18 誰かを助けるなら保身は手放せ

「最初の質問は……『それは普通の人には見えないモノですか?』」


「Yes」


 僕がスマートフォンの画面に問いかけ、有珠杵がネイティブに発音した。


 離れたベンチに座った男女が各々、好きなことをしている——ように見えるのなら、この会話劇は成立している。

 トークテーマは『有珠杵恋振に取り憑いたワニの悪霊』について。質問者である僕は、抽象的な問いを積み重ねて情報を集める。


「次の質問。『それは写真撮影や映像などの記録媒体に残りますか?』」


「No」


「『それは物理的な重さを感じないものですか?』」


「Yes」


 二種類の球がリズムよく打ち返される。

 まずは基本スペックについて質問してみたが、ワニの性質はピヨと同じようだ。

 話題の中心であるワニは、地べたで暇を持て余していた。夕焼けのオレンジが、敷き詰められた班の膨らみに反射して、漆黒の表皮を輝かせる。


 次はゲスオから得た情報を確認しよう。


「『それは去年の中間テスト終了後から始まりましたか?』」


「Yes」


「『それは日常生活での振舞いを変える理由になりましたか?』」


「Yes」


 態度が一変した時期と、ワニに取り憑かれた時期は合致する。

 だけど周りに見えるものじゃないので、存在を取り繕う労力は必要ない。でも有珠杵は取り憑かれてから他人を拒絶するようになった……話が繋がらないぞ。


「『それは他人との交流を妨げる原因になりますか?』」


「No」


 態度は変えたけれど、普通に話すことは可能。そう解釈すべきか。でも何かが噛み合わない。

 ワニと態度変化の関連性を掘り下げるべきか……それだと質問の焦点が有珠杵のプライベートにずれる。僕が集めるべきはワニの情報だ。


 ベンチに深く腰掛け直す。首を左右に一回ずつ曲げると、右肩が鈍い音を打った。

 想像以上に頭を使う。整理のために、会話内容はメモアプリに打ち込んでおく。


「次は……『それは自分の知る人物が原因を作りましたか?』」


 路希先輩から頼まれていた質問だ。イエスなら有珠杵に呪いをかけた術者がいる。ところが返ってきたのは淀みのない否定。直接取り憑かれたパターンか?

 人間が絡んでいないとすれば、有珠杵本人が原因を作ったのかもしれない。


「『そうなってしまった原因に心当たりがありますか?』」


 少し踏み込んでみた。どう答える。


「…………I’m not sure」


「あ、あい……え?」


 間が空いたと思ったら、イエスでもノーでもない返答。もちろんさっぱり分からない。なぜなら僕は英語が苦手で嫌いだからだ。

 日本にいる限り、英語が使えなくても生きていける。中学時代に打ち立てた持論はたった今、崩壊した。


 聞き直したところで訳せない。調べようにも発音が綺麗すぎて検索できない。

 彼女はペットボトルに口をつける。飲み終わりのため息に、疲労の色が混じっているように聞こえた。

 ど、どうしよう……。


「シュアは『確信して』って意味の形容詞ぴよ。文章は否定形だから『はっきりしない』『よく分からない』となるぴよ」


「ピヨ!」


 突然降ってきた救いの声に過剰反応してしまう。


「お前、どうして今まで黙っていたんだ」


「ちょっとおひるねしていたぴよ」


「もう夕方なんだが」


 日も沈みかけ、一方の空から濃紺のグラデーションが迫りつつある。


「ちょっとおゆうねしていたぴよ」


「表現の問題じゃない……むしろ夕方ってお前ら悪霊の活動時間じゃないのか?」


 昼から夜へと移行する隙間の時間を『逢魔おうまとき』と呼ぶ。文字を変えれば大禍刻おおまがとき。古くから魑魅ちみ魍魎もうりょうが活発になる時間帯と言われ、災いが起こりやすいとされている。ホラーゲームをプレイして知った。


「ピヨはまだ小っちゃいから、いっぱい寝る必要があるぴよ。寝る子は育つぴよ」


「普段は昼寝も夕寝もしていないだろ」


 悪霊が育っても困る。もしかしたら授業中は寝ているのか……僕には居眠りするなって言うくせに。


「それより日常会話レベルの聞き取りもできないなんてテストで困るぴよ」


「僕のリーディングの成績はどうでもいい」


 舞台へ戻ろう。

 ワニが取り憑いた原因が不明なら、先の情報は期待できない。あと質問しなければならないのは……。


「ユート、ピヨも質問したいぴよ」


「お、いいけど設定は分かっているのか」


「寝ながら聞いていたからばっちりぴよ」


 さらっと嘘をつくな……ともかく、ピヨなら違った角度の質問をしてくれそうだ。

 わざとらしくスマートフォンの画面を指さした。


「じゃあ次の質問を読んでくれ」


 コホン、とわざとらしい咳で質問者が交代する。


「『それはあなたの会話を縛る原因になっていますか』ぴよ?」


「Yes」


 有珠杵の答えに僕は驚いた。


「盲点だ」


「ぴえっ⁉ 真っ先に聞くところぴよ」


「そんなこと言われたって」


 本当に思いもつかなかったのだから仕方がない。


 悪霊に取り憑かれると体や精神の健康を病む。そんなイメージがあった。

 しかし、ピヨに取り憑かれた僕には数日たっても兆候すらない。それに体も今までと変わらず動かせるし、普通に話もできる。デメリットがないのだ。

 質問させないのは別の理由があると思っていた。


「第一、会話を縛って悪霊に何の得があるんだ」


「そんなの知らないぴよ」


 情報が増えたことで混乱してきた。ワニは有珠杵に何をもたらしているんだ。


「一応確認しておくぴよ。ええと、質問自体は可能だから……『それは相手の質問に答えられない制約ルールを課していますか』ぴよ?」


「No」


 そこはイエスじゃないのか? ピヨも同じく面を食らっているようだ。


「ぴぴぃ……? てっきり質問に関する決まりごとがワニの制約ルールと思っていたぴよが……」


 質問することも、されることも悪霊と関係がないのか?

 なら有珠杵の態度はどこに起因する?

 悪霊が有珠杵に課す制約ルールってなんだ?


 疑問符の波が押し寄せてくる。


「ううー……頭がパニくってきた」


 眉間に寄せたしわを揉む。ほぐしたところで頭はすっきりしない。


「一旦質問を変えたほうが良さそうぴよね」


 無言でうなずき賛成を示す。これ以上の情報追加は僕の脳内CPUが処理しきれない。


「じゃあ次の質問をするぴよ。『それはあなたが命を捨てようとした原因になっている』ぴよ?」


「ちょ、おい!」


 今まで気を使って避けていた質問をためらいなくぶち込みやがった。とっさに有珠杵の顔色をうかがう。


「……Yes」


 一見平静に見える。しかしそれを装っているようにも感じる。

 僕は小声でピヨに抗議を入れた。


「苦労したお膳立てをひっくり返すつもりか」


「これは目を逸らしちゃいけないことぴよ」


 先ほどまでのおちゃらけた雰囲気は消えていた。


「当たり障りのないことを聞いていても本質は見えてこないぴよ。誰かを助けたいって思うなら保身は邪魔ぴよ」


 捨て身になれって意味に聞こえるぞ。

 普段は冗談や調子のよい発言が多いピヨ。だが、肝心の場面では慎重かつ的確な判断を下していた。それが今は冷静さを欠いているように思う。箱庭で有珠杵に怒鳴ったときと同じ心の乱れだ。


 辺りもだいぶ暗くなり肌寒さを感じる。屋上に吹きすさぶ風の音が、どこか悲鳴のように聞こえた。


「それのせいでとても苦しい気持ちを抱えているぴよ?」


「……」


「今まで誰にも相談できなくて一人で頑張っていたぴよ?」


「……」


 もはや設定を無視した、ただの問いかけ。その口調は語尾は柔らかく優しい。

 一方で有珠杵は頬の皮を硬くし、内にこみ上げる何かを食いしばっているようだ。肩が震え、教科書が握りつぶされていく。


「死にたいと思うくらいの悩みを背負っているなら、それがどれだけ重いものなのかピヨにも教えてぴよ。少しは軽くできるかもしれないぴよ」


「…………ダメ、話せない」


 絞り出したようなか細い声が漏れる。


「信用できない」


「どうしたら信用してくれるぴよ?」


 彼女は無言で首を振る。

 苦しむ彼女に寄り添うワニがぽろぽろと涙をこぼす。まるで有珠杵の代わりに泣いているようだ。


「……無理なの」


 自らを落ち着かせるようにペットボトルを煽る。音を鳴らす首元には汗が伝う。 


「ピヨ。もうやめよう」


 これ以上は有珠杵の心を追い詰める。僕はスマートフォンをポケットにしまった。


「コフレを助けたいぴよ」


 それでも僕の頭上では呼びかけが止まない。


「なんでも言って欲しいぴよ」


「お願いだから何も言わないで……」


 聞いている方まで胸を締め付けられるような嘆声たんせいに、ピヨもさすがに口を結んだ。

 水を一気に飲み干すと呼吸を整え、有珠杵はゆっくりと立ち上がる。一瞬、体がぐらつき、ベンチの背に手をかけて体勢を保つ。


「大丈夫か?」


「質問、しないで……大丈夫……だから」


 朦朧としながら、鞄にくしゃくしゃの教科書をねじ込む。

 首に巻き付くワニはまだ泣き続けていた。


「帰るわ……さよなら」


 おぼつかない足取りでテニスコートを横断する。


「どう見ても大丈夫じゃないだろ。そんな状態で家に帰れるわけない」


「帰、れる——」


 有珠杵が倒れた。僕とピヨは同時に叫び、駆け寄った。


「ただの目まいだから……」


「なに強がってるんだよ」


 虚ろに開かれた目は視点も定まっていない。呼吸は大きいが、先ほどまでの汗はすっかり引いていた。

 つい数分前まで普通にしていたのに突然の体調不良。いくらピヨの質問が精神的にきつかったとしても、ここまで様子が変わるのは異常としか思えない。


「もしかして呪いのせいか?」


 思いつく原因は一つしかなかった。問いかけは有珠杵の耳には届いていない。

 倒れる直前に体を降りたワニは、横たわる彼女のそばでしくしくと涙を流し地面を濡らす。身を案じるように、境遇に心を痛めるように、不遇を嘆くように。

 とてもじゃないが、有珠杵を苦しませているようには見えない。


 こいつ、本当に悪霊なのか?


「水……鞄のなか……」


 力なく伸ばす細い手が、地面に転がる鞄を求める。

 有珠杵に代わって拾い上げた鞄の中には、封を開けていない五〇〇ミリペットボトルが二本、入っていた。けい……かるくち……みず? 読み方の分からない五文字の商品名。一本のキャップを開けて手渡すと、彼女は半分以上をひと息で飲み干した。


「落ち着いたぴよ……?」


 ピヨも僕も、固唾かたずを飲んで見守るしかできない。

 有珠杵は目をつぶり、ゆっくりと呼吸を落ち着かせる。胸部の上下が安定してくると、今度はしっかりと両の脚で立ち上がった。


「金輪際関わらないで」


 まだ少しだけ辛そうな目を必死に尖らせ、僕たちを睨みつける。


「私は助けて欲しいなんて言っていない。余計なお世話」


「コフレ……」


 居たたまれない声で名前を呼ぶピヨ。込められた思いは、僕にも同調できる。


「ピヨの行き過ぎた質問は謝るよ」


 心のうちは未だはっきりしないが、質問が心を追い詰めたのは確かだ。


「だけど、有珠杵を放っておけない」


 嘘偽りのない本心を伝える。

 僕が今ここにいるのは路希先輩の指示があったから。頭の上のピヨを祓うという目的のためだ。自分の利益を一番に考えた結果でしかない。


 だけど悪霊とか、それぞれの事情なんて関係なく、有珠杵恋振という女子を見捨てることはできなかった。なぜか心がそれを許さない。

 無関心でいれば、自分は安全地帯にいられると知っているのに……。

 

