25 これが僕の精一杯だよ!

 校門から十分ほど歩くと、ブロッコリーのようにこんもりとした木が生い茂る森が見えてくる。神社はその森の中にあった。


「ずっと大きな公園だと思っていたぴよ」


 ピヨの意見はもっともで、普段歩いている道路側からでは、神社の存在はまったくわからない。入り口は反対の住宅地側にあるからだ。


 僕と有珠杵は朱色の鳥居をくぐり、神域へと足を踏み入れた。風にざわめく木々の葉擦れは、僕たちを歓迎していないように聞こえる。湿った匂いに空を見上げれば、曇天が広がり、太陽の姿は灰色に阻まれていた。

 百メートルほどの参道を歩き、社殿しゃでんの前にたどり着く。


「地元では有名なところぴよ?」


「全然。だから誰も来ない」


 森の広さに対してこじんまりとした社殿は、飾り気のない質素な作りだ。

 百年以上前に作られた、歴史のある神社らしい。年代物のわりに、建物にほころびは見られない。市がきちんと保管しているのだろう。入り口近くに記念碑は読んだことがないので、実は何を祀っているのかよく知らない。


「やっと一息つけるわ」


 賽銭箱へと続く短い階段に腰掛け、ペットボトルを煽る有珠杵。ワニは背中から降りて、賽銭箱の上を占領するように寝そべった。罰当たりめ。

 僕も同じ段差に座り、二つの登校鞄を有珠杵との間に置く。


「体調はもういいのか?」


「ええ。だいぶ耐性もついているから」


 学校を出た時にはしんどそうだったが、時間と共に歩行速度は戻り、鳥居をくぐる頃には平常に戻っていた。

 にしても耐性って。吐くほど苦しい状態に慣れるなんて異常だぞ。


「一般的な脱水症状と異なるのかも知れないわ」


「それってやっぱり、ワニの呪いだから……だな」


 とっさに疑問形を回避した結果、断定になってしまった。


 相手の質問には、正直に答えなければならない。

 制約ルールを破れば、罰則ペナルティとして脱水症状が引き起こされる。これがワニの呪い。


 遵守していたはずなのに、有珠杵の体調は崩された。

 きっとまだ知らないことが存在する。画は見えたが、パズルは完成していない。


 目を向けると、彼女は歩いてきた参道を切なげに眺めていた。横顔は映画のワンシーンを思わせるほど印象的だったが、見た者にも感情を伝染させる。そんな表情だ。

 森の音だけが無音を埋める。話を……聞くべきだろうか?

 

「コフレが取り憑かれたときのことを教えて欲しいぴよ」


 質問を躊躇していると、ピヨが沈黙を破った。直球で核心を突く。


「ピヨたちは、まだ力になることを諦めていないぴよ」


 僕の頭を一瞥した瞳は乾いていた。


「おせっかいな雛鳥ね。飼い主はどういう教育をしているのかしら」


「僕は飼い主でも親でもない」


「そもそも、どうして雛鳥が頭の上に乗っているの?」


 今それを聞くか……って、考えてみれば、まともに会話するのは初めてだ。今までは拒絶の壁を挟んでいたからな。制約ルールを理解している相手だから、多少は話しやすくなったのかもしれない。


「コフレを助けるためぴよ」


 有珠杵は意味が分からずいぶかしんでいる。


「ピヨには困っている子を助ける使命があるぴよ。だから話を聞かせて欲しいぴよ」


 なんだ使命って。路希先輩に感化されたのか?

 案の定、目の前には呆れた顔が浮かぶ。


「雛鳥に人生相談なんて、霊長類としては憫然びんぜんに思うわ」


「大丈夫ぴよ、どうにかするのはユートだから」


 丸投げじゃねーか。

 つっこみを入れるようにピヨの後頭部をはたくが、触ることはできないので手ごたえはない。


「ピヨもユートも気になっちゃうぴよ。それにここまで関わったんだから、話を聞かないと落ち着けないぴよ」


 否定はできない。校舎裏でピヨに気づかされた気持ちは本心だ。

 頭上に向けられていた視線が、僕の目に下降してくる。居たたまれなくなり、痒くもない頭をかく。


「お前が困っていると、こいつがうるさいんだ。だから僕の平穏のために有珠杵、助けられてくれ」


「ぴわわっ! 素直じゃなさ過ぎて、逆に恥ずかしさMAXぴよ」


「うるさい」


 これが僕の精一杯だよ!


