36 降り注ぐ幾億の雨粒よりも尊い一滴

 私は明日死ぬから。

 僕とピヨはたった一言に大きく乱される。


「急にどうした⁉」「訳を話すぴよ!」


 有珠杵の横顔は窓の外に向けられたまま、一切の興味を示さない。


「今朝、母が倒れたの。父と一緒に病院行ったわ」


 薄い唇が、淡々と事実だけを紡ぐ。


「私はついて行かなかった……行けなかった。見ず知らずの人間が大勢いる場所なんて危険だし、迷惑もかけたくない。黙ってベットに入っている方がよっぽど安全」


 大袈裟な話だと思った。会話に気を使わなければならないとはいえ、赤の他人が気安く話しかけてくるわけもない。まして、都合の悪い質問などしてこない。

 神経過敏。他人とすれ違うだけで警戒意識を働かせるほど、呪いは有珠杵の精神を追い詰めている。


「私のせいよ。私が周りに不幸を振りまいている」


「有珠杵の母親が倒れたのは罰則ペナルティが発動したせいか?」


 違うと言って首を振る。ワニの呪いが関わっていないのなら、答えは一つだ。


「お前が嘘をついていないのに誰かが不幸になったなら、それは偶然だ」


「じゃあ、母が倒れたのは、誰のせいなの?」


 周りで起こった不幸すべてを、自分の呪いに紐づけする。共時性シンクロニシティは有珠杵の思考を確実に捻じ曲げていた。

 櫻さんのアドバイスも的外れとは言えない。だったらあの時もらった助言通り、気持ちを落ち着かせよう。


「責任なんて誰にもないんだ。例えば……そう、たまたま疲れていたとかさ」


 軽視し過ぎず、かといって重要視もしない。自分なりに絶妙なトーンで切り返す。

 家庭の現状なんて一切知らないが、ここで黙っては有珠杵に非があると肯定する空気になる。なんでもいいから、とにかく打ち消していくんだ。


「とにかくお前に悪いところなんてない。周りの不幸を全部しょい込むことなんてないんだ」


「証明できるの? 呪いがなかったとしても、変わらず不幸が訪れたと」


「それは……できるわけないだろ」


「だとしたら可能性がある。私の呪いに責任がある可能性」


「なっ……」


 なんだその滅茶苦茶な理屈は! いつからお前と呪いはイコールになった!

 屁理屈を指摘してやりたいが、きっと最後は自分の責任に結びつけてしまう。

 今の精神状態から引っ張り上げるには、やはり元凶であるワニをどうにかするしかない。展望のある話題に変えよう。


「路希先輩が明日、完璧な聖水を持ってきてくれる。僕も試作段階のものに触れたけれど、あれは希望が持てるレベルの悪臭……」


「呪いが解けるなんて日は来ない」


 宣言のように掲げられたひと言。

 それからたっぷりと間を空けて、失望に乾いたため息を吐く。


「証明されたわ」


「? ……何がだ」


「もしも呪いが解けるなら……私の発言が嘘なら、ワニが罰則ペナルティを宣告しに来るはずよ。でもワニは現れない」


 今は空席の左肩を掴む。


「つまり私の言葉は真実。これからも呪いは解けないし、不幸をまき散らして生きていくしかないの」


「これから起こることに正しいも嘘もない。そんなの、ただの予言だ」


 いや、予言ですらない。ただの支離滅裂な戯言だ。

 有珠杵は一度も僕を見てくれない。光のない瞳はただ一途に窓の外を凝視する。視線は、地面に落ちゆくすべての水滴を凍らせかねないほどに冷たい。

 救いたいと願う言葉は彼女に届く前に凍りつき、粉々に砕け散る。


 絶対零度の完璧女ミス・アブソリュートゼロは、凍てつくような声で予言した。

 

「呪いは解けない。私は死ぬ」


 馬鹿馬鹿しい。そう笑い飛ばしてやりたい。だけど有珠杵は過去に自殺を図っている。僕の目の前で。死の予告には信憑性——実績に基づいた確約が伴う。

 とびきり頭の良い人間が、破綻した論理を真とする。今まで話した有珠杵とは別人のようだ。もしかしたら本人ですら、発した言葉を理解していないのかもしれない。


 ……そうか。唐突に理解した。

 有珠杵はもう、自分でもどうしていいのか分からないんだ。


 ワニに取り憑かれ、誰にも相談できず、たった一人で戦い続けた。信頼を失い、孤独となり、敵だらけの中で凛々しく立ちまわった。

 一年という月日で中身は擦り減り、憔悴しょうすいし、脆く朽ち果てた。


 有珠杵の心は折れかかっている。ワニの言葉を僕は誤って捉えていた。

 正確には「いつ折れてもおかしくない状況」だったんだ。例えば、雨粒がたった一滴叩いてもへし折れるほどに。


 崩壊した彼女は唯一残された手段を選ぶ。戦ってきた理由と矛盾する「自殺」という選択を。


 今が、有珠杵の生死を隔てる瀬戸際だとしたら。

 僕は打ち消さなければならない。


 破綻した論理を。

 死の予言を。

 歪んだ真実を。


「僕がその言葉を嘘にする」


 言い淀んではいけない。不明瞭な希望ではいけない。口にするのは確定事項だ。


「呪いは解ける。お前は死なない。明日の儀式で、有珠杵恋振は解放される」


「……何ができるの?」


 問いかけは窓の向こうに投げられた。僕は二の句を告げない。


「ユートにはワニに対抗する手段があるぴよ」


 ピヨが僕の言葉を引き継ぐ。


「今度こそ信用するぴよ」


 下水処理場の屋上でも、ピヨは信用を求めた。

 あのときは無理だと、はっきり言われたことを思い出す。


「コフレ。信じる者は救われるぴよ」


 僕に呪いという病を治す能力はない。だけど信じてくれるのなら、僕は偽薬として、全力でワニという病魔に立ち向かおう。

 だから、顔を背けず向き合って欲しい。


 馬鹿ね。無表情な横顔がそしる。


「私の体にしか興味のない男を誰が信じるのよ……あっ」


 白い肌に一筋の涙がつたう。

 ワニが流した嘘の涙なんかじゃない。有珠杵が流した本当の涙。

 降り注ぐ幾億の雨粒よりも尊い一滴。


 その一滴には全てが込められていた。


「……今日はもう帰って」


 伏せた顔を手でぬぐうことはしない。

 湿った髪がブラインドとなって、有珠杵の表情を阻む。


「明日は行ってあげるから。お願い」


 言質がとれた。それまでは早まったことをしないだろう。

 僕は無言でソファを立つと、斜めがけのショルダーバッグから、借りていたものをテーブルの上に置く。


「傘、ありがとな。助かったよ。それと」


 白い折り畳み傘の隣に、黒い紙袋を置いた。金色のリボンが静かに光る。


「お礼ってわけじゃないけれど、気に入らなかったら処分して構わないから」


 返事はない。


「ジュースごちそうさま。また明日」


 有珠杵の顔は最後まで見られなかった。




 帰り道の雨脚は、来た時よりも強くなっていた。

 多少の音はかき消えるだろうと、周囲を気にせずピヨに語りかける。


「悪い。勢いでマズいことを口走った」


「謝る必要なんてないぴよ。ユートはあのとき、言わなければいけない事を言ったぴよ。だから今日『起こるかもしれなかった最悪』を回避できたぴよ」


 延命と引き換えに、取り返しのつかない約束をした。

 明日の儀式で、僕たちはワニの呪いを解く——結晶を取り返さなければならない。

 問題は、肝心の手段は未だ見つかっていないことだ。


 バチバチと傘を叩く雨粒の音が、僕の行為を非難しているように聞こえる。

 

「もっと他の言葉……正しい選択肢があったよな」


「ユート、図書館の食堂で言ったことを覚えているぴよ?」


 食堂……あそこには残念な記憶しかないんだけれど。


「人生はテレビゲームじゃないぴよ。選択した時点で運命は定まらないし、選んだ道を努力で正解にできるぴよ」


 重要なのは正しい選択をすることではなく、選んだ道でどうするか。含蓄のある言葉だ。


「ひよこに人生を教えられるとはな」


「ピヨは道を示して導く指導役ぴよ。見た目に騙されちゃいけないぴよっ」


 有珠杵邸の豪華さに白目を向いていたやつが何を言う。思わず笑いがこみ上げた。


「……決着を着ける時ぴよ」


「ああ。できることは、全部やるしかない」


 しっかりレベルと装備を整えてからボスに挑むタイプの僕にとっては、不安でたまらない。

 だけど勝負に勝たなければ、有珠杵の未来は潰える。敗北は許されない。

 目的を果たすんだ。どんな手段を使ってでも。



 そして翌日。

 僕は有珠杵を嘘つきにするため、因縁の下水処理場へと向かった。

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