33 シンクロニシティ

「悪霊に取り憑かれた。そう思い込んでいるってことよ」


 櫻さんはきっぱりと言い放った。すぐさま聞き返す僕に対して、落ち着きを促すように言葉が並ぶ。


「霊魂が取り憑くことで起きる祟りを霊障れいしょうと言って、霊の種類で障害が違うの。動物霊の場合は、自己中心的な性格に変化したり、取り憑かれた動物の生態に近づくらしいわ。心当たりはある?」


 首を横に振り、いいえと答える。


「もうひとつ気になったのは、悪霊として知能が高すぎるところ」


 以前、路希先輩も指摘していた点だ。


「取り憑いた人間に駆け引きを持ち掛ける思考や、条件つきで霊障を引き起こすなんて、低級な霊にできることじゃない。そんなことができるのは悪霊ではなく、悪魔よ。もちろん、悪魔憑きでもないけれど」


 悪魔。

 人をたぶらかし、貶める存在。あのワニには座りのよい呼び方だ。

 でも位置づけなんてどうでもいい。ワニは思い込みではなく、存在しているのだ。現実に影響だって与えている。


「取り憑いていないとしたら、周りの人に不幸があったのはどう説明するんですか? 嘘をついたせいで飼い犬が死んで、母親が倒れたんですよ」


「よく、考えてみて」


 優しく、ゆっくりと。聞く者を導くような声が室内に響く。


「嘘をついてから二週間後に飼い犬が亡くなり、その次は一か月後に母親が入院した。不自然に時間が空きすぎじゃない?」


 期間が一定ではないのは何故か。

 死と病気という結果の差はどうしてか。

 結果が嘘の大きさによるとして、それを決める基準はなにか。


 箇条書きのように述べられる疑問点が、反論の意思を削いでいく。

 ワニのさじ加減、なんて曖昧な言葉に意味はない。


「知能がない悪霊は力の加減なんてできない。頭が回るなら、罰をすぐに実行するのが自然よね」


 櫻さんは悪霊という超常的な存在に対し、理屈を重ねる。丁寧に、結論へと導くように。


「これらの疑問をすべて解決する答えがあるわ。とても簡単な答え」


 深紅の唇が僕に告げる。


 『嘘をついたこと』と『周囲の不幸』はまったく関係がないの、と。


「嘘をついた二週間後にたまたま・・・・犬が死んだ。一か月後にたまたま・・・・母親が入院した。運悪く重なった事象を、恋振ちゃんは結びつけてしまっただけ。偶然に意味を持たせてしまったのよ」


 共時性シンクロニシティという言葉を教えてもらった。

 関係のない二つの事柄を無意識に結びつける心理。非因果的連関の原理。

 虫の知らせ。巡り合わせ。えん。言い方は様々あるが、有珠杵は今回の出来事をそう捉えてしまったそうだ。

 

 なぜそう考えてしまったのか。そこには精神的な不安が関係しているという。


「人間には、自分の心を守るための安全装置が備わっているの。その一つが『合理化』という防衛機制ぼうえいきせい。つらいことを受け止められないとき、やったことに対して思った通りの結果が出なかったときに、理由を後づけして自分を安心させるの」


 櫻さんに有珠杵の祖母の話はしていない。なのに知らない出来事を汲み取ったような、見透かしたような話をする。

 テストで全教科満点を取ったのにおばあちゃんが死んだ。救えなかった。それを自分のせいだと思い込んだ、勘違いを指摘している。


「じゃあ……ワニは有珠杵の妄想だって言いたいんですか? 現実から目を背けるための作り話って言いたいんですか……?」


「私はそう思う」


 震える僕の問いかけに、毅然とした返答。


「合理化は精神の安定上、大切な機能だけど、行き過ぎると実生活や人間関係を妨げるわ。だからゆーくんができることは、心の負担を減らしてあげられるような……」


「有珠杵はワニに取り憑かれているんです!」


 僕はこの目で見ている! ワニがどれだけ卑劣で、有珠杵を苦しめているか身をもって知っているんだ! 現実から逃れるために、不安定な精神が生み出した妄想なんかじゃない……思い込みなんかじゃない!


