Ⅲ ハねるうさぎ

30 お前の百倍、摩訶不思議な気持ちだわ

 薄墨うすずみが染み渡ったような空色。

 土曜日の天気は夕方から雨。明後日いっぱいまで安定しないでしょう。天気予報の女性アナウンサーは、他人事のように笑顔を振りまいていた。


 一応、傘は持って行くか。

 私服に袖を通した僕は、買っておいたツナサンドとアップルジュースで朝食をすませて、家を出た。




「ちっかてつ、ちっかてつ、乗るぴっぴ~♪」


 地下鉄のホームで電車を待っていると、頭の上から小さな子どもが歌いそうなメロディが流れてくる。


「乗り物は動かなくても遠くへ連れて行ってくれるから好きぴよ」


 お前は普段から動いてないだろ。

 ピヨの言葉には僕も含まれているような気がした。それと、遊びに行くわけじゃないんだけど……外出の目的は覚えているのか?


 神の使いと自称するワニから願いの結晶ラヴィッシュダストを奪取する。


 力の源と推測される結晶さえ奪い取れば、有珠杵の呪いは解け、ピヨの目的は達成され、僕は晴れて自由の身となる——あくまでも予測だ。

 だけど現状は五里霧中。方針の手がかりになればと、現実のわにの生態を調べに行く。ピクニックじゃないんだぞ。




 街の中央に到着すると、地上に出て、路面電車に乗り継ぐ。

 ピヨはこっちの車内でも新曲をリリースしたが、発表を知ることができるのは僕だけだ。見えない、聞こえない存在は自由奔放で、少しだけうらやましい。


 二十分ほど揺られ、目的の場所に到着する。


「ぴょえー……すごくおっきくてきれいな建物ぴよ」


「ここなら、鰐のことも詳しく調べられるだろ」


 僕たちがやってきたのは、地域で一番大きな図書館だ。

 三階建ての館内には八十万冊以上の蔵書が納められており、読書スペースや展示スペースなど、各施設も充実している。一階にはカフェスペースが併設されており、地下には食堂まである。一日居ても飽きない。


「ピヨはてっきり、お部屋の中でパソコンを使って調べるのかと思ったぴよ」


「どうせならちゃんと調べた方がいいだろ。それと久しぶりに来たかったんだ」


 低めの階段が折り重なったアプローチをのぼり、玄関の自動ドアをくぐる。


「ここにはよく来るぴよ?」


「中学生の頃は週一、二回来てた。高校生になってからは月一回くらいかな」


 風除室を抜けて館内に入ると、図書館特有の紙の匂いと、デザインとして要所に使用されている木材の香りが呼吸に混じる。休日で利用客は多いが、耳にするのは足音と、ひたすらに紙をめくる音、触る音。

 外界と切り離されたような特別な空間。僕はこの雰囲気を居心地よく感じる。


「これだけ広いと、目的のコーナーを探すのも一苦労ぴよね」


 大丈夫だよ、と心の中で返事をしながら、迷うことなく歩む。吸音素材のカーペットを踏みしめるごとに、中学生の時分を思い出す。


 週末は開館から本を読みふけ、夜ご飯の前に帰る。もはやライフワークだった。

 興味を引かれた本は片っ端から手に取る。主なチョイスは文学書や伝記、それとファンタジーに通ずる専門書。そのおかげか、偏った知識と、学校では習わないような言葉をたくさん吸収した。今のところ、役には立っていない。


「右奥の棚に動物学って書いてあるぴよ」


 歴史・科学の書架を奥に進み、目当ての棚に到着。さっそく上段からタイトルをチェックしていく。

 探すのは鰐に関する図鑑。ワニの対抗手段に繋がる手がかりが見つけたい。



「……なかなか欲しい情報はないぴよね」


 僕の気持ちをピヨが言葉にしてくれた。

 爬虫類や水辺の生物を取り上げた図鑑は何冊か収められている。しかし、どれも基本的な生態情報と写真が主で、それ以上は記載がない。


 鰐と戦うことを前提にした本なんて需要ないよな。


「ユート、一番下の端っこにある本とかどうぴよ……そう、それぴよ」


 言われて棚から引き抜いたのは『ワールドバトルシリーズ02 猛獣撃退図鑑(下)』。探検服を着た男女が、ライオンにファイティングポーズを構えている表紙。劇画調で描かれている。


