19 下世話なひよこも流れてしまえ

「骨にヒビとか入ってないよな……いてて」


 湯気で曇った風呂場の鏡に映るのは、すっかり見飽きた自分の顔。

 左の頬骨部分を押すと鈍い痛みがあるものの、腫れやあざにはなっていない。


 数時間前。ガード不能攻撃から起き上がると、すでに屋上から彼女の姿は消えていた。僕は空虚な気持ちを抱えたまま帰宅する。

 夕飯の照り焼きハンバーグ弁当がいつもより味気なく感じた。


「心配しなくてもユートは男前ぴよ」


 冴えない顔面の上には、お澄まし顔の黄色い悪霊が鎮座している。


「そりゃどうも」


「お礼はいらないぴよ、お世辞だから」


 僕は無言で、湯船から汲んだお湯を頭からかけ流す。しかし水流はピヨを透過し、羽を湿らすことさえできない。


「元気を出すぴよ。お世辞、追加するぴよ?」


「露骨な押し売りを平然とやってのけるお前は、本当にいい度胸しているよ」


 上辺だけの言葉をかけるなんて、僕も学校生活で毎日やっていることだけれど。


「有珠杵がキレたのだってお前の言葉がきっかけだろうが。なんであんなに追い詰めるようなことを言ったんだ」


「そんなつもりはなかったぴよ……」


 反発してくるかと思ったら、しょげた様子で下を向く。


「本当に助けたいと思ったぴよ」


「箱庭のときも思ったけど、なんでそんなに必死なんだ?」


「子供が辛い顔しているのに、無関心でいる方がどうかしているぴよ」


 ひよこのお前よりも、高校二年生の方が遥かに年上なんだけどな。って、悪霊に年齢の話をするのは無意味か。


「逆にピヨは関心したぴよ。もしユートが苦しんでいるコフレを無視して帰っちゃったら、髪の毛という髪の毛を全部抜いてやる気だったぴよ」


「いくら他人に関心がなくても、人でなしってわけじゃない……僕だって助けたいって思った。だから頑張って踏み込んだんだ」


 手にシャンプーを取り、ピヨに構わず頭を洗う。


「でも結果、有珠杵を怒らせた。無関心主義の分際でおこがましかったんだな」


 当たり障りのない距離しか測れないから、近づいた途端にボロが出る。適した言葉が選べない。不得手なことをしなければよかった。

 前後に動かしていた腕が重くなる。浴室内に反響していた洗髪音が止む。


「余計なお世話かどうかなんて、やってみないと分からないぴよ」


 泡立つ髪の毛の中から、黄色い声が主張する。


「つらい顔を見たくない、何かをしたい、関心を持つことは思いやりの第一歩ぴよ。無関心なんて寂しい主義主張はポイしちゃうぴよ」


「寂しくてもいいんだよ、楽だから」


 言葉を返す一方で、貫いてきた生き方が変化しつつあることに、漠然とした心配を感じていた。居心地のいい場所を離れるような不安。誰にも干渉しないことで守られてきた安全地帯がなくなる怖さ。日常が失われてしまう。


 平穏を返して。


 中身は違えど、有珠杵は僕と同じものを求めている。

 だから共感した。助けたいと思った。


「なんとかしてやりたかったな。取り憑かれた者同士」


「なーに勝手に諦めているぴよ。たかが二回ぶん殴られただけぴよ」


「その『たかが二回』でノックアウトさせられた男の気持ちを汲め」


 まだ心の傷は癒えてないんだからな。


「男なら一度の失敗で諦めちゃいかんぴよ。あんなに可愛い美少女放っておくなんて、健全な高校生失格ぴよ」


 白と黒が渦巻く頭髪から、いやらしいおめめが僕の顔をうかがっている。


「……何がいいたい」


「コフレは顔も足も綺麗だし、胸も程よく実っているぴよ。超優良物件ぴよ」


「おっさんか。お前もゲスオサイドに堕落しやがって」


 シャワーコックを捻り、シャンプーを洗い落とす。ついでに下世話なひよこも流れてしまえ。


「ぶっちゃけユートはどんな女の子がタイプぴよ?」


 目を開けると平然とした顔の悪霊がいた。話題も水に流れていかなかった。


「そんなこと聞いてどうするんだ」


「単に知りたいだけぴよ。なぜならぁ~、女の子は誰でも恋バナに興味津々なんだぴよっ、で、で?」


 めんどくさっ。今までで一番めんどくさい絡み方だ。

 タオルにつけたボディソープを両手で擦りあわせ、純白の泡を立たせる。


「彼女なんていらない。それに僕みたいなのはモテないって分かってる」


「モテたい、とは思っているぴよね?」


 揚げ足を取るような会話に辟易へきえきする。別に、と切り捨てて胸にタオルをあてがう。

 女子に興味がないわけじゃない。有珠杵だって性格はちょっと……いや相当アレだけれど、美人だとは思う。


 そうじゃなくて、誰かと付き合っている自分が想像できないんだ。勉強も運動もできない。しゃべりも立たない。僕みたいにつまらない人間に興味を持つなんて、慈愛に満ちた天使か、余程の変人だ。