「優斗、落ち着け」


 隣から路希先輩のたしなめる声が届く。テーブルの上に置かれた拳の底が痛かった。


「サクラの考えは真っ当ぴよ」


 頭の上からは、僕だけが聞こえる声。


「取り憑かれたなんて聞けば、まずは精神的な原因を考えるぴよ。それくらい悪霊という存在は非現実的で、規格から外れすぎているのがワニぴよ」


 それほどの存在を、僕は認めてしまっている。


「ユートの気持ちは分かるぴよ。でもサクラだって親身に答えてくれたから、怒っちゃダメぴよ」


 抜け落ちていた常識が、僕の頭を冷やす。

 悪霊なんていない。それは、しゃべる猫なんていないと考えるくらい普通だ。この世界の在り方が希薄になっている自分を認めよう。


 僕の頭の上にはひよこがいる。有珠杵はワニを背負っている。

 始めは存在を疑っていたのに、それは当たり前のように在る。目に映る現実を否定はできない。


 ならば、僕の眼に見える世界。僕以外の眼に見えている世界。


 どっちが現実で、真実だ?


 日常と非日常のあいだに引かれていた線は、目を凝らさなければ見えないほどに薄くなっている。


 今、僕はどこに立っているんだ……?


 見えるはずのない道標を探す視線は、優しく微笑む櫻さんにたどり着いた。

 ここは店の中。目の前にいるのは相談を聞いてくれた人。


「テーブル……叩いてしまって、すみません」


 痛みの落ち着いた拳をテーブルの下に引っ込める。

 謝罪を笑顔で受け止めてくれた櫻さんは、またしても脈絡なく切り出す。


「この店の裏にホテルがあるんだけどね、そこで殺人事件があったの」


 穏やかではない内容に、空気が張り詰める。


「詐欺師の男にお金を騙し取られた女が、そいつの首をベルトで絞めて殺しちゃったんだって。それから……出るらしいのよ」


 大きな胸の前で両手を垂らし、ペロッと舌を出す。


「迷惑な話よねー。悪さして殺されたのに、死んだ後もまだこの世に居座るのよ? さっさと地獄に落ちればいいのに」


 世間話感覚で穏やかじゃないことを言う。同性の僕まで申し訳ない気持ちだ。


「ま、男はどうでもいいんだけれど。馬鹿な男をとっちめる手段は他にもあったと思うの。それでも殺すっていう選択を取った女性がかわいそうでね。周りに相談したり、力になってくれる人がいたら、手を汚さずに済んだかもしれないのに」


 だからゆーくん。慈しみの表情が向けられる。


「恋振ちゃんの心の支えになってあげて。ゆーくんのような男の子がそばにいてくれるだけで、向こうもきっと安心していると思う」


「…………いや、そんな素振りは見た覚えがないですね」


 耳に残るのは辛辣な言葉ばかり。これは出会ったときから換算してだ。真面目に否定したのに、櫻さんは分かっていると言わん表情で何度もうなずく。


「恋振ちゃんはそういうのは見せない子なのねえ……んんぅ甘酸っぱ~い! まさに青春!」


 櫻さんの頭の中で、有珠杵はどんなキャラクターだと想像されているのだろう。とても都合のいい様に補完されている気がする。


「私はこういう話が聞きたかったの。ニーズが満たされたわ。若さというエナジーを補給できた感じよ。なんだか肌のハリつやが良くなった思わない?」


「櫻さん! ホテルの悪霊の話、もっと詳しく聞きたいです!」


 リアクションに困っていると、興味津々と言った様子の路希先輩が、話を元に戻してくれた。素直にありがたい。


「きーちゃんはこういう話、本当に好きねー。でも私も小耳にはさんだ程度なのよ。何年も昔の話らしくて」


「その強い怨念が今なお、利用客に被害を与えているのですか?」


「裏のホテルはとっくに潰れているわ。事件があったのは本当だけれど、もう解決しているし、詐欺師の悪霊も酒の肴として面白半分で語られていたみたい。さすがに男も地獄にしょっ引かれているでしょ」


