21 なんなの悪鬼羅刹なの⁉
【一日の感想・反省】
授業も休み時間もつつがなく進んだ一日でした。反省は特にありません。
仲村
朝から考えていた一行を速記して、僕は教室を出た。
すぐ帰るつもりだったのにな……。
学級日誌を手渡されたのは、教室の掃除が半分終了したころ。もう一人の日直当番(女子)が一日中持っていたのだ。開くと、記入スペースの九割が何かの漫画のキャラクターに支配されていた。書き込みはすごいが、微妙に顔が歪んでいるように見える。見ている僕も、同じように顔を歪ませているだろう。
「失礼します」
二階へ降りて、職員室の扉をノック。部屋の中は学内にない独特な匂いが漂っていて、別空間に入り込んだ感覚になる。
灰色のデスクが並ぶ通路を進み、担任の座る席に向かう。真っ白いワイシャツを着た三十代半ばの背中は目印にしやすい。
「
「おーサンキュ」
縁なしの眼鏡を直し、受け取った日誌を開く。
「うぉすげえ……あいつ漫画好きだからなあ。仲村、これなんの漫画に出てくるキャラクターか知ってる?」
「いいえ」
「横に書いてあるセリフで検索したら出てくるかな」
伊里原先生は開いていたパソコンで検索を始めた。
「出た……ってこれ、BLのキャラかよ。せめて少年誌のキャラにしてくれ……んで、これが相手か。お、このセリフが使えそうだな」
漫画の検索画像を観ながら、日誌の【担任所見】スペースに赤ペンでさらさらとコメントをつづる。こういう寛容でマメな配慮が、人気を集める
さて、日直の仕事は完了した。帰ろう。
「ちょっと待て」
挨拶して踵を返したところを呼び止められ、回した体を元に戻す。
担任は僕の顔を見た後、しばらく視線を宙に泳がせた。
「最近………………どうだ?」
「どうだ、と言いますと」
質問を差し戻すと、キャップをした赤ペンの先で後頭部を搔く。
「変わったこととか、困ったことはないか?」
「? いえ、特にありません」
「そっか、そうだな……そう、普通が一番だ。うんうん」
自分を納得させるように力強く頷く。
「クラスでもみんなとうまくやっているか?」
「ええと、たぶん」
上辺だけなら。客観的な判断なら他の生徒に聞いて欲しい。
てか、なんだ? この一連のふわっとした質問は。
僕はいつも通り、当たり障りのない振る舞いで過ごしている。特に問題の火種になるようなことはしていない。
「何か気になることでもあったんですか?」
「いやな、気になるってことでもないんだが……
敷島……数学の担任だ。
以前、授業中に大声を上げてしまった件が耳に入ったのか。そりゃ入るよな。
「もしかしたら悩みや心配事でもあるんじゃないかと思って聞いてみた。でも、何もないならいいんだ。俺の取り越し苦労ってやつだから、忘れてくれ」
つかず離れずの距離感で話を進める伊里原先生の目が、真っすぐに僕を捉える。疲れているわけじゃないんです。憑かれているんです。
頭の上のひよこの言葉と混同してしまいました。本当のことを言った日には、それこそ精神を疑われる。余計なことは口に出すまい。
「“あんなこと”があったからな……他の先生方も気にしてくれている。些細なことでも構わないから相談してくれ」
ぽん、と肩に手を置き、白い歯を見せる。
あんなこと……ってどんなことだ? いつの、何のことを言っている?
