27 嘘は人間の善なる証明
「しゃべった⁉」
「ゴゥルル……話せない、なんていつ言った?」
地の底から響くような唸り声はおぞましい。背筋に冷たさが這い上がった。
虚を突かれ思考が乱れても、感覚は本能に直接訴える。
ワニが放つのは、敵意だ。
異妖に黒光りする皮膚。戦車のキャタピラを思わせる背中の突起。
「発言を撤回しろ」
発声に応じて口が開閉しない。けれど音の発生源は口内からだ。
「嘘を肯定しろ。嘘は必要だ」
僕は嘘を否定した。だから嘘を遵守する神の使いとしての逆鱗に触れたのか。
「撤回しろ」
繰り返される要求。ワニがゆっくりと前足を出す。僕は押されるように一歩下がり、無意識に距離を保とうとする。緩慢な動きが余計に怖い。
恐怖を感じるのは見た目や動きだけじゃない。瞬時にして喉元を食いちぎられる——と思わせる雰囲気。それが
思うように体が動かない。喉が絞まる。酸素が薄い。
身体の変調さえワニの作為に思えてしまう。
「言葉は理解しているな人間。ならば謝罪し、撤回せよ」
格の違いを知らしめるような物言い。瞬きを忘れた視界にまた一歩、脅威が迫る。
苦しい、怖い、楽になりたい。
とりあえず認めよう。そうすれば、この精神的圧迫から逃れられる。
「す、すみま……」
ワニの後ろには眠る有珠杵がいた。安らかな寝顔に、いつもの刃を向ける雰囲気は微塵もない。現実に安息がないのなら、夢を見ているのが幸せだろう。
でも、必ず覚める時は来る。苦痛と悪夢は再開し、彼女は
それを捨てさせるには、作るしかない。安心できる場所を。呪いのない世界を。
嘘を肯定すれば、有珠杵を見捨てることになる。この先ワニの言葉に屈服するしかない。突きつけられた選択に、勝手に意味を見いだす。
使命感なんて不確かな要因には従わない。望む世界へ導くためにやるべきことは、ただひとつ。
ワニの呪いを解く。
散った理性をかき集め、いつものように行動するための理由付けをする。
僕はただ、有珠杵の安心した顔が見たいだけだ。だから否定する。
指先が言うことを聞いた。決意の拳を握る。
「撤回はしない。有珠杵から離れろ」
激昂し飛びかかってくる予測も立てたが……ワニの目元が少しだけ緩むに留まる。
「お前はどうして嘘を否定できる?」
未来を予言する占い師のような口調で、僕に問いかける。
「ど、どういう意味だ」
「思い出せ」
ゆっくりとにじり寄るワニは、首を持ち上げ顔を寄せてきた。
後ずさる背中に神社の柱がめり込む。
「お前はこれまで嘘に助けられたはずだ。自分の身に降りかかった災厄を、嘘で退けただろう?」
ワニの視線が頭上の災厄に向けられる。たしかに、初めはピヨの存在を隠すために必死だった。
校門の生活指導にはピヨを隠すために嘘をついた。
トイレでは作り話で路希先輩を欺いた。
有珠杵の住所を得るために、感情をまやかした。
その有珠杵には情報入手の経路を誤魔化した。
記憶にとどめていないだけで、実際はもっと多いだろう。
不利な状況を切り抜けるために、都合をよくするために、僕は「嘘をつく」手段をためらいもなく選んだ。相手のことなどこれっぽっちも考えず。
「嘘は便利だろう?」
思考を覗かれたような感覚。毒々しい水晶玉を思わせる眼が
「嘘は我が身を守る。利益をもたらし、不利益を回避してくれる」
太い尻尾がゆっくりと左右に振れた。
「真実を口にすれば場が滞るかもしれない。相手との関係が悪化するかもしれない。だから、世の中を円滑に回すため、他者を気遣うために使う知恵。それが嘘だ。恥ずべき行為ではない。生存活動に不可欠であり、世界になくてはならない要素だ」
ワニの口から発せられる低音には、不思議な心地よさを感じる。
「もしも人間から嘘が消えたらどうなると思う?」
弧を描いた口が当然のように述べた。
答えは簡単だ。人類は滅亡する。
「嘘という潤滑油が切れれば人間関係は
肯定者の弁論は饒舌だ。
「小さな歯車の乱れは主軸となる国家、そして世界の構成に影響を与えるだろう。国際関係は内と外の両側から脅かされ、集団は個へ分解、力ある者は自分の脅威となり得る存在を撃滅する……戦争だ。瓦解した平和は戻らない。地球では人間が最後の一人になるまで殺し合いが続くだろう」
そんな——
「そんな大袈裟な話じゃあない。お前は頭が回る。だから理解できるだろう?」
自分の思考が他者に音声化され、瞬間、呼吸の仕方を忘れる。
こいつ、なんで、さっきから、僕の心を……。
「試してみるといい。明日から、思ったことをすべて口に出して生活してみろ。目に映る相手に対して生まれた感情を伝えてみろ。お前の平和は簡単に失われるはずだ」
実行しなくても想像は容易だ。相手の心証を損なう意見を持っていても、口に出さないから敵と認識されない。
攻撃しないこと、されないこと。それこそ僕が守り続けてきた「平穏で平凡な世界」の骨子でもある。
