1.6

 HALは特殊なhIEだ。

 それは能登佐奈が英国の超高度AI『ビーグル』の人類未到産物レッドボックスであるhIE用の高度生体部品の限定使用を許可されたために、着想を得たhIEコンセプトだからだ。

 HALはその外見のみならず声帯に関わる口腔内や心肺、横隔膜などもAASCによる制御が可能な生体部品で構成されている。

 つまり、HALは過去のhIEアイドルのようなスピーカー出力とは違い、人間と同じ声帯の構造を持ち、同じ肉体の振る舞いで歌っている。そして人間にはHALと人間の歌声に違いを見つけることができない。



「HALは心肺の運動まで模倣できるため、既存のAASCの振る舞いでは対応できなかった。だから、そこの安藤が人間に似た振る舞いを記述するために招聘されたのだし、我々はHALのためのカスタムクラウドまで用意した。舌や横隔膜の一つの動きまで完全に制御できるアイドルとしての道具、というのがHALの事実上のコンセプトだからな」

 人間嫌いの上野淳也が、人間以外のモノに人間を見ることに熱を燃やす理由だった。

 それは一つの芸術家としての夢だ。ヒューマンエラーを排除したい、いや、ヒューマンエラーに見えるものまで演出として完全に制御下に置きたいと考えるのは何も珍しいことではない。人間が介在しなければ美しく完璧に見えるモノはいくらでもある。

「だが、そこの色惚けでもできないことはある。声紋をつけることだ。つまり声そのものに個性を持った振る舞いをつけることだ。こればかりは声紋の振る舞いの平滑化など個性を消すことに他ならないから、モデルが必要だった。それを、雄吾、君が選んだんだ」

「とはいえ、権利の問題があるからカーペント社でそこは精査したはずなんだけどねー」

 佐奈が、責任は雄吾にはないとフォローしてくれていた。事実、彼は佐奈から渡された二百万に及ぶデータから声を選んだだけだ。そのことは皆納得しているようだった。

「だいたい、俺が選んだデータの女の子の声は七歳かそこらだったろ。そこから成長分を演算して今のHALを設計したんじゃないのか。それでなんで声が被ってると問題なんだ。たまたまって言えないのか」

「悪意が介在しないとは限らないでしょう。それが完全に瑕疵がないなんて証明できる?」

 佐奈はいつも正しい。責任を重く感じている証拠だった。そんなとき彼女は責任の所在をはっきりさせようとする。

「とにかく、クレアちゃんと話をつけなきゃなんない。普通は賠償金とかで和解するんだけど、彼女がこんな時代に――、いや、こんな時代だからこそか、歌手になりたがってるならそれも難しい」

 人間の居場所がなくなっていく時代で、自分の存在意義を見いだすことは難しい。だから、より人間にしかできないように見える特別なことを選ぼうとする傾向が世代を経るごとに強くなっていた。だが、経済にも抱えきれる限界はある。特別になれる人間は過去と変わらず一部の人間だけだ。

「ウチに引き込むか」

 ジェイドがつぶやいた。さして大きい声ではなかったのに、いやにはっきり聞こえた。全員がジェイドの方を向いた。

「ウチって、カーペント社ってこと?」

「いや、このプロジェクトのことだ」

「それ、あの子が納得すると思う? 普通なら侮られてるって受け取ると思うんだけど」

「だが、このままだと共倒れだ。サナ、君もわかってるだろう」

「まあね……」

 佐奈が仰ぐように頭を振りかぶった。目を閉じているときはたいてい本気で悩んでいるときだ。

 佐奈は決心したように立ち上がると、ジェイドの方を見て言った。

「ジェイの案でいきましょう」

「いいのか?」

「クレアとHALのダブルユニットで売り出すわ」

 呆気にとられるとはこのことだった。

「いや、それ、いいのか」

 今度は雄吾が唸った。hIEは先進国では人の穴を埋めるように急速に拡大した。それは受け入れられているという見方もできる一方で、本来その穴に収まるべき人間をはじき出したという見方もある。

 便利使いしやすすぎる今のhIEは反発も大きいのだ。

「HALは裏を返せば自動化社会の象徴みたいなもんなんだぞ。hIEと人が同じ舞台に立つなんてこと、クレアやその周りの大人が認めると思うか」

「認めさせるのが私たちの仕事」

「格好いいこと言ってる場合か……」

「厳しいのはわかってるわよ。でも人間とhIEが一緒に仕事をするなんて珍しくないでしょ。社会に浸透したモノの表面上の使い方に抵抗を覚えてたら、一瞬で取り残されるわよ」

