶が残っている分、にわかに信じられないが、怪我が治っているに越したことはない。それに、ワニを倒したという確証を失いたくなかった。
「ってことらしいから、大丈夫みたいだ」
「……そう。良かったわ」
有珠杵はまくった腕を丁寧に戻してくれるが、このシャツは処分するしかない。でも今日の出来事は一生覚えているだろう。
「終わったんだな。どうにか嘘つきにならなくて済んだ」
「私も安心したわ。仲村君に針を千本飲ませなくて済んだから」
「お前は本当にやりそうで怖いよ」
冗談を交わしながら、長い夜の終わりを徐々に実感する。
「くわっぶしょい!」
遠くで盛大なくしゃみが聞こえた。
「……あれ、私は一体……なぜ濡れているんだ? 儀式はどうなったんだ?」
気絶していた路希先輩が事態を飲みこめずにいる。いろいろとタイミングがいい。
「帰りましょう。風邪を引くのも馬鹿らしいわ」
先に立ち上がった有珠杵が手を差し出す。その手を掴み、僕は立ち上がる。
雨はやんでいた。天気予報では、明日からしばらく晴れるらしい。
こうして、ワニと
有珠杵はワニの呪いから解放され、自由に生きることができる。これからが大変かもしれないけれど、持ち前の器量と度胸で上手くやっていくだろう。
そして。
僕の世界が終わる、最後の一日が始まった。
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