ワニは満足そうに笑みを浮かべた。
「嘘はこの世になくてはならない。嘘は人間の善なる証明だ。理解できたな? 異論がなければ口に出せ。『嘘をつくのは善いことだ』と」
最後の言葉に口を紡ぐ。有珠杵を見放す言葉を出してたまるか。でも、ワニの理屈を崩す反論が浮かばない。それどころか、数々の言葉が賛同を促す。
無関心を貫くためには——他人と理想の距離感を保つには、体のいい言葉を並べる必要があった。嘘がなければ、今の自分は成り立っていないだろう。
嘘の恩恵は間違いなく享受している。反論できる立場じゃない。
だけど……認めるものか。
腑に落ちないが、理屈に感情で抗っても説得力がない。
分かっているのに、納得できない理由を言語化する言葉が思いつかない。自分の頭の悪さを恨む。噛みしめた奥歯がミシりと音を立てた。
「まったく、よく回る舌ぴよね」
張り詰めた空気にそぐわない、黄色い声が割って入る。
「『嘘がもたらす利益』という話じゃなかったぴよ? 途中から『真実をすべて伝える不利益』に論点をすり替えている以上、主張の妥当性は認められないぴよねえ」
ワニは答えず、不敵に唸る。
「池、屋上、校舎裏。お前はずっと俺を睨み続けているな」
そんな態度をとっていたのか。屋外じゃピヨの様子は把握できない。
「俺に何を見ているのかは知らないが……仲間同士、仲良くしようじゃないか」
「お前みたいな
にべもなく切り捨てる。
「コフレに取り憑いた目的はなんだぴよ」
「この女が説明しただろ。嘘がこの世に必要であることを証明させるためだ」
「お前に利益があるぴよか?」
したり顔でワニは答える。
「俺が満足感を得られる。心の充実は何よりの利得だ」
そんなことのために有珠杵を……⁉
思わず全身の筋肉が強張った。
「化けの皮が剥がれたぴよね。神の使いを名乗っておきながら、やっていることにまるで神意が備わっていないぴよ」
「どうしてこんなやり方なんだ」
ピヨには悪いが、口を挟まずにはいられない。
「嘘の必要性を説くなら方法はいくらでもあるだろ」
「この方法が最も俺の心を満たすからだ」
太い尾が大きくうねり、寝ている有珠杵の頭を透過する。
「この女は賢い。
……望んで移動したわけがない。
「反感と迫害を引き換えに手に入れた身の安全。それでも嘘を絶対に避けられない相手もいる。それが自分自身だ」
「
「当然だ。『つらくない』と自分を偽り、気丈に振舞うこいつの姿はまったく……
ポイズンイエローの瞳が異彩を放つ。禍々しさが悪意によって煌めく。
「片意地を張りながら唇を噛みしめ、無表情の仮面を被る……まるでサーカスのピエロじゃあないか。周囲から冷笑と失笑と嘲笑を集め、感情を押し殺し、苦しみ悩む姿は俺に満足感を与えてくれた……嘘がなければ人間はこんなにも疲弊する、人生を失う! 最高の証明だ!」
軽快さを増した弁舌は、声高らかに愉悦を吐き出す。
「このガキの精神は限界だ。何せ、そそのかせば池に飛び込むくらいだからな……
もうすぐこいつの心は折れる。嘘に屈服する瞬間を想像するだけで……最っ高に興奮するぜぇ……だけど行き場のない怒りに身を蝕む姿もまだまだ見たい……ああ、楽しいなあ、楽しいなあ! ゴァララララ!」
「ふざけるなッ!」
怒りに任せて投げつけたペットボトルはワニの体を透き通る。賽銭箱に反射して、明後日の方向に飛んでいく。
「苦しんでいる姿が楽しい……じゃあ、あの涙はなんだったんだよ? かわいそうって思っていたんじゃないのかよ?」
有珠杵が苦しんでいるとき、ワニは常に傍らで涙していた。悪しき心の持ち主にはない良心的な行動だ。
どこか信じられない、信じたくない気持ちが僕の中に残っていた。
「
唐突な話題転換に虚を突かれつつ、路希先輩との雑談を思い出す。
「爬虫類特有の基礎機能。体内の余分な塩分を外に排出するため。それがどうした」
「博識だな。昔は餌をおびき寄せるために流す『嘘の涙』と言われていたんだぜ」
「それも知っている……!」
着地点の見えない会話。イライラする。
「ところが俺の体は水分も塩分も取り込まない。じゃあそれら
募る苛立ちを抱えながら、目の前のワニと実物の鰐を重ねて答えを探る。
海水に浸からなければ塩分濃度は上昇しない。水も飲みこまない。ワニは実体のない存在だが、流す涙はいつも地面を濡らしていた。つまり流れ出る体液は実物ということだ。
近くで水分や塩分を手に入れる手段。
視線は自然と有珠杵に向かった。
ワニを背負い、ふざけた
まさか。
最悪の答えが頭に浮かび、舌の上には経口補水液の何とも言えない味が広がる。
隠すことなく露わにした表情に、ワニは愉悦を貪るように笑う。
「ご明察だぁ! 俺の涙はこのメスガキから搾り取ったもんだ!」
有珠杵の代わりに流していると思っていた涙。
それが文字通りの意味で、苦痛の元凶だったのか……!