 それは今までの人類が経験してきたパラダイムシフトが、道具の発達によって起こってきたということだ。道具が発達することで否応なく社会は変化せざる負えなくなる。その便利なモノがなかった時代のことなど、考えられなくなるからだ。

 たとえば、かつての農業はいい加減だった。それが、管理されるようになり、遺伝子操作で収穫量を増やした。道具を発達させることで、増えた人口を支える食料を供給できるようにした。そして世界人口が百億人に達しようとしている今、かつての農業に戻ろうとすれば、百億人の人口を支えきれず、社会基盤そのものが瓦解し膨大な人間が飢餓か、戦争か、虐殺で死ぬ。道具が発達する前にはもう戻れない。道具が人体から切り離されたモノだから人はいつでも道具を捨てられると錯覚するが、実際には捨てられないモノの方が多い。

 佐奈はhIEがすでにそういうモノになっていると言っていた。もはやこの人型のロボットなしでは社会運営さえままならないと告げているのだ。

「なんだよ、それ。そういう話じゃないだろ、これは芸術とか人の気持ちとかそういう話だろ」

「今までのアイドルや歌手に、気持ちを考慮されることなんてあった? 流行になれなかったらそのまま消えていくし、流行になってもいつかは消えるような、たいていはそういうモノだったでしょ。結局百年後まで残っているものって、歴史上の偉人としての名前か、キャラクターばっかりでしょ。じゃあ、HALみたいに人にもキャラクターをつけて淘汰を乗り越えようって考え、そんなにおかしい?」

 人ですら淘汰される。それは、流行や生死といったものだが、それすら淘汰という言葉を言い換えただけかも知れなかった。

 音楽家として、雄吾もまた淘汰された側の人間だから、佐奈の言葉を簡単に割り切れなかった。

 だが、雄吾から漏れたのは意味もない、小さな吐息だけだ。

「HALを訴求力が何十年も保つことができるようなモノにするためには新しいことを始めていかなくちゃ。人型ロボットと協同して仕事をすること自体はHumanize―Wが出てくる前から行われてたんだから、むしろ遅いくらい」

「だが、どういうカバーストーリーをつける。今更、人間とペアを組ませるなんて話はいらん疑惑のもとだぞ」

 ジェイドの声は非難するようでいて楽しそうだ。

「まてまてまて、まずは彼女の気持ちだろ。俺たちが勝手に盛り上がってどうするんだ」

「まあ、そうね。ほんと、厳しいわー」

 佐奈は間が抜けたような声で言うが、事態が深刻でないと演技しているだけだ。実際は本気で追い詰められている。

「クレアちゃんと話すのは、私と雄吾でやるわ。まあ、雄吾はもう契約切れてるからウチの人間と言うより、どちらの事情にもある程度通じてるオブザーバーとしていてもらうだけだけど」

「俺は黙ってろってことか」

「あなた、ウチの社員じゃないんだからこんな重要なことにほいほい口突っ込ませるわけないでしょうが。クレアちゃんが必要以上に威圧感感じないように、もう知り合ってる人にいてもらいたいだけ。単なる潤滑油よ」

「油かよ」

 気づけば雄吾の価値が人ですらなくなっていた。

「私もその場に入れてもらえないか」

 ジェイドが画面に映るクレアを見ながら、何かを思い悩むように声を上げた。いつもはこうした交渉事を嫌って表に出てこない彼が、態度もはっきりさせないまま、話し合いの場に赴こうとしているのがらしくなかった。