「助けられてくれ、ね……。飾った言葉より利己的で、まだ信用できるわ」


 刃を向けるような目つきを取り下げると、有珠杵は手に持っていたペットボトルを足元に置いた。


「私のおばあちゃんは、ロックをこよなく愛する粋でイカした人だった」


「おもむろに話し始めた上に、パンチの強い導入だな……」




 語られたのは有珠杵と祖母と、ワニにまつわる物語。


 有珠杵の祖母は、有珠杵家が営む製粉会社の社長を務めていた。

 稀代の経営手腕に持ち前の性格も相まって、会社はこれまでにない規模に拡大する。還暦を迎えるころには、業界でもある程度のシェアを獲得していたらしい。


 その後も会社をけん引し続けたが、米寿を手前にして息子——有珠杵の父親に社長の席を譲り引退。自身は入院することとなった。

 当時、中学三年生だった有珠杵は、放課後毎日のように病室へと足を運んだ。そして自分の元気を分け与えるように、たくさんの話をした。


 月日は流れ、高校の入学式の帰り道。有珠杵は母親と神社に立ち寄った。いま僕たちがいる神社だ。

 祖母の入院生活は続いていた。心配する娘を見かねてだろう、母親は少しでも心が軽くなればと参拝を提案してくれた。そう有珠杵は当時を振り返る。


 祖母にもらったお気に入りの財布から五百円玉を投げ入れ、強く願った。

 おばあちゃんの体調が良くなるように。またいろんな話をしたい。子供のころのように並んで満開の庭園を歩きたい。

 一心不乱に、一日千秋の思いを神様に届けた。


「恋振がたくさん頑張れば、きっと神様も約束を叶えずにはいられないわ」


 母親の言葉に根拠などなくとも、有珠杵はすがる思いで神に頭を下げた。


「もし私が最初のテストで満点を取ったら、おばあちゃんを元気にしてください」


 その後、入学して初めての中間テストで、有珠杵は開校始まって以来の全教科満点を叩きだした。絶対零度の美少女アブソリュート・ガールの誕生だ。

 廊下に張り出された総合点数を見て、有珠杵は満面の笑みを浮かべた。

 これでおばあちゃんは元気になると。


 その日の夜。有珠杵の祖母は、病院で息を引き取った。

 容体が急変し、そのまま帰らぬ人となったらしい。


 葬儀が終わり、祖母とのお別れを終えた有珠杵は再度、神社を訪れた。

 止まることがない涙を拭いもせず、賽銭箱の前に立ち、垂れ下がる鈴緒すずおを社殿にぶつけるように投げつけた。


「頑張ったらおばあちゃんを元気にしてくれるって約束したじゃない!」


 それは人間側の一方的な約束で、神は了承していない。

 だけど、有珠杵は怒りをぶつけなければ気が済まなかった。それだけ祖母の他界は心をかき乱す出来事だった。

 有珠杵は神域で憤激ふんげきをまき散らす。消えない悲しみを吐き出すように。


「私は結果を出したのに、お前は願いを叶えなかった! それどころかおばあちゃんを……おばあちゃんを返して……元気なおばあちゃんを返してよぉ……」


 涙は枯れない。同じくらい、神への誹謗も湧き出る。


「嘘つき」


 雑言ぞうごんの一つだった。それ以上の意味はない悪態。


「おばあちゃんが言っていた。世界に許される嘘は笑えるものだけだって……それがロックだって……だけどお前の嘘でいろんな人が泣いていた。お母さんもお父さんも、会社の人もみんな! ……嘘をつく神なんていらない。この世から消えろ、嘘つきは消えろ、神も嘘も必要ない消えてなくなれぇッ!」


 そして、出会った。


 そいつは賽銭箱の陰からゆっくりと這い出る。不気味に黒光りする岩肌に身を包み、地の底から響くような唸り声を上げて。

 しりもちをつく有珠杵に、そいつはひたり、ひたりと歩み寄る。濁った黄色の水晶に、底の見えない亀裂のような縦線が入った眼を向け、言った。


 嘘はこの世に必要だ。


 目の前の生き物は何? たじろいでいると見透かしたように名乗る。


 俺は神の使いだ、と。


 ふざけた自己紹介に、怒りが恐怖を凌駕する。有珠杵は気丈に言い放つ。


「じゃあ飼い主に伝えて。嘘はいらない、嘘なんてなくても生きていける。この世界にお前も嘘も必要ないって」


 そいつはニタリと笑みを浮かべ、こう口にした。


 では証明してもらおう。今からお前には『嘘を使わずに生きる』条件を設ける。

 この制約ルールに従わなかった場合は罰則ペナルティを与える。無視や欺瞞も同様とし、本当のことを言っても信じられなければ、嘘をついたとみなす。

 期限はお前が死ぬまで。嘘に逆らったのだ。命を懸けて証を立てろ。


 こうして有珠杵恋振は、ワニに取り憑かれた。




「脱水症状の度合いは違反内容で異なる。酷いごまかしほど重度ね」


 経緯を話し終えると、有珠杵は呪いについての補足を入れてくれた。


「誤認に関しては、冗談や相槌にも適応されるわ」


「じゃあ話の合間に『嘘だろ』って相槌を入れられたらアウトなのか……」


 僕は今までの言動を振り返り、冷や汗をかいた。

 日常的にはよくある返しだと思う。今まで有珠杵との会話で使っていなかったのは、無意識の偶然でしかない。過去の自分にナイスチョイスだと賛辞を贈る。


「最も重い罰は嘘をつくこと。この罰則ペナルティは私自身に向けられない。私の周りに影響が及ぶの」


「周囲の人間が脱水症状になるのか?」


 首を横に振る。ならどういうことだ。


「取り憑かれて初めのころ、友達との会話で他愛のない嘘をついた。たしか、放課後遊びに行こうと誘われて、気分の乗らなかった私は、ありもしない習い事があると嘘をついて断った」


 よくある話だ。気分が乗らないからと断るより穏便だと思う。


「その二週間後、飼っていた犬が死んだ」


「死んだ……ぅ」


 慌てて咳払いで言葉を濁す。

 危なっ、「嘘だろ」っていうところだった……!


「二度目は街中を歩いていた時。モデル事務所のスカウトマンを名乗る男に時間はあるかと聞かれて『用事がある』と嘘をついたとき。一か月後に母が病気で入院した」


「そんな些細なことで……でも、なんでワニの仕業だって分かるんだ? 他の要因は考えられないのか?」


「嘘をついた直後にワニが予言するの。『責任は飼い犬にでもを取ってもらおう』『お前の母親が責任を取るだろう』って」


 当の発言をしたワニは賽銭箱の上でじーっと虚空を見ていた。僕らの話など耳に入っていないかのようだ。箱からはみ出て垂れ下がった尻尾を、のんびりと揺らす。

 話を聞いた後でも、こいつが尊大なしゃべり方をするなんて想像できない。


 質問に対して嘘の禁止。無視や欺瞞も同様。誤認されても禁止事項に即する。これが花マルの回答。

 条件はかなり厳しい。周囲に影響が及ぶのなら、なおのこと言動に気を遣う。


「初めは事態を軽く見ていたわ。罰則ペナルティの意味も分からなかった」


 有珠杵は階段を上り、社殿の御扉みとびらに相対する。ワニはあの中にいたのだろうか。


「会話の後で気分が悪くなることがあって、そこから症状を推測することができた。そして同時に気が付いたわ。私は、嘘やごまかしを平然と行う人間だったの」


 友達の誘いを断りたいとき、体のいい理由を並べる。

 引き受けたくない頼みに、やむを得ない事情をつくる。

 都合の悪いことはごまかして、綺麗に並べ立てる。


「軽々しく嘘をつく人間だった。私はおばあちゃんの言葉を大切にしていなかった」


 見えない罪の重さを感じるように、自分の両手を眺める。


「撤回はできないぴよ?」


 僕も聞こうと思っていたことを、先んじてピヨが質問した。


「可能だとしても、したくないわ。嘘を必要と言ったら……ワニに屈服すれば、私は約束を破った神の存在を認めてしまう。おばあちゃんの言葉に背くことになる」


「そんなことは」


 ない。

 だけど、僕が言ったところで、聞く耳は持たないだろう。


 有珠杵は縛られている。ワニの言葉に。自分自身の心に。

 そして、祖母がどれだけ大切な存在だったのかが伝わってくる。


「だから私は絶対に認めない……お前の存在を絶対に認めないッ!」


 有珠杵の拳が、賽銭箱に寝そべるワニに振り下ろされた。鉄槌は戦車のキャタピラのように隆起する皮膚を通過し、賽銭箱を叩く。

 ワニは眠たげに口を開けた。何事もなかったかのように。


「認めないわ……」


 めり込んだ腕を力なく引き戻すと、有珠杵はゆっくりとひざを折り、賽銭箱に寄りかかるように座り込んだ。


「どうした! まさか、呪いが……⁉」


「久々によく喋ったから疲れただけ」


「そうか……ならいいけど」


 他人との交流を断っているなら、日常ではほとんど言葉を発しないはずだ。疲労は無理もない。僕は階段に置かれたペットボトルを拾い上げる。


「とりあえず喉を潤せ……って、ほとんど入ってないな。ストックはあるのか?」


「それが最後の一本よ」


 以前鞄の中を見た時は、飲みかけ以外に二本の予備が入っていた。ということは常備しているのは一・五リットル。それを半日で飲み切った。今日はアクシデントも多かったし、消費スピードは普段よりも早いのだろう。


 経口けいこう補水液ほすいえき。まさに命の水。

 それがなくなったということは、死活問題と言ってもおおげさじゃない。


「あー、僕も喉が渇いたな」


 ポケットから財布を取り出す。たしか入り口のそばに自動販売機があったはずだ。


「同じものでいいか?」


「……買ってきてくれるの」


「ついでだ。でもこれ、自販機とかコンビニじゃ見かけないよな」


 ピヨの説明からすると、どうも特殊な飲料っぽい。スーパーマーケット……いや、ドラッグストアか? この辺にあったかな。


「スポーツドリンクでいいわ。たまには違う物が飲みたい」


 鞄のファスナーに手をかける有珠杵を制す。


「……じゃあお言葉に甘えるわ。お礼じゃないけれど、それはとっておいて」


 指をさすのは、僕が持っている有珠杵の飲みかけペットボトル。中身は一口残っているかどうかだ。

 捨ててこい、って素直に言えよ。


「飲んだことないならどうぞ。普通の水とは違う味がするのよ」


「そうなのか……実は少し興味があったんだ」


 どんな味なのだろう。ふたを開けて鼻を寄せる。特に臭いはない。色も透明だし、普通の水にしか見えない。

 口を突けようとした瞬間。


「きゃぴぃ~! 間接ちゅーぴよっ」


 黄色い声に、前歯が注ぎ口にあたって跳ね返される。


「ばっ……味見するだけだろ!」


「でもコフレの唇が触れていた部分に、ユートの唇が触れるんだから、嘘は言っていないぴよ」


「嘘はないけど悪意がある!」


 変なこと言うから飲みにくくなっただろ!


「許可したからいいのよ。私の唾液を味見しても」


「そういう意味だったのか⁉」


「味わう前に色を確かめて匂いを嗅いで、空気に触れさせて香りを立てるのよね」


「唾液ソムリエ⁉ 変態テイスティングで鑑定されるのは僕の異常性癖だろうが!」


 完全に飲むタイミングを失い、キャップを締める。

 それをつまらなさそうに眺める有珠杵。お前のせいだよ?


「からかいがいがあるわね」


「コフレも気づいちゃったぴよ? ユートはシャイだからいじると面白いぴよ」


 くっ……霊長類は雛鳥と仲良くしないみたいに言っていたくせに、波長を合わせやがって。このタッグは僕にとって天敵でしかない。

 これ以上のコンビネーション攻撃は喰らうまいと、僕は足早に参道を戻った。


 強い風が体に吹きつける。木々が一層ざわめき立ち、空の色は地上を押しつぶすように重い。遠くの空で不気味な音が鳴り響く。


 嵐でも来るのだろうか。

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