23 振り返った時に満足できる景色
有珠杵の流麗な黒髪に、黒マスクの持つハサミが当てられる。刃が照り返す光に当てられ、両側に立つ巻き髪とピンク爪が一層沸き立つ。
「お客さーん、今日はどのくらい切りますかぁギャハハハ!」
「待って待って、動画撮るからっ。『断髪式やってみた』なんて、再生数跳ねるぅ~アハハっ!」
離れた植え込みの陰から様子をうかがう僕には、あの場が狂気に支配されているように感じる。
当人たちは遊び半分かもしれないが、外から見れば、冗談では済まされない異様な熱を帯びていた。いじめの当事者と、それを外側で見る第三者の温度差だ。
「もう限界ぴよ、早く出て行って止めるぴよ!」
ここが分水嶺だなんて、ピヨに言われなくても判断できる。
だけど、僕の足はしゃがんだままで、立ち上がることができない。
「……嫌いな人間が助けに行っても、迷惑に思われるだけだろ」
言い訳に聞こえてもいい。実際、言い訳だからだ。
あの空気に割って入るのが怖い。
もしかしたらハサミで刺されるかもしれない。
今度は自分がターゲットにされるかもしれない。
偽善者と笑われるのが嫌だ。恥だ。
報復されるリスクなんて背負いたくない。
僕は、安全な場所から動きたくなかった。
「ユート……それ、本気で言っているぴよ?」
僕は人でなしじゃない。けれど、自分に不利益が生じるなら見て見ぬふりをする。他人は自分より優先されないし、保身を手放すにはリスクが大きい。
有珠杵に「嘘つき」と胸に刺された杭は未だに抜けず、胸の中に残っている。
僕が選んだのは、あいつにとって好まざる生き方。
我が身を最優先にする、自分本位の生き方。
そんな人間に助けて欲しいなんて、思っていない……だろう。
心臓が重い。脈動が全身を揺さぶる。
定めた生き方に従っているだけなのに、どうして。
「こんの……馬鹿っぴぃぃぃぃぃぃ!」
ピヨの足がげしげしと頭皮を踏みつけてくる。
たまらず手で振り払ったが、実体がないので触ることすらままならない。
「痛い! お前、爪立ててるだろ⁉ いよいよ流血沙汰だぞ!」
「
「…………そうだよ、悪いかよ!」
声量を押さえているせいか、自分でも驚くほど、言葉に苛立ちが乗る。
「他人に無関心で何が悪い、自分を一番に考えて何が悪い。だって世の中みんなそうだろ? 誰かを助けることは人間の義務なのか? 健全な高校生の使命なのかよ。助けない選択をすることはそれだけで罪なのか? 自分が不利益を被っても誰かを助けないと責め立てられるのかよ!」
腹の奥底からマグマのように、どろどろと融解した感情が噴出する。
胸も、喉も、目の奥も、脳内も、全てが焼けるように熱を持つ。
「答えろよピヨ、僕の選択は人間として間違っているのか?」
「……自分が可愛いなんて、そんなのみんな当たり前ぴよ」
痛みを与え続けていた足が止まった。
「ピヨが腹を立てたのは、ユートが嘘をついていることぴよ」
「嘘……? 誰にだ?」
「自分に、ぴよ」
脳みそに直接、氷水をぶっかけられたような感覚。
「ユートはずっとコフレのことを気にしているぴよ。口では悪態をついても、どうにかしてあげたいって、心の奥底で思っているぴよ。でも自分の決めた道からはみ出してはいけないって思い込んで、見てみぬふりをしているんだぴよ」
その道の名前は無関心主義。物心ついたときからずっと歩いている、舗装された安全な道。
「ユート、人生の路線変更は誰にも取り締まれないぴよ。だって、正解の道なんてないから……みんな迷って、間違って、目的地なんて分からないまま歩いているぴよ」
「じゃあ、何を道標に道を決めているんだ?」
「行き先を教えてくれるものなんてないぴよ。振り返ったときに見える景色に満足できれば、きっとそれが正しい道だったって思えるぴよ」
僕は歩いてきた道を振り返った。舗装された道は石ころ一つない、真っ直ぐで歩きやすい道だった。
だけど、道のほかには何もなかった。真っ白い地平と空で、距離感もつかめない。
この道は、正しいと思える道なのだろうか?
「もし選んだ道が間違っていたら……間違った道を歩いていたら」
「その時は前の道に戻ればいいだけぴよ。振り返って満足できない光景だったら、別の道を探せばいいだけぴよ」
柔らかな羽の感触が、頭を優しくなでる。尖っていた心が平坦に
「ユートはまだ高校生……若いぴよ。だったら自分の心に嘘をつくことを覚えちゃだめぴよ。どんどん逸れて外れてはみ出して、自分が歩きたい道を歩くぴよ」
自分の歩きたい道。
植え込みの向こうでは、巻き髪が自分に向けたスマートフォンに喋っている。その後ろでピンク爪が賑やかし、黒マスクは黒髪を挟んだまま動かない。指を動かせば、有珠杵の生きてきた証が裁断される。
景色は見るに堪えない。これを振り返った時に満足できる景色にするには——。
「僕はどうすればいい?」
ピヨが鳴いた声は、信号機が青に変わった音と似ていた。
「代わりに犠牲になる必要はないぴよ。ユートはコフレの手を引っ張って、素知らぬ顔でどこかに連れていけばいいだけぴよ」
「簡単に言うけれど、それって難易度高いぞ……できるのか?」
度胸は自分の問題だ。でも事の運びは向こうの出方による。そんな強行策で上手くいくかどうか、甚だ疑問だ。
「一歩が踏み出せないのなら、ピヨが背中を押してあげるぴよ」
突然、耳の中にふわふわした毛のかたまりが侵入してきた。
「ふぇはぁえいぃあ⁉」
背筋に筆舌に尽くしがたい感覚が高速で這い上がり、全身にぶわりと鳥肌が立つ。樽の中に納まった海賊が、短剣を突き刺されて飛び出すように立ち上がる。
こいつ、耳の穴に自分の羽を入れてきやがった!
植え込みから突如として現れた男子に、女子三人組、有珠杵、ワニの視線が集まる。
「………………なんだお前?」
「えっ、と」
僕も意図しない登場で、第一声もままならない。
「ぴぴぴ。見つかった以上、ユートがすべきことは一つぴよ」
さっきはいい言葉を並べておいてこの仕打ち……こいつ、いつか炭火焼きにしてやる。塩がいいかタレがいいか、お前の嫌がる味付けで香ばしく焼いてやる!
僕は植え込みを超え、
「え、なになに? 怖いんだけどぉ……」
一歩、二歩と後ずさる巻き髪。他の二人も僕の割り込みに道を開ける。奇抜な登場は、得体の知れない男子という、恐怖の偶像を創り出したようだ。
怪我の功名。利用するしかない。
うなだれる有珠杵の手を強引につかみ取る。
「行こう」
握った手は想像より小さくて、やわらかかった。
振り払われたらどうしようかと不安もあったが、引いた手は素直に従う。
あとはさっさとこの場を離れるだけ。いい流れだ——
なんて思った矢先。
踵を返した先に、ハサミをぎらつかせた黒マスクが立ちふさがった。
「お前、何なの?」
座りきった目や、抑揚のない声から読み取れる情報はない。
正体不明の圧迫感に生唾を飲みこむ。
何を考えているのか分からない奴が凶器を持っているのは、かなり怖い。
「彼氏?」
ちょきん。交差する刃が冷ややかに鳴る。
「違っ、ますけど……」
頭の上から「そこは彼氏
心中の全力ツッコミなど、当然ながら黒マスクには聞こえない。
「じゃあ、なに?」
「……何だろう」
適切な言葉を探していると、視界の外から振り下ろされた手刀が、僕と有珠杵をつなぐ手を断ち切った。
「カンケーねぇやつがしゃしゃってくんなし。あたしたちは遊んでるだけだから」
僕をただの男子生徒と見破ったピンク爪が、睨みをきかせながら詰め寄る。
「それともチクるつもりか? 証拠でもあんの? オマエ何組の誰?」
「ぁ……ぅ……」
迫力に当てられ言葉が出てこない。
傍観しているのと、相対するのでは、まるで印象が違う。
だから不良は怖いんだって。
「ユート避難訓練だぴよ!」
「はぃ
脈絡なくピヨが叫び、突き刺すような痛みが頭皮を襲う。先ほど以上の痛撃に、思わず頭を抱えてしゃがみこんだ。初めてピヨと出会った日の朝以来のポージングだ。
直後、頭の上で何かが勢いよく通過したような風が吹いた。振り向くと、巻き髪が鞄の取っ手を握り、振りぬいた格好のまま目を丸くしている。
「なんで……? なんで見てないのに避けたの……?」
「そりゃあピヨが教えたからに決まっているぴよ」
得意げな説明は、巻き髪や他の二人には認識できない。
僕の背後をピヨが見ていただけの、なんてことはないタネ明かし。
けれど、僕に再び畏怖の衣をまとわせるには十分なハッタリだ。
「ぐ、偶然だろ! ビビッて腰が引けただけだって」
自分に言い聞かせるように声を張ると、ピンク爪は有珠杵を見下し、目にも痛々しい刺激色を僕に向ける。
「おいゼロ子、どーせこいつも金で釣った男の一人だろ? いくら払ったんだよ? どこがいいんだ? 適当に遊びまわってから家に連れ込むつもりか? お嬢様は使い捨ての男とどんなプレイをするんだ?」
畳みかけるようにくだらない質問を並べる。
僕の仮説が正しければ、有珠杵は投げかけられたクエスチョンすべてに、正直に答えなければならない。全てが事実無根なので答えるのは簡単だが、真面目に返すには、あまりにも馬鹿馬鹿しい内容だ。
有珠杵はうつむいたまま反応を示さない。
黙っているのが面白くなかったのか、ピンク爪が犬歯を見せて吠える。
「おいっ、聞ぃてんのかよゼロ子⁉」
「
直後。その場の全員が、目にもとまらぬ光景を目の当たりにする。
吐き捨てるようにつぶやいた有珠杵は、ステップを踏むように半歩下がり、顔の前に両手を構える。短く息を吸い込んで真っすぐにピンク爪を見据えた直後、大気を震わせる一声を吐き、勢いよく右足を相手の側頭部めがけて蹴り上げた。
しなる鞭のように放たれた一撃に、スカートの裾が弧を描く。
一陣の風がこの場からすべての音を奪う。
何が起こったのか理解した時には、有珠杵のローファーの甲が、ピンク爪のこめかみ直前で寸止めされていた。
上段回し蹴り。
格闘ゲームでしか見たことない技を、現実の世界で目の当たりにするとは。
「————————ひ」
自分の真横に迫っていた蹴りに、ようやく置かれた状況を把握したらしい。ピンク爪は息を呑み、その場にへたり込んだ。
ゆっくりと逆再生するように体勢を戻した有珠杵は、呆然とする僕の手を掴む。
「行くわよ」
「は、はいっ」
言われるがまま従い、僕たちはその場を離れた。
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