「なんで? いっつもでてこいって言っても来ないじゃない」

 案の定、佐奈がいぶかしむ。

「いや……、気になることがある。できれば直接会って話がしたい」

 ジェイドの珍しく深刻な面持ちを見て、佐奈も気圧されたのかうなずいた。

「まあ、ジェイがそれだけ言うならいいわよ。何か理由があるんでしょ」

「感謝する」

 そして、あごに手を当てて考え事を始めてしまう。独り言がぼそぼそと聞こえた。

「あれはルイスの工房の仕立服オートクチュールだ……。まさかあのグリーンフィールドではないだろうな……。そもそも、あの家にあのような娘などいたか?」



 応接室に入って、佐奈が一番初めにしたことは、クレアを一時間近く待たせたことと、何度も連絡をもらっていたにもかかわらずそれに会社が対応しなかった事への謝罪だった。

「今回の件は私どもにとっても非常にデリケートかつ不測のアクシデントです。ですからできる限り綿密な説明をさせていただきたいと思っています」

「そうですね、謝罪は受け取ります。でも、機械知性が人類の知性を随分昔に超えている時代に、どれだけ予想できないことが残っているのでしょうか」

「超高度AIすら未来予知はできないというのが定説です。未来だけは昔と変わらず、手の届かないモノですよ」

「それでも望む未来に近づくことはできますよね? たまたま私の声と一緒だったなんて、無理があると思いませんか」

「私たちにとっても不測の事態だと申し上げました。HALはhIEという取り替えのきくただのモノであるため立場が弱く、不祥事が起きればすぐに社会からはじき出されます。不祥事が起きるような状況を作らないことがHALの前提条件だったのですよ。正直なところ、困っているのは私たちも同じなのです」