 誰かを助けるなら保身は手放せ。

 僕は彼女を助けたい、そう考えている。


「力に、なれないかな」


「……あなたに何ができるの?」


 うなだれる有珠杵の握るペットボトルがキュゥ、と音を立てる。


「なら私を元の生活に戻してよ……平穏だった一年前に戻してよ」


 平穏、という言葉に喉がつまる。

 それは僕自身も取り戻したいもの。だから魔女に協力した。


「先輩が呪いを解くために聖水を作っているんだ。それでもしかしたら……」


「そんなもの効くわけないじゃない」


 ペットボトルの水が波を打つ。


「教会のミサに参加して聖水を使ってみた。神社や寺に行ってお祓いを受けた。高い魔除けの札も買ってみた。試せることは全部試した。それでも私は解放されない。素人が作ったものがどうにかできるはずがない」


 真剣さがまるで違う。反論できない。


「それで、あなたは何ができるの?」


 憤然ふんぜんを凝縮させた双眼が、僕の全身を締め上げる。

 何も思いつかない。でも何か言わなければ……だけど、僕にできることなんて。


「上っ面だけで適当なこと言わないで——嘘つき」


 言葉が太い杭のように、僕の心臓を突き刺した。

 確かな気持ちに反して突きつけられた無力さと、初めて誰かに生き方を否定された衝撃がない交ぜになって心臓を潰す。


「ユートの力になりたいって気持ちは本当ぴよ」


「さえずらないで。雛鳥は黙って育雛箱いくすうばこにでも入っていなさい」


 敵意に満ちた目が、今度はピヨに向けられる。


「うるさくても何度だってうたうぴよ、ピヨたちにできることを教えて欲しいって」


「もう黙ってよっ!」


 叫ぶと同時に有珠杵はペットボトルを振り上げた。飲み口を握った腕は垂直にピヨへ向かって振り下ろされる。が。

 もちろん実体のないピヨには当たらない。ペットボトルスマッシュは必然的に僕の頭頂部を殴打した。


「ッ痛ってぇ!」


 想像をはるかに超えた衝撃と痛みに、素直な悲鳴が出てしまう。

 生まれて初めて水の入ったペットボトルで殴られた。それは鈍器で殴られたかと思うくらい、めちゃくちゃ痛い。勢いに負けて首が強制的に下に曲がる。


 ……いや、ちょっと待って。


 視界の端で確かに捉えた、最悪の展開。

 有珠杵はペットボトルを振り下ろした腕を真横に開く。引き絞ったつるのように、しっかりと力をタメる。


 落ち着け頼むそのモーションをキャンセルしてくれ。


 体制を崩した今の僕は防御も回避もできない。そして叩くべきはピヨであって僕じゃないだろ。


「ま」


 待て。たった二文字を伝えようと首を上げた瞬間、ペットボトルの先が頬骨のちょうど良い角度をえぐるようにヒットした。


「っぶげぁべっ‼」


 一撃目が木槌だとしたら、今度は金属バット。激烈な痛みが顔面を駆け巡る。

 ちゃぷんと水が波立つ音を耳に残し、僕はテニスコートに沈んだ。


「さようなら」


 別れの言葉とともに、タイマー式の屋外照明が落日の屋上を照らす。地面に這いつくばる僕の影が惨めに浮き上がった。


 今、人生で一番情けない。

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