「ピヨたちのニーズに近いものを感じるぴよ」


 タイトルだけ見ればそうだけれど……内容以前にどうにも胡散臭い。

 目次を開くと、河川に生息する危険動物の項に『イリエワニ』の文字を見つけた。

 示されたページへ飛ぶと、こちらも劇画調のイラストとともに、イリエワニに関する情報が記載されていた。写真は一切ないが、文章量は多い。


 これしかないかあ。


 その一冊だけを持って、二階の読書スペースへ移動する。

 窓際に設置されたカウンターテーブルに腰を据え、再びワニのページを開いた。果たして、何が書かれているのか。


====================

 地上最強の咀嚼力そしゃくりょくで一撃粉砕! イリエワニ


【ワニ目クロコダイル科クロコダイル属】

・身長:約3~7メートル

・体重:300~800キログラム

・生息地:インド南西部~東南アジア、オーストラリア北部及び周辺諸島。河川上流から湖などの淡水域に住む。海水にも適応力が高い

・強敵ランク:☆☆☆☆

・必殺技:デスロール


◇ワニ種の中では最大級の体格を誇る狂暴種!


 気性は極めて荒く攻撃的。そのうえ、爬虫類の中では知性が高いと言われている。非情にやっかいな生物だ!


 イリエワニの噛む力は非常に強い! 地球上でも一、二を争うあごの力だ!

 その力はライオンの三倍以上、前のページで紹介した『深海のカリスマ』ホオジロザメすらも凌駕する! 事実、毎年多くの人間を餌食にしているんだ!


 体は丈夫な鱗でおおわれており、生半可な攻撃は通用しない。攻守に優れたバランスファイターだ!


◇体格からは想像もつかない素早さ!


 重たそうな見た目に反して遊泳能力は高い。長距離を泳ぐ持久力も備えているため、水の中で戦えばまず勝ち目はない。交戦は絶対に避けるんだ!


 陸地ではその動きは半減するが、油断すれば捕まる可能性もゼロじゃない。持久力は激減するため、全力で走れば逃げ切れる可能性は高い。諦めずに走るんだ!

====================


 おそらく情報は確かなのだろうが……なんだろう、この文脈からにじみ出る不真面目感は。もうちょっと図鑑らしく装え。


 有珠杵うすきねのワニってこの種類かな?


 傍らに置いたスマートフォンに言葉を打ち込み、ピヨに聞いてみる。


「似てると言えば似ているような気がするぴよが……このイラストから判断するのは難しいぴよ。体の大きさは別としても、本物はつやつやしていないぴよ」


 あのワニは皮膚に光沢がある。まるでワックスで磨いたような、特殊加工の鱗。ネットで検索した鰐の画像には、どれもツヤがない。

 やっぱり実物とは別物と考えるべきか……考えあぐねながらページをめくる。


====================

 ◇VSイリエワニ! 弱点を突いて勝利を掴め!


 ワニは肉食性でなんでも食べる!

 自分よりも大きな相手には、噛みついたまま体を回転させて肉を引きちぎる「デスロール」と呼ばれる必殺の食事方法テーブルマナーを繰り出す! これを喰らえば、どんな相手も一撃だ!

 

 そんな最強種であるワニの弱点、それは目! 刃物や指で目を突けば、パニックを起こす可能性が高いぞ!


 強力無比な顎を持つワニだが、開く力は非情に弱い! 巨体でなければ、人間の力で抑え込むことも可能だ! 噛みつき攻撃さえ封じれば勝機はある!


 腕を噛みつかれたら、喉の奥にある口蓋弁こうがいべんを引っ張って、舌に押し付けろ!

 口蓋弁は喉から水が入らないように蓋をする役割を担っている。これを引っ張ることで喉の奥に水を流し込み、びっくりさせることができる。腕を抜くチャンスだ。

 もちろん地上戦では意味がないから注意しろ!


◇勝利のポイント


・水のあるところでは戦わないこと!

・噛みつかれたらまず目を狙え!

・殺傷力の高い武器を準備しろ! 距離を保って攻撃だ!

====================


「……参考になったぴよ?」


 なるわけねーだろ。


 スマートフォンに三点リーダーを打ち込んで、目頭を揉む。正気を疑う内容と「!」マークだらけの文章で眼精疲労が溜まったみたいだ。


「分かったのは、鰐と戦っても勝ち目がないことぴよね」


 うん、それは知ってた。

 ところどころに挟まれた劇画イラストも情報の信憑性を下げている。指でワニの眼を突く画のなんとシュールなことか。

 極めつけとして、あとがきに「戦わないのが一番」の一文。オチをつけるな。


「鰐の生態は分かったし、当初の目的は達成ぴよ」

 

 前向きだな。でもそう考えないと無駄足だ。

 窓の外には雨雲が蓋をした町並み。見ているこっちの気分までふさぎ込む。


 どうする?


 漠然とした問いかけを文字にする。

 目的は達成したとして、その先を考えてはいなかった。鰐の情報を元に、これからどう行動するか。どう回収の算段を立てるのか……と、そうだ。


 そういえば、ワニは結晶をどこに隠しているんだ?


