24 二つ目の仮説
有珠杵と僕は箱庭を素通りし、グラウンドの端に出た。
砂地の上をスパイクが駆ける音、ボールを打つ金属バットの響き、活気に満ちた声。あらゆる場所で青春が奏でられている。
別世界で汗を流す生徒を横目にフェンス沿いを進む。隅っこにぽつんと建てられた体育倉庫の裏手に差し掛かったところで、有珠杵が歩みを止めた。
「水を飲むわ」
マイペースか。倉庫の壁を背にしゃがみこんで、鞄から出したペットボトルに口をつける。相変わらず、漢字五文字の高級そうな水を
勢いのある飲みっぷりを、背中からじっと見つめるワニ。助けろよ。
女子三人組が追ってくる気配はない。小屋の周りにも……誰もいないな。
見られてやましいことはないが、また変に絡まれるのはやっかいだ。気づかれないに越したことはない。
「二度と姿を見せるなと言ったはずよ、のぞき見公然わいせつ奇声男子」
ほんのりピンク色の唇を湿らせた有珠杵が、膝を抱え、鋭い目で見上げている。
異名のアップデートについて言及したかったが、墓穴を掘りそうなので流す。
「あの登場はなに? 完全にスベっていたわ」
「意図しない演出だ。責任は全部こいつにある」
頭の上の首謀者を指さす。
「ピヨは有言実行しただけぴよ、コフレを見捨てないって」
「ふん、助けてなんてどこの誰が言ったのかしら」
「まったく素直じゃないぴよねえ」
……頭の上とやりとりされるって、何とも不思議な気分だ。
僕はかがんで有珠杵と目の高さを合わせる。
「帰る途中で校舎裏になんて行くから、変な奴に絡まれるんだよ」
「放課後の行き先なんて私の自由よ。それより、どこから後をつけていたの?」
「それは」とっさに言葉を並べる「玄関を出たところでワニの背中が見えたんだ。で、ピヨが追えって言うもんだから」
ごまかすしかない。
学年主任の会話を立ち聞きした後から……なんて正直にしゃべれば、いよいよストーカー認定だ。事情を察してかピヨも口を挟まないでくれた。
まあいいわ、と視線を外される。
「厄介なのよ、勧誘。部に入ってくれって、未だにしつこいから」
廊下で話していたっけ。いろんな部活が有珠杵を欲しがっているとか。
身体能力の高さは、腰の入った上段回し蹴りで十分証明された。
「あの数に質問を浴びせられたら、さばき切れないもんな」
事情を知ったような僕の言葉に、再び視線が戻ってくる。
ちょうどいい、確かめるなら今だ。
「質問には正直に答えないとダメなんだろ。だから質問自体を回避していた」
「…………マルをあげるわ」
腰の後ろに回した手をグッと握る。テストで良い点を取った時を超える達成感。
かがみ続けるのも疲れたので、隣に並んで腰を下ろした。
「今までの言動に合点がいったよ。でも、さっきはなんで逃げなかったんだ?」
「何度言えば分かるの。質問しないでって」
えー正解してもダメなんですかー……。
声に出さない苦情を感知したのか、有珠杵は面倒そうに黒髪をかき上げる。ちらりと見えた耳はピンと立っていて、どこか兎を思わせた。
「ロックじゃないから」
「……なに?」
今ロックって言ったのか? 音楽の? それとも岩の方?
「歩きたい道に邪魔なものがあったら蹴り飛ばすのがロック。おばあちゃんが言っていた」
「すごいな、お前のおばあちゃん」
それがロックかどうかは分からないけれど。
教えを守るがゆえの上段回し蹴りなら、それはもう忠実だったとしか言えない。
「すごいのよ……今でも尊敬しているし、大好き」
手に持っていたペットボトルの中身がちゃぷん、と小さくつぶやく。
心なしか、黒髪が反射する光が薄くなったように見えた。
「でもさ、さすがにハサミを当てられても動かないときは焦ったな。黙って切られるかと思った」
「そんなのまっぴらごめん」
愛おしく自分の髪をなでる。校内でも有珠杵ほど髪が長い女子はそういないだろう。髪を洗うのが大変そうだ。
「タイミングを見計らっていたのよ。そうしたら
褒めてはいない、よな。
僕の乱入は図らずも好機をつくった。そう好意的に解釈しておこう。
「相手を沈黙させたまま脱出できたのは、上々の結果よ」
「上手くいってよかった。質問攻めをくらっていた時はどうするのかと思っていたけれど、文字通り一蹴したしな」
「いいえ。
穏やかだった表情に
「さっさとやりなさい」
「ツケ……? どういうことだ?」
質問と同時に、ワニの目からとぷとぷと涙が流れ出した。大きく裂けた口の端を伝い、砂地を濡らす。
数秒後、有珠杵の背中がずるりと壁を滑る。僕はあわてて体を寄せて頭を支えた。
「おいっ、急にどうし——」
顔は紅潮し、肩で息をしている。指先が少し震えていた。
よみがえる屋上の光景。だが、あのとき見舞われた症状よりも重くないか。
「呪い……⁉ でも、なんで今……」
僕は頭の中にあった『二つ目の仮説』を
呪いの正体にたどり着いたときに、体調不良の原因にはすでに心当たりをつけていた。考えられる因果関係は、これしかない。
しかし、こちらの仮説は発動条件の点から疑問が残る。
屋上でも、女子三人に絡まれたときも、有珠杵は質問に正直に答えていた……確かめようがないから、仮にそうだとしよう。だとすると、
答えにマルはもらっている。なのに——
「なんでだよ!」
ワニに問うも返事はなく、ただ涙を流して有珠杵を眺めている。
お前が……お前が呪いの根源じゃないのか……?
「慌てすぎ。これくら……なら……大丈ぶ、だっ、からっ」
言葉の途中で不自然な痙攣。
直後、びちゃびちゃと音を立てて、僕の足元に胃の中の物を吐き戻した。
「コフレっ!」
頭の上でピヨが叫ぶ。
「クリーニング……弁償するわ」
「そんなことどうでもいいっ! それより、保健室に……!」
慌てる僕の袖が、力なく握られる。
「ダメ」
「なんでだよ⁉」
「面倒、なの」
そりゃあ体調不良が呪いのせいだなんて説明は出来ない。でも……。
「だからってこのままじゃ……だああっ! 呪いなんてどう治せばいいんだよ!」
「ユート、この症状は呪いって名前じゃないぴよ」
「じゃあなんなんだ一体!」
苛立つ僕に、ピヨは落ち着いて答える。
「おそらく——脱水症状ぴよ」
今の状況に出てくるわけがない単語に、
脱水症状ってあの、夏場によく聞く、暑くて水分が足りないと陥る症状?
「なに言っているんだ……今は四月だぞ? それにほら、太陽だって雲に隠れてる」
「季節や気温は関係ないぴよ」
体を支える手を通して、有珠杵の体温が伝わってくる。先ほど繋いだ手とは思えないほど熱い。
「脱水症状は体内の水分と、ナトリウム不足によって発症するぴよ。体重の二パーセントが不足するとめまい、吐き気が現れ、さらに減少すると皮膚の紅潮、精神の不安定化、発汗停止、手足のふるえ、頭痛を引き起こすぴよ。激しいスポーツの後や、乾燥する冬にだってあり得る症状ぴよ」
「ひよこ……あなたにもマルをあげるわ。将来はお医者さん?」
虚ろな目で僕を見上げる有珠杵。冗談を口にしても、体重は僕に預けたままだ。
「コフレの飲んでいたのが
地面に転がるペットボトル、そのラベルに書かれた漢字五文字を目で追う。
「それって特別な水なのか?」
「食塩とブドウ糖が効率よく含まれていて、脱水症状時の補給には最適ぴよ。ただ味は美味しいとは言えないから、通常飲料として飲むのはおかしいと思っていたぴよ」
鞄の中に同じものを何本も入れていたのは事態に対する考慮、備えだったのか。
「症状は分かったけれど、とにかく有珠杵をどうにかしないと……!」
保健室には連れていけない。かと言ってこの場に留まり、具合の悪い有珠杵を見られるのも厄介だ。グラウンドは大勢の目にさらされる。校舎裏に戻ろうにも、さっきの女子三人がいないという保証はない。どうする……?
「神社……そこで休みましょう。ここにいるよりマシだから」
有珠杵が提案した場所は、学校から十分ほど歩いたところに位置する。距離はあるが、人目を気にせず休むには格好の場所だけど……歩けるのか? それに、
「校門まで戻るとなると……」
「今なら、あそこの鍵が開いている」
指さす先には、フェンスに備えられた片開きの門扉。
「この時間は、用務員が学校周りの清掃と見回りを兼ねて出入りしているの。鍵は開いているわ」
「それで校舎裏に回ったのか。見つかったらマズくないか?」
「挨拶して何食わぬ顔で、出ればいいのよ」
慣れている。校門を通れないときの迂回路として何度も使ったのだろう。
行き先と脱出経路は決まった。あとは有珠杵の容体だ。
「立てるか?」
「舐めないで。一人で歩け……る」
僕の肩を支え台にして、ゆっくりと立ち上がる。まだ少しぐらついているところをみると、歩くスピードは押さえた方がよさそうだ。
続いて立ち上がろうとすると、視界に鞄がぶら下げられる。
「私のために何かしたいのなら、持ってくれるかしら?」
そんな意思表示いつしたよ。
とはいえ、僕の言葉が省略されただけで、やるべきことに変わりはない。
「かしこまりましたよ、お嬢様」
自分の鞄を肩に、有珠杵の鞄を手に持って、僕たちは校外へと脱出した。
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