Ⅰ 遠ざかる日常、距離を詰める非日常

03 罰が当たるようなことをしたのだろうか?

 空を飛ぶなんて気持ちの良い夢を見ていたら、目覚ましのアラームが介入。否応なしに現実へと引き戻される。ああ、ずっと夢を見ていたかった。


 ベッドから抜けてカーテンを開けると、快晴の空に燦然さんぜんと輝く太陽が活力の光を押し売りしてくる。欲しくなくても売りつけてくる。買取拒否もできない。

 手に入れたところで、僕の平穏で平凡な人生には何の役にも立たないのだけれど。


 真上に大きく伸びをすると、体中の関節が小気味よく骨を鳴らした。

 変わらない一日の始まりを告げる音。地味でつまらないところがぴったりだ。




 寝ぼけまなこでフローリングの床をぺたぺたと歩き、パジャマのまま洗面台に向かう。

 ぼけーっとしたまま冷水で何度か顔を洗い、目をつぶったまま、右手だけをタオル掛けに伸ばした。


 ……あれ?


 指先が空を切る。顔面の水滴を滴らせながら視線を向けると、タオルがかかっていない。

 母さん、洗濯したきりで替えを忘れたのかな。


 そばにある引き出しからだそうと引っ張るが、中にタオルは一枚も入っていない。ここにしまってあると思ったんだけど。

 しゃーない、部屋に戻って取ってくるか……と思ったけれど面倒になり、パジャマの裾で顔を拭く。


「パジャマは顔を拭くものじゃないぴよ」


 頭の上から声が降ってきた。

 天井を見上げるが、もちろん室内灯はしゃべらない。まだ半分夢心地のようだ。

 週の初めが気だるいのは仕方がない……ふぁ~ぁ……。


仲村ナカムラ優斗ユート


 今度は僕の名前を呼ぶ声が、つむじの辺りから聞こえてくる。

 視線を天井から背後へ向け、そのまま廊下に出て扉の向こう——リビングを確認する。家の中には僕しかいないし、テレビもつけていない。


 頭を搔いて昨晩のことを思い出す。割と早く寝たつもりだったけれど……薄ぼんやりとした記憶のもやは、晴れる気配がない。


 もう一回顔を洗っておくか。

 洗面台の前に戻り鏡と向き合う。


「おはぴよ」


 三度目の声。今回は室内を探る必要がなかった。

 全ての意識が、鏡に映る自分の頭上に注がれる。


 卵くらいの大きさで、カスタード色の毛糸玉。

 正面にプラスチックのような光沢の三角形がくっついている。

 その上部にはくりくりとした黒豆がふたつ。


「………………ひよこ?」


 にわとりの子ども。地毛に埋まる物体はそれ以外に見えなかった。


「月曜日はだるいけれど、シャキっとするぴよ」


「え……んん? え、えっ?」


 なんだ、この夢は?

 頭の上にひよこが鎮座していて、人間の言葉で生活態度を指摘してくる。

 どうせ見るなら、もっと楽しい夢を見てくれ自分。


「夢じゃないぴよ」


 思考を見透かすように、ひよこは愛らしく黒光りする瞳を鏡越しに向けてくる。


「……いや夢だろこれ」


「そう思うならほっぺをつねってみるといいぴよ」


 古典的な確認方法だなと思いつつ、頬を強めにつねってみた。


ひはひ」


 掴んだ場所に赤みが混じる。それでも頭上のひよこは消えていない。


「ほーら夢じゃないぴよ」


 自慢げに小っちゃなくちばしを尖らせる。

 いやいや馬鹿な。

 そんな馬鹿な。

 このシチュエーションが夢じゃなければ一体なんだというのか。


 まずこいつはなんだ。僕は不可思議なひよこを掴もうと手を伸ばした。


 ささっ。

 ひよこは僕の指先を避けるように、場所をずれる。追う僕の右手。


 さささっ。

 頭髪の草原を滑るように移動し、追撃を逃れる。


 ささささっ。


「うおおおおおおおおおおおおおっ!」


「ぴーよぴよぴよぴよぴよ遅いぴよ~っ」


 左手も投入して捕獲に全力を費やすが、指先には一切感触がない。

 鏡で見る限り、絶対に触っているはずなのに。


「逃げるな!」


幼気いたいけな雛鳥を直接的手段で排除しようなんて、動物愛護団体が黙っていないぴよ」


「勝手に居座ってどの口が言う! これは僕の自由を侵害する害獣駆除だ。降りろ」


 やーだぴよっ、と言い残して後頭部に隠れるひよこ。

 両手を後ろに回すが、やはり感触がない。


 体を百八十度回して鏡に映すと、今度はいつの間にか前頭部に移動している。すぐに手を伸ばすも、ひよこは瞬間移動したかのように消失し、再び後頭部からあどけない顔をのぞかせる。


「ぴぴぴ、ユートになんて捕まらないぴよ」


 ひよこのくせにあおってくる……だと! なんだこいつは、見た目に反してぜっんぜん可愛くない!


 鏡の前で何度も体を回転させながら黄色い小悪魔を追跡するが、あまりの速度に捕獲は困難を極める。

 こうなったら……!


