正義の定義

斑鳩りあす

正義の定義


 時刻はちょうど午後三時。


 遅めの昼食(実際は朝を食べていないので昼食兼朝食か)をとった私は自分の仕事場を離れ、ある目的を果たすために重くなった腹をさすりながら動き始めていた。


 少し食べ過ぎたかもしれない、夕方眠くならなければいいが―なんてどうでもいいことを考えながら歩くこと数分。


 私は目的の場所にたどり着いていた。


「君、新入社員の子だったよね。今ちょっと時間大丈夫かな」


 今年ここに新しく入社した社員は三人。


 まあ、会社の規模から考えれば妥当なところか。


 私はその内の一人に声をかけた。


「はい、大丈夫です」


「よかった。ここじゃ人も多いしあまり落ち着かないからついてきてもらえるかな」


 私の目的―私には新入社員が入ってきたら必ずすることがあった。


 面談である。


 いやなに、この面談に大した意味はない。


 ただの興味本位というか…これから一緒の職場でやっていくんだ、相手がどういう人間なのかくらいは知っておきたいじゃないか。


「ついたよ。ここが私の仕事場さ。そこら辺の椅子に座って楽にしてくれ」


「ありがとうございます。お言葉に甘えて、失礼します」


 去年入社した社員とは違って礼儀正しい子だな。


 今の時代なかなか珍しい。


 仕事場に新入社員を案内し、彼が椅子に座ったのを確認した私は向かいの椅子に腰掛けた。


「ごめんね、実は君を呼んだのに大した理由はないんだ。ただ一つ、聞いてみたいことがあってね。君は…正義と悪の定義って何だと思う。君にとって何が正義で何が悪なのか、私に教えてはくれないだろうか」


 少し意地悪な質問だったかもしれないが、彼は少し戸惑いながらもはっきりとした口調で話し始めた。


「正義と悪ですか…。正義は世間一般に考えて正しいこと。悪は世間一般に考えて悪いことだと思います。例えば女性がこの人痴漢です、って言ったときに痴漢を捕まえることは少なくとも悪いことではないですよね。同じように、金額に関わらずとも店からお金を払わずに物を持ち出すことは正しいことではないはずです。それは決して許されることではありませんから」


「なるほどなあ…」


 大きく息をひとつ吐く。


 予想よりもしっかりとした受け答えが返ってきたので、私はまた少し意地悪がしたくなってしまった。


 悪い癖だ。


「でももし、その女性が本当は痴漢なんてされていなかったらどうだろう。まあ、つまるところ冤罪ってやつだよ。それでも君は男性を取り押さえることが正しいと自信を持って言えるのかい」


「それは…」


「万引きは確かに悪いことかもしれない。でも、事情があったとしたら?もし人命にかかわることだったとしたらどうだろう。それでも君はそれが100%悪であると言い切れるのかい」


「いえ…」


「実際はどうかなんてわからないし、こんなことは言い始めるときりがない。わかっているとも。君の意見は世間一般的に考えれば正しいのかもしれない。でも、ね」


 彼は今度こそ黙ってしまった。


   *     *     *


「正義と悪の定義ってなんだろう。君にとって何が正義で何が悪なのか、私に教えてはくれないだろうか」


 新入社員二人目の面談である。


 彼女もまた一人目の彼と同じくとてもまじめで礼儀正しい。


 彼女は目を瞑って考え始めた。


 しばらくして口をゆっくりと開き、「申し訳ありません。わかりません」とだけ言った。


「そうか…わかった。手間をかけさせてしまってすまない。」


 考えた末にわからないという結論に達したのだろう。


 これもまた答えの一つなのかもしれない。


   *     *     *


「君が思う正義と悪の定義とはなんだろうか。君にとって何が正義で何が悪なのか、私に教えてはくれないだろうか」


 時刻はもう午後四時を回っている。


 私は今日すでに三度目になる問いかけを三人目の新入社員の男に向かって投げかけていた。


「はあ、正義と悪の定義ですか」


 最初は一人目と同じような反応である。


 だが、一人目の彼とは違ってこの三人目はなんというか…コミュニケーションが苦手であるように見えた。


「僕は…自分と同じ考えのものが正義である、と思います」


「…ほう。では悪とは」


 私は内心驚いていた。


 彼が意外にもはきはきと話し始めたことももちろんではあるがこれは少々…その、予想外の回答だったのだ。


「悪は正義の定義から考えるならば自分と異なる考え、ということになりますよね。普通に考えるならば。ですが僕はそうは思わないんです。だって、自分が信じた正義と戦っているのはいつだって他の誰かが信じた正義なんです。正義の反対は悪ではなく、また別の正義なのではないか。僕はそう考えています。悪なんてはじめから存在しないんです」



   *     *     *


「やあやあ。どした?後藤君から会いたいって言うなんて珍しいこともあるもんだねえ。お姉さんが恋しくなっちゃったのかな?うん?」


 明日は槍でも降るのかな、なんて笑いながら私の隣に座る彼女は手に持ったグラスを傾けた。


 カラン、とグラスの中の氷が気持ちのいい音をたてる。


 槍はさすがに勘弁してほしいっすね、と言いながら私も彼女に倣うようにしてグラスの中の液体を口に流し込んだ。


「篠崎さんが面白半分でいつも新入社員が入る度にやってたアレですよ。今は自分がやってるんすけどね」


「へえ。アレ、まだやってくれてたんだ?正義と悪の定義ってやつ。懐かしい」


「今日ちょっと面白いやつに会いましてね。まさかこの歳になって自分が入社したときに言ったことをそのまま別の人間から聞くなんて。不思議な気分ですね。なんか恥ずかしいっすわ」

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正義の定義 斑鳩りあす @grandarc

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