 どれだけ地獄に落としたいぴよ……理解できない声に同調するように、僕も紅茶を飲むしかなかった。この人、今までどんな恋愛をしてきたのだろう。


「でも、そのワニの悪霊って詐欺師みたいね。話し方とか」


 有珠杵から聞いた話……という体で説明したが、実際にワニと言葉を交わしているせいもあり、妙な具体性を帯びていたかもしれない。

 櫻さんはかじったクッキーをソーサーのふちに置く。


「相手の心を見透かしたような口ぶりとか、あえて反論しにくい言い回しをしているように感じたから。超常的な力っていうよりは、技術って感じがしたの」


「そんなことができるんですか、詐欺師って」


「コールド・リーディングって手法で、特別なことじゃないの。訓練すれば外見や仕草、少しの会話で相手の思考や特質を読み取れるようになるわ」


 ワニと対峙した時、僕の心を読んだかのような返答してきた場面があった。特別な能力とばかり思っていたのに……もしこの話を知っていたら、少しは立ち振る舞いも変わっていただろうか。


「詐欺師は嘘のプロフェッショナルよ。相手の心を揺さぶる方法なんてたくさん持っているわ。それに自分が不利な立場に追い込まれても、弱みを見せず、優位を装う。二人とも、口の上手いやつに引っかからないようにね」


 悪魔。詐欺師。嘘のプロフェッショナル。どの言葉もワニを的確に表現している。

 神社で砲煙弾雨の如く浴びせられた言葉は、今なお鉛玉のような重さを持って心に残ったままだ。


「正直でいるのって、馬鹿なことなんでしょうか」


 カップの中身に神社での記憶を映す。

 あいつの嘘に対する主義主張は常軌を逸していた。絶対におかしい。なのに言い返すことが出来ず、ただ屈するしかなかった。今でも悔しく思う。


 嘘を認めないのは愚かな行為。

 本当に人間は、嘘がないと滅んでしまうのだろうか。


「正直者は馬鹿を見るって言うわよね。私は大っ嫌いな言葉」


 細く長い指が、残り半分のクッキーさらに半分に割る。


「この世界は嘘が上手い人間ほど楽に生きていけるし、正直が仇や損失になることも多聞にある。みんなどこかで気がついてしまう賢い生き方」


 でもね。櫻さんは天井を仰いだ。鎖で吊り下げられたステンドグラス風の照明が、静かな輝きを放っている。


「世界を支えているのは間違いなく、正しく生きる人々よ。さげすむ権利なんて誰にもない。そして嘘に頼ると人生は整合性を失い、歪み、やがてその身に報いを受ける日が来る」


 絶対じゃないところが、もどかしいけれどね。その言葉は諦めを通り越し、呆れて受け入れるように聞こえた。


「クレジットカードみたいなものかしら? その場はしのげるけれど、あとでツケを支払うときがくる……って、高校生にはしっくりこないわよね」


 しんみりした雰囲気を出してしまった自分をごまかすように、アハハと笑ってクッキーを口に放り込む。


「ようするに、嘘なんてつかないに越したことはない。これが私の答えね。相談も含めて、参考になったかしら?」


「はい。お話しして良かったです」


 解決策は得られなかったが、気持ちが前向きになったというか、これからの活力をもらった気がする。何と言うか、言葉に説得力のある人だ。


「先輩もありがとうございました」


「私は紹介したに過ぎないよ」


 悟るように笑いながら、空になったカップを置く。

 櫻さんと話すきっかけを与えてくれたのは路希先輩だ。トイレで偶然会わなければ、僕は今ここにはいない。


「もう聞きたいことは聞けたのかい?」


 質問はもう一つ残っていた。


 誰も信じてくれなくても、僕らにはワニと対峙しなければならない現実が待っている。何かしらの有効な手段は手に入れたい。


「悪霊に対抗する武器ってありませんか?」


 始めてみたときから気になっていた。店の奥——ガラスケースの中に収められた、奇妙なデザインの短剣。

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