35 もうそろそろ晴れ間が見たい
日曜の昼下がり。僕は再び有珠杵の家にやってきた。止む気配のない雨の中でも、格の違う佇まいは健在だ。
訪問目的は、路希先輩から預かった手紙を渡すこと。果たして家にいるだろうか。
僕は頭の中で挨拶の文言を反復しながら、インターホンを押した。
数秒待ってみるが応答はない。
「不在か」
「いるぴよ」
すかさずピヨが指摘する。
「家の中から
そうか。結晶の気配がするということは、有珠杵が在宅である証明。なんだかGPSみたいな探知能力だ。
「問題は居留守を使われた場合だよな」
当然、勝手に上がることはできない。ポストに手紙だけ投函してもいいが、何せ解呪の儀式は明日だ。来るという確実な返事が欲しい。
もう一度チャイムを押そうと指を伸ばしたとき、インターホンから受話器を取るような音がした。
『ちょっと待ってて』
そっけない一言だけ残してすぐに切れた。声は間違いなく有珠杵だ。
備え付けのレンズが訪問者を見つめる。向こうは突然やってきた僕をどう思ったのだろう。少なくとも歓迎はしないよな。
「目的は果たせそうだ」
骨折り損にならなくて済んだと安堵する。
三十分ほど経過し、僕は傘をさしたまま、未だ鉄門の前で立ち尽くしていた。
「……ちょっと、って言ったよな」
さすがに長くて心配になる。色々勘繰ってしまうほどに。
「ワニに何かされたのか」
「それはないと思うぴよ」
言い切るピヨに根拠を問い返す。
「コフレの声を聞いて数分後に、結晶の気配が消えたぴよ」
「それって……どういうことだ?」
「ワニが結晶の力を使っていないということぴよ。だから、コフレに悪さしているってことはないぴよ」
僕たちの予想通りなら、呪いは結晶の力によって発動している。エネルギー源が稼働していないから、呪いも発動していないってことか。
「以前にも何度かあったぴよ。コフレが池に飛び込んだ後や、神社でワニが引き上げた後とか……こうなると、ピヨもどこにいるのか感知できなくなるぴよ」
「厄介な情報がまた一つ増えた……」
どちらのときも、ワニの姿は完全に消えていた。襲われる心配はないのかもしれないが、こちらも手が出せなくなる。これは相手にとって有利な状態だ。
『待たせたわね。入って』
重い思考を遮るように、
「そのへんの詳しい話は有珠杵に聞いてみよう」
僕たちは門をくぐり抜け、敷地へ足を踏み入れた。
玄関に入ると、さっそく富裕層の洗礼を受ける。
正面には幅広のらせん階段、ガラスの装飾が煌めくシャンデリア、スタイリッシュな立ち姿で存在を主張する大型の観葉植物。どれもこれも、セレブのお宅訪問番組でしか見たことないぞ。
「靴置き場でお布団を敷いて寝られるぴよ……こ、この世の理が崩壊するぴよ……」
またピヨが生活格差に当てられている。面倒だから特に声はかけない。
「突然訪ねて来るなんて、非常識にも程があるわね」
腕組みしながら登場した有珠杵は、真っ白いワンピースを着ていた。
露出した手足は細く白く、口を開かなければ維持できる清楚なイメージを拡張する服装。全体からお嬢様としてのオーラがにじみ出ている。
「そこに関しては謝罪しかない。急用ですぐに会いたかったんだ」
「……許してあげるわ。そこに出ているスリッパを使って」
「いや、用事だけ済ませたら帰るよ。迷惑はかけない」
気を使ったつもりだった。しかし、有珠杵のしかめっ面はより深くなり、靴を脱ごうとしない僕の前に仁王立ちする。
「突然押しかけて自分の用事だけ済ませて帰るなんて、都合のいい女としか見ていないのね。私のこと」
せっけんのいい香りがした。見れば、長い黒髪がしっとりと濡れている。
「相変わらず言い方に語弊がつきまとうな。家の人に迷惑だろ」
「今は私一人よ……前もって教えてあげるけれど、緊急通報すれば八分で警備員が飛んでくるわ」
「犯罪を懸念する相手に敷居を跨がせるなよ」
有珠杵に襲い掛かっても返り討ちだろ。あの回し蹴りで一発だ。
それはともかく、両親がいないなら、話をするにはちょうどいいかもしれない。
上質なスリッパに履き替えると、リビングに案内された。家具はどれも高級に違いない。壁一面が大きな窓になっているのも、金持ちの家特有の造りに見える。
「頭の上の雛鳥が白目を向いているけれど大丈夫?」
僕の頭部に冷ややかな視線が注がれる。壁にかかっている絵画でも見て絶叫するのかと思ったが、それすら通り越して気絶したようだ。ピヨにはもう、貧民発作という診断を下すより他にない。いつものことだと伝えて、ソファに座らせてもらう。
思った以上に体が沈み、声を出さずに驚く。僕もピヨのことを馬鹿にできない。
「何が飲みたい? コーヒー、紅茶、オレンジジュース、ウィスキーがあるわ」
「お前の冗談は冗談に聞こえない。オレンジジュースでお願いします」
「ふん、お子様ね」
どうせどれを選んでも罵るだろうに。一応、客として扱ってくれるようだ。
やがてテーブルには、細かい文様が描かれたグラスが二つ置かれ、対面に有珠杵が腰掛ける。
ワニの姿は見当たらない。どこに隠れているんだ……?
