第一話「レンズは現実の拡張なのか?」 4
「う、ううん」
何か柔らかいものが右頬に当たった。
「よっ」
彩花が目を覚ます。
「大丈夫?」
やけに近いところから声が聞こえた。というか、生温かい風が耳に当たった。
「わ、わ!」
彩花の眼前、数センチにさっきの少女の顔があった。少女が彩花をのぞき込んでいたのだ。心配しているようでも笑っているようでもある。
視界を覆う少女の顔のわずかな隙間から黒い空と星が見える。
後頭部には堅い感触がある。
どうやらベンチに寝かされていたみたいだ。
「いやあ、起きなかったらどうしようかと思っていた。心臓が止まったかと思ったよ。『処置』が適切だったのかな」
処置?
「な、なにをしたの!?」
「なにって、ほら」
少女は自分の唇を指さした。
「ななな!」
「ま、結果オーライってことで」
その声は悪びれているようには聞こえない。
「ん、どうした?」
「……とにかく、近い」
彼女は彩花が眠っていたベンチの空いているスペース、彩花の頭側に座っていて、彩花の髪を通して彼女の太ももの感触と体温が伝わってきていた。
「おっと、ごめんな」
彼女は拳一個ぶんだけ距離を取った。彩花も身体を起こして、ベンチの端に移動する。
周りには誰もいない。
白い少女も姿を消していた。
「別に離れなくてもいいでしょ」
ヘッドフォンを揺らして少女が言う。
メンタルスペースの狭い人間だな、苦手だな、と彩花は目の前の人物を評価した。
「いや……」
「まあ、いいけど。飲む?」
彼女は肩掛け鞄から残量が半分ほどになったスポーツドリンクを取り出して、彩花に見せる。
「い、いらない……」
どう見ても飲みかけの飲み物を渡そうとするなんて、常識がないのか、そんなの随分昔の映画でしか見たことがないぞ、と彩花は思った。
「そっか」
正面を向き直した彼女はキャップを回してボトルに口をつける。彩花は彼女の横顔をまじまじと見ていた。中性的で目鼻立ちの整った端正な顔立ちをしている。
「ん? なにかついてる?」
視線に気が付いた彼女が彩花の方を向いた。
「え、いや、ううん」
「そう」
彼女がキャップを締めて鞄に戻した。
「僕は紗希(さき)、明日(みょうが)、紗希。ミョウガ、昨日今日明日の明日でミョウガ。紗希でいいよ」
「え?」
「僕の名前」
僕、と彼女は言った。
彩花は相手を女性と判断していたが、もしかしたら違うのかもしれない。現代では相手の性別を聞くのはタブーの一つになっているし、彩花自身も興味がそれほどなかったので、わざわざ聞こうとしなかったのだ。
しかしそう言われれば彼女は少年のように見えなくもない。
それを察したのか、彼女は返して、ん、と言う。
「ああ、いや、合ってるよ、僕は女だよ。昔からそういうのが癖になっているから、それだけだよ」
そして、自己紹介をした紗希は彩花をじっと見た。
「ほら」
それが名前を名乗る催促だということに、彩花はようやく気がついた。
「わ、私は久慈彩花」
「なるほど、それじゃ彩花って呼ぶね」
「え……」
紗希は距離感がかなり近いみたいだ。パーソナルスペースも狭いことから、コミュニケーション強者よりだ、と瞬時に分析する。彩花の苦手なタイプだ。下の名前で呼ばれるなんて、親と親戚くらいしかいない彩花は戸惑ってしまう。
「それで、今回が初めてなの? 経験なかった?」
「うん、これ? なにも知らなくて」
指輪を拾った経緯を彩花は紗希に伝えた。
一条のことにも、渡してきたスーツ姿の女性のことにも触れず、岸壁で拾ったとだけ。
「ふーん、そうなんだ。いや、本当に素人だったんだね。ごめんごめん、ペナルティ、痛かったでしょ」
紗希が素早く頭を下げながら謝る。
紗希が言っているのは、ゲーム終了時に指輪から放たれたさっきの電撃のような痛みのことだろう。
「い、いや、いいけど」
本当は気絶するほどかなり痛かったのだが、いまさら抗議をする気にもなれなかった。
「ならいいけど。じゃあ、悪いことをしたかなあ。これ、始まってそこそこ経つから、新規プレイヤーなんていないと思っていたから」
「……そうなんだ」
「それじゃ、説明がいるよね。あ、待てよ」
何かを検索しているのか、紗希は空を見上げた。
「うーん、僕が話すよりも適任がいるから、連絡を取ってみるよ。その方が早そうだし」
「適任?」
「ちょっと待ってて」
そもそもこのゲームを続けようとは思っていなかった彩花だが、紗希は目を閉じてどこかにアクセスしているようだった。
「やあ、久しぶり。新規プレイヤーがいるんだけど、色々教えてあげてほしいんだけど」
紗希はヘッドフォンを被り、音声でやり取りをしている。
「そうそう、今になってなんだけど」
それから紗希は少しネットの向こう側と雑談のような会話をして、彩花の方を向いた。
「よし、大丈夫みたい。明日、この場所に来て」
パブリックで紗希はマップを表示した。そのデータを彩花はダウンロードする。場所はここから歩いて行けるほど近くだった。
断る暇も与えられず、後手後手になっているうちにどんどん話が進んでしまっている。
「あ、でも」
「またどこかで会ったらよろしくね」
両手で彩花の両手を包み込むように握り、紗希は笑顔で言った。
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