 佐奈もクレアも一歩も引かない。どちらも自分の大切なモノがかかっているからだ。

 女性はこういう話し合いをするとき、ひどく強く見える。けれど、引かない強さとは妥協できないと言うことだ。

 雄吾は、自分が佐奈になんと言われていたかを思い出して口を挟んだ。

「ふたりともちょっと落ち着け。極力冷静に話をしようとしてるのはわかるが、話が一歩も前に進んでないだろ。おい、ジェイド、お前も何でそんなところに突っ立ってるんだ」

 雄吾がなぜか応接室の外の廊下で突っ立っているジェイドを呼ぶ。つられてクレアも入ってきたジェイドの方を見た。ジェイドの頓珍漢な格好を見て目を丸くしている。

「あー、この男はジェイド・シュミールだ。その、妙な格好はしているが悪いやつじゃないので身構えてやったりしないでほしい」

 雄吾も言っていてそれはないだろという説明をしていた。

 クレアがぽかんとした後、クスクスと笑った。

「シュミール様を英国で知らない者は今でもそうはおりませんよ。誉れ高き騎士なのですから」

 騎士、と雄吾の口から間抜けにこぼれた。

 ジェイドが居心地が悪そうに頭をかいた。指が胸に下がった勲章をはじく。

「ただの名誉称号だ。初めてパリコレで最優を取ったとき、いただいた」

「英国の貴族自体、中世から残っている家なんてごくわずかですけどね。二十一世紀以降の騎士称号は文化に多大な貢献をしたり、歴史に残るような方に贈られますから」

「陛下のご期待は裏切ってしまったがな」

 それでも勲章をジェイドは手放していない。

「シュミール様の事は父から伺っています。父がお酒を口にすると、あなたのことを話すことがありました。とても感謝していると」

 ジェイドの顔が目に見えてゆがんだ。

「本当に、君はあのグリーンフィールドの人間なのか。私は君のような娘がいたとは聞かされていなかったぞ」

「私は、養子ですから」

 ジェイドが一瞬押し黙った。思わぬところに踏み込んで、続く言葉を失ったようだった。

「あの後か」

「はい、ですから私もお父様から伝え聞いたことしか知りません」

「そうか。……それはジュリアナが着ていた服だ。大切にしてくれるとうれしい」

 ジェイドが痛みをこらえるように言葉を絞り出した。雄吾も佐奈も口を挟めない。二人ともジェイドとのつきあいはまだ二年程度で、過去の事情など知らないのだ。

「サナ、撤退だ。私から提案しておいてなんだが、交渉は不可能だ。戦略を練り直すぞ」

 ジェイドが応接室を出ようとしながら佐奈にささやいた。

「何言ってるの?」

「HALがらみで彼女と交渉はできない。もう、単純な少女とその保護者への説得という状況ではなくなった。彼女の前でそれを説明するか?」

「説明して」

 佐奈はここで交渉が途切れることを嫌った。いざ裁判となれば、たとえ負けずともHALには致命傷だからだ。

 ジェイドがため息をつくと、クレアを見て言った。

「クレア嬢は、英国の高名なグリーンフィールド家の人間だ」

「高名? ――まさか、」

「そのまさかだ。だからまあ、無理だ。下手をすると英国の何割かを敵に回すぞ」

 佐奈が顔色を失っていた。雄吾だけが話についてこれていなかったが、佐奈の動揺がどれだけ状況が悪いかを伝えていた。

 察しの悪い雄吾にジェイドが補足した。

「グリーンフィールド家は英国でも名の通った政治家の家系だ。いまは反AI、反hIEを掲げている」

「それも中核に見なされるくらいには大きくて歴史のあるね」

 そこまで説明されて、雄吾もいつだかメディアでそのような政治家を見たことを思い出した。たしか、顔の半分に大きなやけどの傷跡が残っていた。

 HALが自動化社会の象徴なのだとしたら、クレアはその対極にいる自動化を否定する家の人間だ。

 雄吾たちはそんな人間をHALと一緒に歌わせようとしていた。政治に疎くても、それがどれだけの危険をはらんでいるかは感覚でわかる。

 大人たちが家の名前が出たとたんに動揺しているのを見て、クレアが苦笑いを浮かべていた。

「私が力を持っているわけではありませんよ。政治力はすべて父のものですし、私に家の力の影を見られても困ります」

 いい歳をした大人が、子供におたついていることをたしなめられていた。

「何か現実的な提案があるならそれを伺いたく思います。最初の会社の対応がひどかったため、今回の交渉も形だけのものかと疑っていましたが、どうもそうではないようですし」

 雄吾はクレアの言葉で少し冷静になった。これはいわば個人の問題で、所属の話は後回しでいいとクレアは言ってくれているのだ。

 人はどうしても人や物事に、所属を見てしまう。

 反hIEの家の人間だから、クレアがhIEと一緒にステージに立つことは問題があると考えてしまうように。

 だがそれは所属の事情であって、一個人のクレアがどうしたいかの答えではないのだ。

 クレアからここまで言わせたことがひどく恥ずかしくなって、雄吾は口を開いた。

「君は歌手になりたいんだろ。じゃあ何で、HALを一方的に訴えなかった。こういう交渉の場を持たなくても、その立場なら一方的に押しつぶした方が早かったんじゃないか」

 雄吾の言葉に佐奈もジェイドも顔を見合わせていた。二人とも突然の情報に冷静さを失っていたが、家の力が大きいならとれる選択肢も変わる。つまり、それをしなかった理由があるのだ。

「私が単純に裁判沙汰にしただけでは得ることのできない何かを、あなた方から引き出そうとしているとおっしゃるのでしょうか」

「君は君の『声』を取り返したいって言ってたよな。あれはHALを消せって事じゃなかったんだな。今更HALを退場させても、声には『HALの声』っていうキャラクター性がひっついたままだから、歌手になりたい君にとっては何も解決しないんだ。だからそこを何とかしろって君は言ってる」

 世間はクレアの声をHALの声だと認識している。クレアが不正を訴えても、すでにクレアの声には新規性も娯楽性も乏しい。むしろ裁判沙汰となればそちらの方が注目されて、おかしなゴシップになりかねない。どちらにせよ望む未来には近づかない。

 やっと交渉が始まったとでも言いたげにクレアは微笑んだ。

「そうした提案をしていただけるのでしょうか?」

「できるさ。要は君を歌手にすればいいんだろ。ここはそういう会社だぞ」

「はいはい、ウチの社員でもない人間が適当言わない。でも、そういうお話なら私たちにもご提案できることがあります」

 佐奈が調子を取り戻していた。取り乱したことを恥ずかしく思っているのか、雄吾の方を見ようとしない。

「HALの影響を消し去るのは困難です。ですから、あなたのキャリアプランの中にHALの存在を組み込む形でプロモーションさせていただきます」

「つまり?」

「HALとのダブルユニットを提案します」

 期せずして話が最初に提案したかったところに落ち着いていた。

 今度はクレアが押し黙った。彼女も想定はしていたはずだ。それでも彼女の心理的な抵抗感が見え隠れしていた。

「私にロボットと歌って踊る道化になれというのですか」

 たぶんこれが今の時代を生きるたいていの人間の本音だ。人がいる場所に、ただのモノがずかずかと入り込んでくることが耐えられないのだ。

 だが、佐奈はその一歩先を見ている。

「それはHALが人間の姿をしているからですか? ギタリストなどのバンドやスピーカーの音楽演出の存在は許せて、なぜHALという道具は同じ舞台に立つことを許されないのでしょうか」

 どちらも同じ道具で、楽器だ。佐奈は本質的にその両者には差異がないと言っている。

「HALは道具です。私たちはそういう風に売り出しました。だからビジネスとして多少の軌道修正は必要でしょうが、あなたがHALを使っても良いのです」

 HALは単体で売り出されたから、人間のアイドルと同じようにダブルユニットと言われると同じ立場のように考えてしまう。けれどHALは道具だから、クレアをプロモーションするための道具として使ったって良い。