 もしもそんな女子が現れたら、僕の世界はひっくり返る。


「思春期の男子が女の子に興味を持つことは悪い事じゃないぴよ。むぴぴ」


 言葉を返す気にもならない。熱めのシャワーで流された泡が、排水溝に吸い込まれていく。ゲスい話も流し、湯船に浸かる。



「ピヨはワニのこと、どう見ているんだ?」


 ぼんやりと天井眺めながら、雑談程度に聞いてみた。


「同業者として思うところの一つや二つはあるだろ」


「まったく違う業種ぴよ。ピヨだってあんなの見たのは初めてで、分からないことだらけぴよ」


「そっか……同じ業界人同士にしか見えないのにな」


 この場合は業界霊というべきか。

 幽霊の世界も様々な系統に別れているのかもしれない。特徴別や地域別だったり、鶏ベースだったり魚介ベースだったり……今度ラーメン食べに行こう。


「ユートは本当にピヨを悪霊だと思っているぴよ?」


 醤油か塩かと考えていると、雛鶏が丸いくちばしからとがった声を出す。


「んー……悪霊ってことにしている」


 始めは、男子トイレで路希先輩を欺くための設定だった。

 最初は言い得て妙だと呼んでいたが、実際にそれらしい所業はなく、悪霊と定義する要素はない。ただ便宜上、所属があると便利というだけ。


「もう定着しているし、それでいいかなと」


「今まで流していた節は否めないけれど、あんなワニと一緒くたは心外ぴよ」


「じゃあお前は一体何なのか教えてくれ」


 触れない。物知り。憑りつかれた人間以外には見えない。

 しかしてその実態は。


「ユートの指導係ぴよ」


「それが意味不明なんだよな……」


 なぜその肩書きで押し切ろうとするのか。

 何かを隠しているようには見えるけど……秘密にする理由が分からない。


「じゃあさ、僕に取り憑く前のことを教えてくれよ、どこから来たとかさ。幽霊にしても生前があるだろ」


「……分かったぴよ」


 観念したように、ピヨは静かに語り始めた。


「ピヨは見ての通りひよこだから、生まれてからの記憶はほとんどないぴよ。覚えているのは大きな釜、ぶくぶくと煮え立つ熱湯。それはもう熱くて苦しかったぴよ」


「えっ……」


 残酷な話に言葉を失う。


「ピヨを煮込んだ熱湯には、植物から採取されたあらゆる成分を投げこまれたぴよ」


「……」


「濃縮されたスープは特殊製法によって生まれた麺と絶妙なハーモニーを奏で、みな口を揃えて歌うぴよ『すごくおいしい~』」


「インスタントラーメンの話じゃねえか!」


 香辛料投入のあたりで読めたわ! 最後まで聞いてやった僕に感謝しろ!

 それにあれは鶏ガラベースであって、ひよこはどこにも関わっていない!


「あーあ、真面目に聞いて損した」


 軽くふらっとした。思わぬツッコミで頭に血がのぼったのだろう。


「じゃあユート好みの話をするぴよ。実はピヨは天の神様の使いで、地上に重要な任務を遂行するために舞い降りた聖なるラブリーベイビーぴよ」


「はいはい、じゃ悪霊で据え置きな」


 湯あたりする前に湯船から立ち上がる。いい加減な話のせいで、ラーメンを食べたい欲求は消えてしまった。


 浴室を出るとスマートフォンに連絡が来ていた。路希先輩だ。入浴前に送信しておいた、有珠杵との質疑応答メモを確認したのだろう。詳しく聞きたいから明日部室に来て欲しい、とのこと。明日の放課後は部室だな。

 授業が終われば真っすぐ帰宅していたのに……生活リズムも変わりつつある。



「洗濯するぴよ」


 寝る前に洗面台で歯を磨いていると、おもむろに提案が上がる。

 鏡に映るピヨが羽で示す方向には、僕の衣服や下着が、幾層にも積み重なっている洗濯カゴが置いてある。


「洗濯物の溜め込みはカビの発生や臭いの原因になるから不衛生ぴよ」


「替えの下着はまだあるから大丈夫だって。それに……うん、大丈夫だって」


 最下層のシャツをつまみ出して嗅いでみるが、着馴れた自分の服のにおいだ。


「週末に母さんがまとめて洗ってくれるし、任せておけばいいんだよ」


「でもユートの服しかないぴよ。だったら自分で洗うべきぴよ」


 ここでも指導係としての役割を発揮してくれる。まったく余計なお世話だ。


「洗濯物と洗剤を入れてボタンを押せば、あとは機械が全部やってくれるぴよ。ユートの家の洗濯機は乾燥機能がついているし、外に干す手間も省けて楽チンぴよ」


「すごいな、うちの洗濯機のスペックを知っているとは」


「そんなのボタンの並びを見ればすぐに分かるぴよ。と~ってもお高そうな洗濯機で羨ましいことですぴよ!」


 なに怒っているんだ……服も着てないくせに……。

 鏡の前に戻って口をすすぐ。


「まったくユートはおうちのお手伝いもしないで……あっ、歯ブラシの毛先が広がっているぴよ。そろそろ交換時ぴよ」


「全然磨けるからいいよ」


「良くないぴよ。毛先が開いた歯ブラシは刷掃さっそう力も半分近く低下するし、衛生的にも雑菌の繁殖が……って聞いているぴよ⁉」


「聞いてるよ。でも買い置きを探すのが面倒だから明日な」


 僕は洗面所の照明スイッチを切った。


「そうやって後回しにすると、あとでいっぺんに片づけなきゃいけないから大変な思いをするぴよ。明日やろうは馬鹿野郎で言葉を知らないぴよ? 勉強も同じで……」


 小言はベッドに入るまで続いた。ここ数日は毎日が賑やかしい。この家では珍しいことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る