一方的に自己完結させた話に、置いてきぼりをくらう。
「あの、あんなことって」
「りーちゃんせんせぇ、部室の鍵借りに来たよー」
質問は、僕の背後からやってきた女子生徒の声に遮られた。
「そういうことだから仲村、気をつけて帰れよ」
さらに二回、肩を叩いて、伊里原先生は僕の横を通り過ぎて行った。
ぽっかり空いた回転いすをしばらく見つめたが、探し物は見つからない。
職員室を出て一番近い男子トイレに入る。タイミングよく誰もいない。
奥の個室まできちっと確認してから、手洗い場の鏡の前に立つ。
「お前、今日は静かだな」
精神を疑われる原因となった物体に問いかける。
やや間があって、ようやく話しかけられたことを認識したピヨは、ぱちくりと目を瞬かせた。
「そ、そうぴよ? ピヨはいつもと変わらぬクオリティでお届けしているぴよ」
「なあ。伊里原先生が言っていた“あんなこと”ってなんだろうな?」
引っかかっていることを、今週から二十四時間、僕とほぼ同じ目線にいるピヨに聞いてみる。
「もともと古代ローマの戦士が乗馬の準備として行っていた木馬上の運動が、オリンピックの体操競技に発展したらしいぴよ」
「あん
どうにも様子がおかしい。心ここにあらずというか、どこか元気がない。
「どうした? 朝からずっとそんな調子じゃないか」
「ぴぃ……ユート、昨日の放課後からのこと、覚えていないぴよか?」
「またそれかよ」
朝、昼に続いて、本日三回目の確認だ。
「何度話しても同じことしか言わないぞ。昨日は路希先輩に屋上の報告をして、家に帰って、寝た。取り立てて何もない」
「昨日の夜ご飯は何を食べたか覚えているぴよ?」
「んー? なんだったかな。いい匂いのするもの、だった気がする」
曖昧なのはきっと、毎日コンビニ弁当で代わり映えがないせいだ。たまにはおにぎりとかサンドイッチを選ぶか。
「ロキの他には誰と喋ったぴよ」
「はぁ?」
不思議な確認だと思いつつ、答える。
「……コンビニの店員。『温めますか?』って聞かれて『はい』って答えた」
「そう、ぴよね」
複雑な面持ちで下を向くピヨ。伊里原先生もお前も何なんだ。一緒にいるんだから聞かなくても分かるだろ。
昨日はコンビニで夕食を買ってマンションに帰って、いつもどおりエレベーターに乗って、廊下を曲がって——。
回想の風景がぷつりと途絶える。もう一度。
見慣れた廊下を進み、廊下を曲がったら、ウォールナットの玄関扉——人——誰?
断片的にしか思い出せない記憶にいる人影は、上半身が黒いクレヨンで塗りつぶされている。
頭のてっぺんに鈍痛が生じる。脳の中央線に両手を入れ、引き裂くような感覚。洗面台の縁に手をかけ、ぐらついた体を支えた。追い打ちをかけるように、腹の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。体の異常に混乱しながらも力任せに蛇口をひねり、水を直飲みして、こみ上げてくる嘔吐感を胃袋に押し戻す。
「ユート……大丈夫ぴよ? 具合が悪いぴよ?」
「なんでもない」
口まわりに撥ねた水をブレザーの袖でぬぐう。異常は嘘のように消えていた。
一体なんだったのだろう? 昼食のコロッケサンドにでも当たったのか、それともコンビニ弁当ばかりで栄養が偏っているせいか。
説明のできない感覚に理由をつけて、ざわつく気持ちを落ち着かせる。
「本当に、大丈夫ぴよ?」
「心配しすぎだって。きっと、たまにはちゃんとしたものを食べろって体のサインだ。スーパーに寄って帰ろう」
不安な表情のピヨを鏡の中に置き去り、トイレを出る。
今日は路希先輩の呼び出しもない。久々にのんびりしよう。
再び職員室の前に差し掛かったところで、ワニを背負った女子が視界に入った。そんな生徒は校内に一人しかいない。
「音楽室の掃除、終わりました」
有珠杵が女性教師に鍵を差し出している。僕は思わず近場の柱の陰に張り付いてしまった。
「どうして隠れるぴよ?」
「つい反射で」
無意識に左の頬をさする。気まずさと、一撃のトラウマは払拭できていない。
いずれ会わなければと思いつつ、心の準備はまだ整っていなかった。とりあえず様子をうかがおう。耳をそばだてれば、会話も聞こえる距離だ。
白いジャケットに身を包んだ教師——よく見れば学年主任——は、黒縁眼鏡の中心を中指で押し上げた。
「有珠杵さん、部活動には入らないの? 今でもあなたの身体能力が欲しいと思っているところは少なくないわ」
「興味ありません」
学年主任に対してもぶっきらぼうに答える。誰に対してもぶれないなあいつは。
「そう……最近クラスで困っていることはないかしら」
「先生に申し上げるほどのことはありません。失礼、水分補給させてください」
返事も聞かず、鞄から取り出したペットボトルを堂々と飲む。
「この間、あなたがずぶ濡れの制服を持って保健室に来たと報告があったの」
箱庭で僕と別れた日のことだろう。有珠杵は表情一つ変えずに答える。
「池に落ちました」
「よく平然と言えるな」
小声のツッコミはもちろん届かない。
学年主任はレンズ越しに真剣な眼差しを向ける。
「私は本当のことを話してほしいの」
「嘘は言っていません」
居合わせた僕には真実だと分かるが、他の人間には説明か、ごまかしが必要だ。有珠杵だってそんなことくらい、分かっているはずなのに。
学年主任の目には懐疑の念が浮かんでいる。
「いじめられていない?」
淀みのない声で可能性を問う。
「…………私は、そう感じていません」
語尾をにごすようにペットボトルを煽る。その肩に顎を置くワニの眼球には、液体が溜まっていく。
「私は池に落ちてずぶ濡れになりました。事実です。嘘はついていません」
塩涙腺から排出される溶液が、表面張力を超えたコップの水みたいに、二滴、三滴と黒い皮膚を伝い、制服の肩部分に染み込んでいく。
爬虫類に備わった、塩分を排出する生理現象——僕にはそんな風に見えない。あれは感情を伴った『涙』だ。ワニは有珠杵の境遇を嘆いている。
「もう帰ってもいいでしょうか」
「……引き留めて悪かったわ。気をつけて帰るように」
沈痛な面持ちを浮かべる学年主任に一礼すると、持っていたペットボトルを空にして近くのゴミ箱に捨てた。毅然とした足取りでその場を離れる。
しばし後ろ姿を見送っていた学年主任は、被りを振って職員室へと消えていった。
「とりあえず体調は問題なさそう、だな」
安堵のため息とともに、僕は廊下に戻る。
「思わぬエンカウントだったけれど、有珠杵の様子が確認できて良かった。じゃ、スーパーに寄ってサラダ買って帰るか。せっかくだし果物も食べよう」
「ユート、コフレを追うぴよ」
鞄を背負い直したところで、突拍子もない提案が降ってくる。
「追いかけてどうするんだ」
「話を聞くぴよ」
なにをだ。言葉を挟む前にピヨが続ける。
「コフレはいじめられているぴよ」
学年主任と同じことを口にする。でもピヨの言葉は断定だ。
「あの学年主任だって勘づいていたけれど、追及しても正直に答えてくれないと悟ったから諦めたぴよ」
「それは僕だって、感じたけどさ……でもだからって、僕が話を聞いて何になる?」
そもそも僕の言葉に聞く耳を持ってくれるかどうか。
乗り気じゃない僕の右耳が、勢いよく引っ張り上げられる。
「もしものことがあったらどうするぴよ! コフレを一人にしちゃだめぴよ!」
「痛でででっ! 僕に何ができるぅぃ痛いから、そしてちぎれるから」
「コフレを見捨てたら、ピヨはユートの耳を引きちぎって窓から投げ捨てるぴよ」
なんなの悪鬼羅刹なの⁉ 自負していたラブリーひよこ設定を思い出せ。
「ほら急ぐぴよ、それとも、耳は二つあるって言わないとダメぴよか?」
「今までで一番ひどい脅しだなそれ! 行くからとりあえず放せって!」
解放された耳を撫でながら、僕は速足で有珠杵を追いかけた。
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