26 嘘をつく者は悪とされる

「おばあちゃん、か」


 自動販売機でスポーツドリンクとお茶を落としながら、有珠杵の話を思い出す。


「何か思うところがあるぴよ?」


「特に何も。僕は自分の祖父母に会ったことがないからさ」


 感慨もなく答える。

 頭の上からじわりと気まずい空気が漂ってきたので、取り直すように付け加えた。


「いるのかどうかも分からないんだ。うちの両親は駆け落ち……って言うのか? それで一緒になったせいか、親子関係が良くないんだって」


 小さい時に聞いた話だと、母さんは早くに両親を亡くしたらしい。父方については分からないが、母さんはあまり話したくないようだったのを覚えている。

 知らない存在に情を持て、というのが無理だ。僕にとっては、身内も隣の部屋の住人も同列の存在でしかない。


 ピヨはいつもみたいに明るくふるまってくれよ。こっちも気まずいわ。


「有珠杵の力になれることって、なんだろうな」


 強引に別の話に切り替えた。彼方の身内より、目の前の同級生だ。


「あいつは頭も良いし、心身共に強い。僕が出来ることなんて思いつかないよ」


 辛い現状をどうにかしてやりたいが、現実的な手段はない。

 気持ちだけで誰かを救えるのなら、今ごろ有珠杵のおばあちゃんは元気だし、ワニに取り憑かれてもいないだろう。

 取り出し口に横たわるペットボトルの冷たさが、手のひらの温度を奪っていく。


「ユートはもうコフレの力になっているぴよ」


「どこがだよ」


 降りてきた声のトーンに安堵しつつ、ピヨに聞き返す。


「話せる相手がいるだけで、人間はホッとするぴよ。ユートだって、ロキの存在には助けられたんじゃないかぴよ?」


 そう……かもしれない。自分に置き換えると理解できる。


 話しても理解してもらえない、自分だけで解決しなければならないと混乱していたときに、打ち明けられる相手——路希先輩との出会いは救われるものがあった。

 有珠杵も同じ気持ち、なのだろうか。


「でも境遇を聞くだけじゃ何も解決しないだろ。せめてワニと話が出来れば、多少は違うのかもしれないけど……無口だからなあ」


 どうも普通にしゃべるようだが、僕の前では一言も発したことがない。単なる人見知りか、もしくは好かれていないのかも。


 つねにおんぶされ、泣いてばかりいる場面ばかりが印象的で、どうにもワニのイメージが「ご主人の身を案じる泣き虫ペット」で定着している。聞いた話とは齟齬そごが生じているままだ。ぜひ当人——当ワニの口から真相を語ってほしい。


「ここで考えてもしょうがない。戻るか」


 自動販売機から二本目を取り出そうとして、有珠杵に押し付けられたペットボトルを持っていたことに気がつく。中には飲み損ねた一口分の液体が残っている。


「からかわないから飲んでみるといいぴよ。なんでも人生経験ぴよ」


 さんざん変態呼ばわりしておいて……数秒悩んでキャップを開けた。自分の意思が希薄だと、ここ最近よく思う。

 それでも気恥ずかしさは拭えず、飲み口が触れないように、宙から口内に注いだ。


「…………たしかに美味しくはない」


 甘さも苦さはない。予想していた薬っぽさもない。

 なんというか、水に余計な味つけをしたような感じだろうか。上手く言えないが、一口飲めば十分な味。


「あいつ、よくこんなの何本も飲んでるな……」


 有珠杵だって、好き好んで飲んでいるわけじゃない。命に関わるから飲んでいるんだ。教科書の詰まった鞄をさらに重くしているのだって、不慮の事態に備えるため。


 どうにかして、軽くしてやりたい。

 僕は空にしたペットボトルをゴミ箱に捨て、神域へと戻る。




「たった数分の間に……ぐっすりだな」


 有珠杵は賽銭箱に寄りかかり、小さな寝息を立てていた。

 どこまでも気丈に振舞うお嬢様はいない。そこにいるのは、穏やか寝顔を浮かべる、同い年の女子だ。


「きっと緊張の糸が切れたんだぴよ」


 これがピヨの言っていた「話せる相手がいる安心」だろうか。だけど数分で寝るとか、どれだけ気を張っていたんだ。

 僕は眠り姫のそばにそっとスポーツドリンクを置いて、賽銭箱の反対側で空を見上げながらお茶を飲む。


 これ以上悪くならないでくれよ。


 独りごちに天へと願う。うす汚れた綿雲が右へどんどん流れていく。スマートフォンで天気予報を確認すると、夜から大雨の注意報が出ていた。

 今の時刻と有珠杵の家の距離を考えると、三十分が猶予か。それまでどう時間をつぶすか……。


 ふと、賽銭箱の上のワニと目が合う。なんだかやる気のない、帰りたそうな顔をしているように見える。


「帰りたいなら有珠杵から離れていいんだぞ。てか、むしろ帰れ。ここがお前の居場所だろ。ほら、お茶やるからさ」


 冗談で飲み口をさし向けると、勢いあまってお茶がこぼれてしまった。

 ワニは身をひるがえし、数ミリリットルの水滴を機敏に避ける。くるりと回避したついでに、太い尻尾でお茶を持つ手を叩いてきた。


「痛っ。おい、神の使いが人間に暴力を振るうなよ」


 文句を言うとにらみ返してくる。やはり僕は好かれていないようだ。神の使いだか何だか知らないが、そういう態度なら、こっちも敬語なんて使ってやるもんか。 


「一応の確認ぴよが、この神社は嘘の神様をまつっているぴよ?」


「そんなわけあるか」


 というのは、前置きをしたピヨも承知の上だろう。嘘の神様なんて誰が信奉する。そんなものにすがって神社を建てたとしたら、当時の人間は追い詰められすぎだ。

 なんて考えると、ワニが神の使いを名乗るのは経歴詐称だ。虎の威を借る狐ならぬ、神の威光を借る鰐。これは通報事案だ。

 

 嘘つきは泥棒の始まり。

 嘘をついたら針を千本飲ませる。


 昔のことわざやわらべ歌からも読み取れるように、嘘をつく者は悪とされる。

 親にも、学校の先生にも「嘘をつく子は悪い子だ」と教えられた。

 嘘は悪いこと。嘘を肯定するのは悪いやつの考えだ。


「悪いことだよな。嘘をつくって」


「ユートは他人に嘘をつかずに生きているぴよか?」


「ついた方が穏便に済むならつく。少なくとも迷惑をかけるような嘘はつかない……でも根本的に嘘をつく相手がいないか」


 …………黙るなよ。僕も言った後で虚しくなったんだから。

 相手がいないってことは、逆に嘘をつかれるリスクも少ないってことだ。日常で話す相手なんて、ピヨか路希先輩か、母さんか―—


 まただ。鈍く痛む頭を抑える。


 胸の奥がもやもやする。学校のトイレでも似たような気分に陥った。

 一体何なんだ。

 脈動に呼応する鈍痛をさかのぼり、心当たりを探る。


 聞きたくない嘘、希望を持たせる嘘、相手を傷つける嘘。

 とても許せない嘘をつかれた気がする。

 いつ……?

 誰から……?


 その嘘は必要だったと斟酌しんしゃくできた。それ以上に裏切りと失望を味わった。

 そのとき僕は泣いたのだろうか。

 ……いや、涙は出なかった気がする。


 すべてが夢であって欲しいと願った。目が覚めたら元の世界だと信じた。


 ——でも。


 …………でも?


 でも、どうした?


 僕はその事実を、どこへやった・・・・・・

 

 制服の上から心臓に爪を立てる。ドクドクと脈打つ激しい音は、恐ろしい怪物がけたたましく扉を叩いているようだ。

 怪物の正体を僕は見たくない。

 正体を暴くことを、僕は望まない。


 だから、僕は——


「どうしたぴよ、ユート?」


 ピヨの声に我を取り戻す。

 

「また、気分が悪くなったぴよ?」


 トイレでの一件を覚えていたのだろう。優しい声をかけてくれる。


「……いや、大丈夫。ただの栄養不足だから」


 あからさまなこじつけで追及を防ぎ、お茶で全身を冷却する。

 背中に引っ付くシャツが気持ち悪い。変な病気だったらどうしよう。

 

 はっきりとしない懸念に捕らわれる僕に注がれる視線。ワニだ。縦長の瞳孔は、落ちたら二度と這い上がれない深淵のような漆黒。その目が僕の心を見透かすように、じっと張りつく。

 覗くな。キャップを締める手がおぼつかない。 


「有珠杵を解放してくれよ」


 僕は我が身のように頼む。この気持ちは贖罪か、救済か。

 有珠杵をワニの呪いから解き放てば、自分も救われたような気分になる。

 それが錯覚と分かって言葉を続けた。


「大好きなおばあちゃんを亡くして、気持ちが混乱していたんだ。暴言に腹を立てたのは分かるけれど、償いはもう十分だろ。有珠杵は頭がいい、十分理解したはずだ」


 ワニはしゃべらない。


「人間一人をこんなに苦しませて、それが神の使いのすることかよ」


 ワニはしゃべらない。

 届いていないのか、はなから聞く耳を持たないのか。


「たかだか十数年……それも、何もせずただ漫然と生きてきただけの人間の言葉なんて、薄っぺらいと思う。耳を貸すに値しないかもしれない。だけど」


 はっきりと、断言しなければならない。


「嘘がこれからも有珠杵を苦しませるものだったら、僕はお前も、嘘の存在も……否定する。消えてくれ」


 ワニは——————


「嘘はこの世に必要だ」


 深淵のごとき瞳孔を一層開いた。

 歪な牙を並べたあぎとがうっすらと息を吐く。

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