「取り憑いた人間が
目の前に刃物があれば間違いなく自分を刺し貫いていた。それくらい腹が立つ。
勘違いしていた自分にも、悪意で命の涙を垂れ流していたワニにも。
「可哀そうだって⁉
「わにわにうるせえ!」
恐怖も理性もすべてが吹き飛んだ。爆発する怒りに喉を焦がして叫ぶ。
「有珠杵がどれだけ苦しいか分かってるのか!」
箱庭で池に飛び込んだあいつを助けたときに向けられた、空っぽの瞳。
自殺の邪魔をしないで? じゃあそんな顔をするんだ。
過去の自分に教えたい。有珠杵の心は声なき声で「助けて」と叫んでいたことを。
体育倉庫の裏で吐いたとき、あいつは涙を浮かべて、辛そうで、でも口の端を拭って精一杯強がった。
脱水症状に慣れた? そんな苦しみに慣れるわけがないだろ。自分のことを心配しろよ。僕のズボンの心配なんかするな。
嘘をつけない有珠杵はずっと嘘をついていた。自分の心に。
否定していた人間が嘘に頼る。皮肉にもワニの主張を正しいと体現していた。
でも
嘘はこの世に必要? 嘘は人間の善なる証明?
理屈なんて関係あるか。
こいつの言葉だけは——存在だけは、絶対に認めてはならない!
「それでも僕は否定する……嘘も、お前の存在もだ!」
「まだ分からねぇのか馬鹿がァァァ!」
ワニの咆哮が社殿に轟く。
「嘘がなければ生きていけない人間風情が、どの面下げて言ってんだ! 一度でも嘘に頼った人間は嘘を肯定するしかないんだよ!」
怒号の雄叫びが力を与えるように、ワニの体が堆積を増していく。
「嘘をつく行為は健全で正常な感情だ。都合の悪い事実は隠ぺいするのが当然! 誰しもが嘘のおかげで今がある、嘘がなきゃ人間どもはとっくの昔に滅びている!」
弾力のあるゴムが膨張するように、太い尾が、胴回りが、手足が肥大化していく。元の三倍以上に巨大化した姿は、邪悪な龍を想起させる。
「嘘も方便? 必要悪? ……まどろっこしいな! 嘘ほど便利な物はないと言え! 嘘を認めろ! 嘘にまみれたこの世界で、お前は何を否定するんだ⁉ この俺の何を否定できるか言ってみろォ!」
「避けるぴよ!」
ピヨの叫びと嫌な予感がよぎったのは同時だった。反射的に参道へと身を投げた直後、僕のいた空間が食いちぎられる。
あんなのに噛まれたら……逃げなきゃ——!
「逃げるなぁ!」
体を起き上がらせた直後、飛びかかってきたワニの巨体がのしかかる。体躯の圧迫に、立つことも腕を動かすこともできない。
否応なしに感じる生命の
「ゴゥルル……不遜な人間には天罰が必要だな」
下劣な笑みを浮かべるワニが牙を向く。口の中からのぞくのは。二枚に重なった真っ赤な舌。吐き出される息は生ごみの腐ったような匂い。
嘔吐感と恐怖が、生きるための活動を遮断していく。呼吸がままならない。声が出せない。体に命令が出来ない。
死んでいく思考。目の端から熱いものが流れ落ちる。
「ただの嘘つきに天罰は下せないぴよ」
真っ白になった脳内に、また黄色い声が入り込んできた。
しかし先ほどと違い、軽薄さがない。
「神はお前のような存在を作らない、そしてお前の力も借り物ぴよ」
確信を並べる。
一呼吸おき、ピヨはその言葉を口にした。
「返してもらうぴよ、『ラヴィッシュダスト』を」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます