32 凍りついた時間を溶かす言葉

 扉の先は本当に別空間だった。

 外光の遮断された室内で明かりを湛えるのは、無数の天井照明。全て形が異なり、それぞれが穏やかな赤黄色を灯す。何かの映画で観た、ムードのあるバーみたいな薄暗さだ。うっすらと漂う花の匂いは、嗅ぐほどに体の緊張がほぐれていく気がする。


 部屋の中央に木製の丸いテーブルと、高級感のある椅子が四脚。

 壁を埋める棚やチェストには、本や多種多様な小物、それにシルバーアクセサリだろうか……統一感のない雑貨が並べられている。

 店というより、外国のお洒落な家の一部屋、と言われた方がしっくりくる。


「センスのいいアンティークショップみたいぴよ」


 入り口で呆然とする僕のわきを抜け、路希先輩が部屋の中に呼びかける。


「さくらさーん、来ましたよー」


 呼びかけに応じる声はない。準備中で店の人は不在なのだろうか。


「優斗、奥の方を見てきてもらえるかい?」


 奥と言うほど部屋の中は広くない。路希先輩の示す先には、腰までの高さのガラスケースが置かれている。中に陳列されているのは、やけに小さな短剣や、錆びた釘。それに値の張りそうな指輪やネックレス。一体何を扱っている店なんだ?


「よく来たにゃ。人間」


 顔を上げると、ガラスケースの端に黒い物体が鎮座していた。ほのかな闇に同化したそれは、耳をピンと立て、まん丸の眼で僕を見上げている。


「黒い……猫?」


「にゃあはこの店の主人、さくらだにゃ」


「あ……初めまして、仲村なかむら優斗ゆうとと言います」


 反射的に名乗り頭を下げる。とんでもないところに案内されたもんだ。

 しかし僕には、ひよこやワニと会話した実績がある。猫がしゃべったところで物怖じはしない。


「にゃあを見てもあまり驚かにゃいとは……面白い子ね」


「うおおっ後ろから人が生えてきた⁉」


「普通逆じゃない?」


 ガラスケースの陰からぬぅ、と立ち上がったのはスーツに身を包んだ女性。ウェーブのかかった栗色の髪に、一本通った鼻筋。仕事のできる会社員といった風貌だ。


「これって恒例行事なんですか? 私のときもやりましたよね」


 やれやれと言った口調の路希先輩。どうやら一連の流れは仕組まれたものらしい。


「若い子にはいたずらしたくなっちゃうのよ。ごめんなさいね」


 女性は黒猫のぬいぐるみを持ち上げ、招き猫のように手を丸くした。


「改めまして。この店の店主、さくらよ。よろしくね」


 渡された名刺には、マジックショップ『Annaアンナ-Barbaraバルメラ』店主。占い師。二つの肩書が載っている。


「たわわなスイカがぱっつんぱっつんぴよ」


 ピヨがおっさんみたいなコメントを寄せているのは、櫻さんの豊満な胸のことだ。

 サイズが小さいのではと思うほど、シャツブラウスが丸みを帯びた張りを突き出している。胸元がはだけているのは、ボタンが留められないからなのか?