 肝心なことを確認しなければ。実物も見たことがない、どこにあるのか知らない、それで奪い取れというのは、無茶な要求だ。腹の中だったりしたら、いよいよどうしようもないぞ。


「反応は口の中からしたぴよ」


 神社で襲われたとき、眼前に迫ったワニの口内を思い返す。

 印象に残るのは生ごみが腐ったような口臭と、地球外生命体の如くうねる二枚の舌。結晶のような物体はなかった。頭上のピヨだって同じ光景を見ていたはずだ。


「その辺の詳細も含めて確認したいぴよが……相変わらず神と連絡は取れないぴよ」


 連絡って、どう取っているんだ?


「お空に向けてピピピーっと念を送っているぴよ。向こうが受け取ってくれると、通話が可能になるぴよ」


 電話みたいな仕組みだな。だとしたら圏外か、電源を切っているか。着信拒否ってことはないだろう。


「神も音信不通で役立たず……これはいよいよ、ロキの聖水にかけるしかないぴよ」


 僕らってそこまで手詰まりなのか。すがるものも頼りない現状を再確認する。

 そういえば聖水はどうなったのだろう。部室で地獄の芳香を味わって一週間。完成のめどは立っているのか。


 館内にのんびりとしたチャイムが流れた。スマートフォンは正午を表示している。

 予定ではもう少し早く移動するつもりだったのに。僕はそそくさとテーブルの上を片付け、席を立つ。


「もう帰るぴよ?」


 いいや。とは返事が出来ないので、代わりに自分のお腹をぽんぽんと叩いた。




 予想通り地下食堂は混みあっている。だけど満席じゃない。

 食券を買うため券売機の前に立つと、ボタンの配列がずいぶん変わっていた。しばらく来ないうちにメニューが一新されたらしい。


「種類がたくさんあって、どれも安いぴよ」


 値段の割に美味しくてボリュームもあるんだぜ。と内心で自慢げになってしまう。

 さて何を食べようか。目移りと一緒に、人差し指がボタンをさまよう。カレーもいいけれど、ラーメンも捨てがたい。


「こういうのは先に決めておくものぴよ。ミックスフライ定食はどうぴよ?」


 しょうがないだろ。昔と一緒だと思ったんだから。あとミックスフライの口じゃないんだ。ラーメンと半チャーハンもありだな……うわカルビ丼とかヤバい。


「牛乳ソフトクリームって美味しそうぴよ」


 僕の指は、並び合うカルビ丼とチャーシューメンの間で激しくせめぎ合っている。現在6:4でカルビ丼が優勢だ。


「優柔不断ぴよね。じゃあ両方食べればいいぴよ」


 ここのチャーシュー肉厚なんだよな。味も染み込んでいるし。想像だけで口の中に唾液がにじみ出てくる。


「決めた後に『こっちにして正解だった』って思えばいいだけの話ぴよ。大切なのは選択を正しくする努力ぴよ」


 なっ……期間限定ビーフシチューセット……だと……? おいおい、隅っこのボタンにダークホースがいるじゃないか。こうなれば選択肢は——


「もうピヨが決めちゃうぴよ。えいぴっ」


 人差し指の先まで降りてきたピヨが、羽先でカツカレーのボタンを押した。


「ちょぉぉぉぉいなに勝手に押して……るん…………だ?」


 爪の先で、丸くてふわふわしたお尻を向けて振り返るピヨ。その姿が肉眼にくっきりはっきり映っている。


「決断力とは貴重な人生の時間を増やす力ぴよ。ユートも養うべきぴよ」


「え、お前、鏡越しじゃないと見えないんじゃ……いや、てか、なんで頭から降りられるんだ……?」


「なんでって言われても……降りられないなんて言ったことないぴよ」


 くりくりしたおめめで、不思議そうに僕を見つめるピヨ。なんだその顔は……こっちの方がお前の百倍、摩訶不思議な気持ちだわ。


 互いに見つめ合う。やることは一つしかなかった。

 僕は左手に全神経を集中し、最短最速で指先を捕らえる。


 よし掴んだっ! ——はずなのに感触はない。目を凝らすと手中のピヨは、煙が散るように消えていった。

 そして聞こえる不敵な笑い声は右肩から。黄色い毛玉がしたり顔を浮かべていた。


「……残像ぴよ」


「忍者か!」


「女の子だからくのいちでぴょーが!」


「そこじゃねえぇぇぇぇ!」


 叫んだところで自分の立場に感づく。

 僕の後ろには長蛇の列。老若男女、並ぶ者が向ける眼には奇異、憤り、痛々しさ。数学の授業中に味わった疎外感に近しい。

 だけど、あの時と異なるのは、今すぐにここから離脱できることだ。


 「ごめんなさい!」


  僕は火が出そうな顔で食堂を走り出た。

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