「じろじろといやらしい男」
自らの雪色の肌を抱くように両手を回す。
「しっぽりと濡れそぼった湯上り肌に興奮を覚えたのね」
「どうしても僕を変態にしたいらしいな……って、風呂に入っていたのか?」
「シャワー。急いで浴びたおかげで髪は生乾き」
それでせっけんの香りがしたのか……。
「いや、なんで来客を確認してからシャワーを浴びる必要があるんだ」
「当然の行為よ。寝起きに訪問されて、そのまま会うほど無礼な人間じゃないの」
この時間まで寝ていたのか……悪いことをしたと思う反面、それで三十分も待たされたのかと思うと、少し腹立たしくもある。シャワーなんて十分もかからないだろ。
「ぷぴぴ、ユートは乙女心が分かっていないぴよねえ」
いつの間にか息を吹き返したピヨが、言葉に嘲笑を交える。
「女子の寝起きは髪もぼさぼさで顔も冴えないし、すっごく恥ずかしいものぴよ」
「黙りなさい雛鳥」
氷柱で刺し貫くような一言とともに、僕の頭上を睨みつける。
「癇に障る声で鳴き続けるなら、その羽を切り落としてトマトソースで煮込むわよ」
「擁護した結果が食材提供ぴよ⁉」
「おばあちゃんが言っていたわ。腹の立つ相手が現れたら、そいつの大事な部分を切り落として煮込んでやるのがロックだって」
「ロックとつければ何でも許される思想から目を覚ますぴよ!」
ピーピーとやりとりが続く。こいつら、仲がいいんだか悪いんだか……大体、有珠杵はロックを聴くように見えない。僕も聴かないけれど、便利な言葉じゃないことくらいは知っている。あと寝起きなんて誰でもパッとしない。何を気にするんだ。
……って駄目だ、どうしてか有珠杵と話しているとペースが惑わされる。本題を切り込まなければ。我に返った僕は預かっていた封筒を差し出す。
「これ、路希先輩から。お前に渡してほしいって」
封筒を受け取った有珠杵は、中に入っていた一枚の手紙に目を通す。
「……まだ諦めていなかったのね」
ちなみに僕は中身を見ていない。知っているのは、スマートフォンに送られてきた解呪儀式の詳細だけ。おそらく、同じ内容が書かれているのだろう。
読み終わると手紙をしまって、封筒をテーブルの上に投げ戻す。
「揃いもそろって物好きばかり。それとも暇つぶしで関わっているのかしら」
「路希先輩は本気だぞ。僕だって、可能性はゼロじゃないと思っている」
聖水が奇跡を起こせば最高だが、それ以外にも儀式を行う意味はある。ワニとの再接触で、ピヨが弱点を見つけてくれるかもしれない。有珠杵の無事が確認できることも利点だ。
「急な話だけど明日、時間を作ってくれないか」
答えず、有珠杵は窓の外に顔を向けた。まるで遠い過去を懐かしむように。
広い庭にしとしとと降る雨。窓ガラスの
「そういやワニが見当たらな……」
「意味がないわ」
横顔は冷たく無慈悲に切り裂いた。
「呪いを解く必要なんてない」
「えっ?」「ぴっ?」
僕とピヨの疑問符が揃う。
どういうことだ? まさか、自力でワニの呪いに対処したのか?
「私は」
雨の音にすら負けそうな小さな声。
だけど、その一言ははっきりと僕の耳に届いた。
「もう死ぬから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます