17 呆れかえるほどの茶番劇
歩くこと約十五分。連れてこられたのは、川べりに建設された下水処理場だった。
小学校の社会科見学で一度だけ訪れたことがある。名前の通り、汚れた水をきれいにして河川へ放流する大きな施設だ。内部をまわりながら説明を受けたが、内容はほぼ記憶に残っていない。
なぜここへ来たのか? これから何をするのか? 疑問は浮かぶものの、初めに質問は禁止と言われた以上、口には出せない。言いつけを破ったら睨まれて氷漬けにするわよ、そんなオーラを放っている。
黙々と歩く彼女の圧力に当てられ、ピヨとの会話もない。
そう言えばこいつ、有珠杵と接触してからまったく喋らなくなった。自分の頭の上の様子を見ることはできないが、こういうときこそ持ち前の軽口で空気を和ませて欲しい。
下水処理場の敷地に入ると、玄関には向かわず、建物を壁沿いに進む。そのまま側面へ、併設されている階段を遠慮なく昇る有珠杵。
「いいのか? 勝手に……」
うっかり質問が口を突くが、ワニをおんぶした背中は返事もないし歩みも止めない。躊躇しつつ僕も後に続く。
階段を上がりきると屋上に出た。
背の高い金網に囲まれた広い空間には、テニスやバスケットのコートが設置されている。奥は芝生になっていてフットサルも行えるようだ。こんな場所があったのか。
「市民に無料開放されているの」
有珠杵がテニスコートに向けて置いてあるベンチに座る。ワニも背中から首に巻き付くように体勢を変えた。
「使用するには予約が必要だけれど、入るだけなら許可なんて必要ないわ」
コートにはネットや支柱がない。予約をすると貸してもらえるシステムなんだな。
社会科見学では教えてもらわなかったと思いつつ、審判台を挟んで並ぶベンチを腰掛ける。有珠杵の隣に座る度胸はなかった。この距離なら普通の声量で会話できる。
「平日のこの時間に訪れる人はいないから、話し合いにはおあつらえ向きの場所よ」
時折吹く風が、黄昏の落ちる広場を撫でていく。活気のある場所が無人だと、世界が荒廃してしまったように感じる。そう言えば下水処理場は法律では終末処理場と呼びますと、社会科見学で教えてもらったな。目の前の光景にはぴったりだと思う。
「有珠杵はここを利用したことあ……」
るのか、と言い切る前に
僕が黙ると入れ替わるように有珠杵が口を開く。
「さっきから気安く呼ばれてあげているけれど、昨日の今日でなぜ私の名前や家の場所を知っているの?」
腕と足を組み、テニスコートを向いたまま、一方的に会話のボールを投げてくる。
「
名前を知った経路に関してごまかす必要はないだろう。しかし自宅の住所はゲスオから後ろめたい取引で入手した個人情報だ。ごまかして伏せておこう。
「もう一つ、私はあなたの名前を知らないわ。不公平だと思わない?」
「あ、言ってなかったっけ」
まともに話すのは今が初めてか……現状も会話と言えるのかどうか疑問だけれど。
「僕は
流れで自分の悪霊も紹介したが、ピヨ当人からは反応がない。いつもの出しゃばりはどうした。
人差し指でピヨのいそうな場所をつついてみるもノーリアクション。今こそ普段の軽妙なテンションで場を和らげて欲しいのに。
窮屈な雰囲気で話すしかない。
……。
…………。
「………………あのさ、何か話があるんじゃないの?」
「私から話すことはないわ」
連れてきたのはそっちなんだから、お前が口火を切ってくれよ。
「場所のセッティングは受け持ってあげたわ。これで気兼ねなく話せるでしょう?」
悪霊や呪いについて真剣に話しあうなんて、一般人が耳にすると
だからと言ってハイ喋って、って上から目線で言うことか? 初対面から距離を縮めるには、適度な質問で相手に興味があることを示すのが大切なんだぞ。上辺だけの友好関係を築いてきた僕が見つけた処世術の一つだ。
埒があかない。会話のラリーが出来ないのなら、直球サーブで反応をうかがう。
「ワニについて話が聞きたい」
「断るわ。長々と喋るのは疲れるから嫌いなの」
痛烈なカウンターショット。まさに取りつく島もない。
「頼むから胸襟を開いてくれ」
「箱庭で開いたじゃない。屋外で私の濡れそぼる下着を露わにして、小刻みに跳ねる手で肌に触れあまつさえ唇を奪おうとした」
「その節は本当にすみませんでしたもう許してほしい!」
たび重なる疑惑に、とうとう公然わいせつとして認めてしまった……救命行為だったのに。
何かのニュースサイトに乗っていた『痴漢の容疑はかけられただけで大変』という見出しを思い出す。未成年にして法律国家日本の闇を垣間見る今日この頃。
僕は重いため息を吐いた。話は進まず精神疲労だけが蓄積していく。
遠くでカラスがかあかあと鳴き、夕焼けに浮かぶ雲は手で振り払ったような形で流れている。
彼女の横顔は彫像のごとく硬く、石膏のように滑らか。その首元に絡みつくワニの眼は、僕の頭を凝視している。仲間だと思ってピヨを気にかけているのか。
同族なら、あのワニも実害のない悪霊なのかもしれない。よく見れば懐いているペットのようであり、おんぶされている背中はかわいいとさえ思った。
けれど、有珠杵が池に身を投げた際に傍観していた。そこに愛情の絆は感じない。
ワニは悪霊らしく、憑りついた者の不幸を願うのか。
有珠杵はまだ、死にたいと思っているのだろうか。
気になることは多いが、まずは会話を成立させることだ。
向こうには会話をする気がない。さらにこちらは質問禁止。この状況下でどうやって話を聞けばいいんだよ……いや、待てよ。
さっきの「話があるんじゃないのか?」って質問には普通に返してくれたな。
それに家の前で「ワニが重たくないのか?」とたずねた時もお咎めはなかった。
質問は禁止しているが答えないわけではない。
投げかける前に潰されることを考えると、内容は無関係だろう。それに会話する気はないが、会話自体はできる。
仮に。有珠杵に会話の
なんでそんな面倒な……と思っても理由は教えてくれないだろう。同じテーブルに着くしかない。
理屈で考えろ。会話する方法——攻略法を探すんだ。
これは理不尽な無理ゲーじゃない。超絶難易度に見えるだけで、攻略は可能ゲームだと思え。そう捉えれば、少しは自分のモチベーションも上げられる。
あとはトライアンドエラー。思考錯誤して突破口を見つけ出せ。
まずひとつ、試してみたいことがあった。
僕はあーあ、と大っぴらに感嘆し、両腕を夕焼け空に伸ばしてベンチに反り返る。
「有珠杵と上手く会話ができないなあ。どうにか話ができる方法はないのかなあ?」
「……」
「聞き方に問題があるのかなあー? 教えて欲しいなあー?」
「……」
語尾を馬鹿みたいに上げて疑問符を強調してみたが、有珠杵からのリアクションはない。どうやら独り言を模した質問はスルーされるようだ。だけど僕の聞きたいことは伝わっているはず。この調子で情報を集めていこう。
「隣のベンチで男子が独り言を始めたわ」
突然、有珠杵が口を開いた。
「面と向かってなんて聞けばいいのにわざとらしく大声を張り上げて、なんてあざとくて気持ち悪いのかしら。相手にしてもつけ上がるだけね」
「うぇえ……僕だって傷つくんだけど」
傷心しかけて、相手の意図に気がつく。有珠杵も僕の
「私と話をしたいみたいだけれど、隙あらば肉体を求めてくるような男と会話のラリーなんて願い下げね。恐怖で卒倒しかねない」
くぅ……精神を削ぐような言葉の応酬は、すべてセリフだと信じたい。
ゲームは進行している。独り言であれば質問禁止に抵触しないということだ。あとは僕が独り言のように質問するだけ。
「そんな男の質問なんて、丁寧に答える必要がないわね」
「えっ」
「詳細な個人情報を渡せば、十中八九いかがわしい妄想の材料にするはず」
しないわ! ……僕の変態キャラづけは置いといて、質問には答えないと明言した。独り言形式は不採用か?
「時間も惜しいし勉強でもしようかしら。来月は学年最初のテストもあるし」
ため息をついた有珠杵が、鞄からリーディングの教科書とペットボトルを取り出した。水分を補給しながらおもむろにページを開く。
「はいは『Yes』、いいえは『No』」
「すっげえ発音いいな……」
「英会話教室に通っていた頃を思い出すわ」
かき上げた黒髪が風にたなびく。さすがお嬢様は伊達じゃない。
「質問文に対しての基礎的な答えね。これならどんな質問にも使えるわ」
有珠杵からの指針だ。
高校二年生の教科書にイエスやノーなんて、そんな初歩的なレッスンはない。ということは、発音練習は彼女が教えてくれた
質問に細かく答えることはしない。だけど「はい」か「いいえ」でならば答える。
「長々と喋るのは疲れる」「詳細な個人情報を渡したくない」と言っていたのは、端的な受け答えなら可能だということか。
「そうだ」
スマートフォンを取り出す。
「この間ダウンロードしたアプリで遊んでみるか」
白々しく宣言して、真っ黒なホーム画面に指を滑らせる。
「人や物を当てるゲームだったな。音声入力した質問をプログラムが『イエス』『ノー』で判定して答えを絞り込む。やってみよう」
適当に考えたが、元ネタはある。
「それは○○ですか?」という機械側からの質問に対して、ユーザーが選択肢で答えていくと、思い浮かべているキャラクターを特定するというプログラムだ。
暇つぶしで遊んだゲームの経験がここで役立つとは……人生ってわからない。
僕はスマートフォンに対して質問する。
有珠杵は発音練習を繰り返す。
表面的には単独行動だが、互いに意思疎通を目的としているため、結果的に質疑応答が成立するはず。
「今回当てる事柄はなんだろうなあ」
想定したのはもちろん「有珠杵に取り憑いたワニ」。ここまで手短に説明したが、有珠杵は汲み取ってくれているだろうか。
「これを言えばゲームスタートか。『質問を開始してもいいですか?』」
「Yes」
間を置かずに滑らかな発音が聞こえてきた。以心伝心を信じよう。
彼女の足元に移動していたワニは、大きな口をゆっくりと開閉する。退屈でつき合っていられないようだ。転がっていたテニスボールを太い尻尾で跳ね飛ばそうとするが、体が透き通るため、一ミリも動かない。
たしかに今から始めるのは呆れかえるほどの茶番劇だ。空々しいことこの上ない。
けれど有珠杵は舞台に上がり、狂言を演じている。きっと思惑があるはずだ。でなければ、僕をこんな場所に連れてくるものか。
ここからは第二幕。真実を暴くための質問劇を始めよう。
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