「落ちろぉぉおぅうぅぅうううっ!」


 ライブでヘッドバンキングする観客のように頭を激しく振ってみるが、鏡で確認すると元の位置で平然としている。僕の紙の毛とは真逆に、整った毛並みがまた苛立たしい。


「ハァハァ……なんで……平気なんだよ……」


 激しい運動の果て、全てが徒労に終わったショックと疲労で床にへたり込む。


「修行が足りないぴよね」


「じゃあどんな修行が必要か教えてくれ……」


 朝から鏡の前で暴れていた自分の姿は、脳内リプレイするとひたすら恥ずかしい。


「まっ、いい運動になったから良しとするぴよ」


「僕だけがな」


 腹は立つが眠気はすっとんだ。これでひよこがいなくなっていれば、朝の幻想で片づけられたのに……やつは長年の住処のような風格で、僕の頭に残存している。なんだか髪の毛が巣のように見えてきた。


「ところで学校まで何分かかるぴよ?」


「へっ……ああっ⁉」


 置き時計はまもなく家を出る時刻を指している。起床から現在に至るまでやったことは、鏡の前で気が狂ったように暴れていただけ。人生で五本の指に入る無駄な時間を過ごした。


「わけの分からんひよこのせいで遅刻する!」


「えー? 自分の時間管理が至らない責任を人の……じゃなくて、ひな鳥のせいにするのはどうかと思うぴよ」


「完全にお前のせいだろっ!」


 洗面所を飛び出し、急いで制服に着替える。


「無造作ヘアーって単なる手抜きだと思うぴよ」


「今から整えるわ! これはお前を捕まえようとした努力の痕跡だよ!」


「自分から努力したって公言しない方がかっこいいぴよ」


 いちいちうるさいなあ!

 ブレザーを羽織り、整髪料で頭髪を適当に整える。かなり手早く両手を動かしているのに、ここでもひよこはすいすいと避ける。

 床に置いてあるカバンをひったくり玄関へ急ぐ。


「朝ごはんはどうするぴよ?」


「そんな時間あるわけないだろ」


「朝食は大事ぴよ。お米やパンなどの炭水化物は消化するとぶどう糖になって、脳を働かせるエネルギーになるぴよ。勉強に集中できなくなっちゃうぴよ」


 脳なら洗面所での回転運動で完全に覚醒している。それに食べても食べなくても、授業に対する集中力なんて変わるものか。高校二年生に進学したからといって、授業態度を改めるつもりもない。


「本当に食べないぴよ? 授業中にぐーってお腹がなると恥ずかしいぴよ」


「学校の売店でなんか買う!」


「忘れ物はないぴよ? 教科書は全部入れたぴよ?」


「持った持った全部持った!」


 ああもうぴーちくぱーちくやかましい! このあともずっと口うるさいのかと思うと……このあとも?

 靴を履いたところで重要な問題に気がつき、しゃがみこんで頭を覆う。


「防災訓練ぴよね」


「このタイミングでやることじゃないだろ! だったらとっとと家出るわ!」


 声を荒げすぎて喉が渇いてきた。だが先に対応すべき危機的状況がある。


「お前……ずっと頭の上にいるのか?」


「思っていた以上に居心地がいいぴよ。頭皮ってあったかいぴよね」


 まごうことなき居座り宣言。もう本当に、夢なら覚めてくれ。


「早く行かないと遅刻しちゃうぴよ」


「このまま外に出られるわけないだろ! 頭にひよこを乗せて歩く高校生なんて痛すぎる!」


 何の罰ゲームだよ。僕ならそんなやつには絶対に近づかない。間違いなくヤバいやつだって遠巻きに観察される。面白がって撮られた写真とか動画をSNSに挙げられて学校中の……いや世界中の笑いものにされる。


 それすなわち、人生の終わり。


「頼む降りてくれ!」


「それは無理な相談ぴよ~」


「なんでだ」


 そ・れ・はぁ、ともったいぶるように一文字ずつ強調する。早く言え。


「ユートとは一心同体になったからぴよ……ぴっ」


 なに「ぽっ」みたいに恥じらいを帯びた声出してるんだ!

 事態はひとつも受け入れられない。重たいため息が玄関に落ちる。


「頼むから理解できることを教えてくれ」


「これからユートが健全な高校生として、真っ当な生活を身につけるように指導していくからよろしくぴよ」


「今までで一番理解できない!」


 突然頭の上にひよこが居座って生活指導するってなんだ⁉ どう見ても先日殻を割って出てきたようなやつが、高校生の何を知っている! お前はまず自分が大人になることを優先しろ、話はそれからだ!


「そもそもお前は一体……」


「お前って名前じゃないぴよ。ぴよぴよ」


「はぁ? 鳴き声じゃなくて名前を聞いたんだけど」


「だから名乗ったぴよ。ピヨの名前はピヨぴよ」


「ピヨ……って何のひねりもないな」


 そのうえ、語尾もぴよだからややこしい。活字なら名前がカタカナで語尾は平仮名ってところか。


「自己紹介も済んだところで、本格的に急いだほうがいいぴよ」


「だーっもう仕方ない!」


 僕は片手でピヨのいそうな場所を覆って玄関を飛び出した。

 不自然極まりない格好だが、イタい姿を見られるよりはるかにマシだ。


 どうしてこうなった……僕はなにか罰が当たるようなことをしたのだろうか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る