 胸の大きなキャラクターなんて、漫画やゲームでたくさん見ているけれど……本物のインパクトは創作物の比じゃない。目がどうしても顔からくだりたがる。

 初対面でいやらしい男子高校生だと思われるのは嫌だ。意志を強く持たなければ。


「優斗くんだったわね……じゃあ、ゆーくんでいい?」


「はっ、はい。今日は突然すみません」


「いいのよ。もともと、きーちゃんと会う約束だったし、若い子は大歓迎よ。かけてちょうだい。いま飲み物を用意するわね」


 再び頭を下げてから、中央の椅子に座る。木製のアームチェアは、座面と背もたれにワインレッドの張地はりじが施され、とても座り心地が良い。


「私が『洗礼』を受けた時は驚きの余り声も出なかったが、さすが優斗だな」


 隣に座った路希先輩は帽子を脱いで、手櫛で軽く髪を整える。


「今度は僕も驚くようにします」


 普通、猫はしゃべらない。人間の言葉を話したら驚く。

 当たり前が抜けていたことを自罰する。それで図書館では昼食を逃したんだ。気をつけないと。

 身の振る舞いを再確認している僕に、路希先輩が顔を寄せてきた。


「事前に相談があることは伝えてある。ピヨのことを打ち明けるかどうかは任せる」


「まあ、言わない方がいいぴよね」


 妥当な意見だ。面白い子という評価で踏みとどまらないと。


「お待たせ。ジュースがなくてごめんなさい」


 櫻さんは長方形の銀トレーをテーブルの中央に置いた。運ばれてきた白磁のティーポッドやカップは、素人目にも高そうだ。

 中身を注いだカップが目の前に置かれると、湯気と一緒に甘い香りが立ち上る。


「この紅茶、バニラの香りがする」


「バニラのフレーバーティーよ。お砂糖はお好みで入れてね」


 初めから甘いのかな……? 適量が分からないので、とりあえずスプーン一杯の砂糖を混ぜてカップに口をつけた。

 ……味は紅茶だ。でも鼻に抜けるバニラの香りが、安らぎのある味わいを残す。


「美味しいです」


「喜んでもらえてよかったわ。クッキーもあるから食べて頂戴」


 僕の対面に座った櫻さんはにこりと微笑む。左目の泣きぼくろが大人の色気を一層引き立てている気がした。

 紅茶のうっとりとした甘みが全身を巡り、心を解きほぐす。暖かな薄暗さ手伝って、初めの緊張はどこへやら。すっかり気分は弛緩してしまった。


「すごく心地がいいお店ですね」


「ありがとう。初めて来た人に言ってもらえると、内装にこだわった甲斐があるわ」


「そういえば表にマジックショップ、と書かれていたのですが、何を売っているお店なんですか?」


 ゲームの世界なら、魔法や特殊なアイテムを売っていそうだけれど……室内に置かれたものを見る限り、手品の道具でもなさそうだ。

 訊ねてから失礼かなと思ったが、櫻さんは品の良い笑顔で答えてくれた。


「占いの道具とか、おまじないのグッズ、魔除けのお守りなんかを売っているわ。そこいらにあるような店じゃないから、馴染みはないわよね」


「こんなお店があるぴよか。ワニに効きそうなものがあればいいぴよ」


 どうだろうなあ……吸血鬼に十字架と違って、明確な弱点もない相手だぞ。

 短剣っぽいものはあったけれど、ワニの鎧みたいな肌には通らなさそうだ。


「櫻さん、スーツってことは、午前中は仕事ですか?」


「定期の占い教室があったの。午後はフリーでお店にいようと思ったのだけれど、休日にこんな天気じゃねえ……だから、ゆっくりしていって」


「ありがとうございます。私もここの雰囲気は大好きです」


 路希先輩と櫻さんの話を聞きながら、クッキーに手を伸ばす。

 甘みを抑えたプレーンな味。紅茶と相性のいいお菓子だ。


「さて、それじゃあ聞きましょうか。ゆーくんの恋愛相談を」


「ゲホッ⁉ れっ、れれ……ハァ⁉」


 予想外の言葉に口まで運んだカップを離す。慌てすぎて言葉の出てこない僕を見かねてか、路希先輩が口を挟む。


「いえ、櫻さん……相談とは言いましたが、恋愛とは言っていません」


「えーっそうなのぉ?」


 半分残念、半分知ってた表情を浮かべる相談相手。


「せっかく高校生の甘ずっぱぁ~い恋バナを聞いて若返れると思ってたのにぃ」


「……恋バナじゃなくてすみません」


「冗談よじょーだん。歳を取ると、年下の可愛い子をからかいたくなっちゃうもんなのよ。ゆーくんみたいに真面目な子は特にね」


 うふふと笑いながら、顔の前で手をひらひらさせる。僕は今からこの人に相談を持ち掛けようとしているんだよな……大丈夫か?

 にじみ出る不安を察知したのか、路希先輩が「心配するな」と声をかけてくる。


「櫻さんはオカルトにも詳しいし、頼りになる大人の女性だ。きっといいアドバイスをもらえる」


「あらきーちゃん、嬉しいこと言ってくれるじゃない。もう一杯飲む、紅茶? ゆーくんも」


 おばさんというよりスナックのママぴよ。軽やかな足取りで紅茶のおかわりを準備しにいった背中に向けて、ピヨがつぶやく。


「ちょっと不安はあるぴよが……こんな店を構えるくらいだから、ある程度の専門知識は持っていそうぴよ。ダメ元で相談するだけしてみるぴよ」


 話すだけタダ。問題はどこまで話すか、だ。

 二杯目の紅茶を注いでくれた櫻さんに、僕は解決したいことを説明した。


 知り合いがワニの悪霊に取り憑かれたと打ち明けてきた。

 かけられた呪いは嘘をつくと家族が不幸な目に遭う。ごまかすと体調が悪くなる。

 ワニは条件を設けたうえで、死ぬまで取り憑くと脅してきた。


 内容自体は公園で路希先輩に話したことの繰り返し。そこからピヨに関してと、僕自身がワニに関与した情報を削った。果たして、信じてくれるだろうか。

 櫻さんは僕のたどたどしい話を、最後まで真剣に聞いてくれた。


「力になれることはないのかな、って悩んでいます」


 話し終わるとやや間を空けて、目の前でカップをソーサーに置く音が鳴る。


「昔ね」

 櫻さんがおもむろに口を開いた。

「付き合っていた男がいるの。顔はそんなに好みじゃなかったけれど、そこそこ金を持っていたわ」


「何の話ぴよ……?」


 僕にも分からない。


「あるデートの夕食どき、そいつは私がすっごく気に入っていたバッグにワインをこぼしやがったの」


 カップを包むように両手を添える。夜空に星をあしらった様なネイルが、天井の光を受けて小さく光る。


「高級品でデリケートな素材だから、すぐに表面が水ぶくれみたいに荒れて変色しちゃったのよ。気をつけて使っていたのに、天気のいい日しか持ち歩かなかったのに……いま思い出しても腹が立つ……まだ付き合ってもないのに俺の女みたいな扱いだったし……お前が思うほど安い女じゃないっての……!」


 両手の震えがカップを伝い、ソーサーの上でカチャカチャとわななく。


「そ、それから……?」


「バックは捨てたわ。男と一緒にね」


「……」


 話が終わり、場に残ったのは沈黙だけだった。

 横目で見た路希先輩は、何と言っていいのか分からない表情を隠すように下を向いている。おそらく僕と同じ気持ちだろう。


「ぴぁ……もしかして、まったく全然関係のない、昔つき合っていたダメ男エピソードを聞かされただけぴよか……?」


 驚愕に声を震わせるピヨ。僕も意味が分からなさ過ぎて、凍りついた時間を溶かす言葉が出てこない。

 ときを止めた張本人は、僕たちに柔和な笑みを向けた。


「心配しないで。弁償させて、もっといいバッグを買ったから」


 これっぽっちも心配していなかったんだけど……それにもっといいバッグって……え、何これ? 何の報告?


「鰐と聞いてつい、思い出しちゃったの」


「つい、というわりには根深い恨みを感じるぴよ……」


「私の話はともかく」


 櫻さんは居住まいを正し、自分で脱線させた話を自分で戻した。

 ダメ男エピソードのおかげで、この先の期待値は限りなくゼロに近い。


「まず先に断っておくわ。私は霊能者じゃないから、悪霊や呪いの対処には詳しくないの。あくまでも一個人として、相談に答えるわね」


 僕を見据える眼から、穏やかさが消えた。


「その子、悪霊になんて取り憑かれていないわ」

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