「それはあなた方にとっては不本意ではないのですか」

 クレアは大人が簡単にHALを軽く扱うことをいぶかしんでいた。守ることに必死だったのに、道具として便利使いされることは簡単に許したからだ。

「疑似人間工学では、そうした人間の姿をしているモノに対して感情的にハードルが上がってしまうことを『アナログハック』と呼ぶそうです。hIEが一般的になってそう名付けざるを得なくなったのでしょうが、要は私たちメディアが昔からやっていた誘導の延長です。私たちはhIEがない時代では、人間をそうやって道具として便利使いしてきたのですよ。hIEみたいなモノが出てきて人間をそうしなくて良いというのはむしろマシですし、状況に合わせて世間への露出戦略を変えるというのは自然なことです」

 結局HALも経済につながれている。HALを失うことは損害だが、利益につながるならばその使い方は二の次だ。その割り切りができるからこそ、佐奈はリーダーとしてやっていけているのだ。

「売り出すからには貴方には世界一の歌手になってもらいます。世界で初めてhIEという道具を満足に使った歌手として、歴史に残ってもらいます」

 佐奈が、決意を漲らせて言った。

 交渉ごとで大人に全く引けを取っていなかったクレアが揺れていた。すぐに拒否しないのはそれが彼女にとって案外悪くない手であるからだ。

「そう、ですね。一考の価値があると思います。一度考えさせてもらっても良いですか。それに一度父に話を通す必要があります」

「はい、問題ありません。賠償についても、その後、どのような形に落ち着けるかお話しするということでよろしいですか」

「はい、次は弁護士も連れてきます。こちらが私の連絡先になります。何かあれば連絡をください」

 雄吾の端末にも送られてきていた。以前もらったモノとは違い、ビジネス用のものだ。

 帰ろうとするクレアをジェイドが引き留めた。

「あの男を説得できるのか」

 クレアがドアの前で振り返って答えた。

「シュミール様が知っておられるお父様のことを私は知りませんが、ノトさんの言われたことが本当ならお父様はたぶん反対しませんよ」

 笑顔の中に少し寂しさをにじませたクレアのその顔が、雄吾には印象的に映った。




「はああああああああぁぁぁぁぁ」

 佐奈がものすごいため息をついた。大きすぎてもはや深呼吸と変わりない。

「なんとか乗り切れたわー」

 執務室に戻ると、メンバーが同じようにほっとした顔をしていた。今日の推移次第ではこのプロジェクトが破滅していた。

「今日がメンバー最後の集合とかならなくて良かったな」

 ロベが茶化すように言う。

「縁起でもないこと言わないでちょうだい。まだ解決したわけじゃないんだから、気は抜けないのよ」

 クレアの気が変わったり、父親が反対すれば今日の交渉はご破算だ。けれど雄吾は妙な充実感を感じていた。

「それでこれからどうするんだ。あの娘から連絡が来るまで待ちなんてこたぁないんだろ」

 雄吾は思わず口を出していた。佐奈はそんな雄吾をうろんな表情で見つめ返す。

「ねえ、今日の事は助かったけど、あなた自分の立場自覚してる? 今、ウチと契約もしてないんだから、今ここにいるのも本当は不味いのよ」

 佐奈の執務室はいわば機密の塊だ。それを雄吾は身内だからと言う曖昧な理由で入れてもらっていた。

「本当、悪い癖出てるわよ。面白そうなものに後先考えず首突っ込むのやめなさいな。それかそういうことがしたいなら、ふらふらせずにしっかり立場を作ったらどう?」

 冷静に自分の考えなしを指摘されて、顔が熱くなった。彼がこれからどうするのか聞くなど、無礼も良いところだった。彼の今の価値は潤滑油だ。人間ですらない。

「いや、そうだな。すまない」

「謝罪も良いけど、本当にそういう立場あげようか」

 佐奈が雄吾の端末に文書を投げてよこした。

 開くと契約書が画面いっぱいに表示される。

「クレアちゃんをこのプロジェクトで抱えるってなると、彼女の面倒を見れる人がいないのよね。英国と日本じゃいろいろ違うだろうし。生活面は、年が近い女性を誰か雇ってサポートするとして、彼女を歌手として教育できる人ってこのプロジェクト今誰もいないし、HALで手一杯でそこまで回んないのよね。だから、クレアちゃんの教育係やってみない?」

 佐奈の顔が契約を迫る悪魔に見えた。なんだかんだ言ってこの環境気に入ってたんでしょと見透かすような本音が聞こえるようだ。自分のやりたいことと意地を天秤にかけてみろと問い詰められていた。

「いや、その、なんだ、考えさせてくれ」

 絞り出した答えはなんとも情けないものだった。



 この契約自体、クレアとの契約が成立しないと意味がないと気づいたのは十分後だ。

 そして、クレアとの契約が成立した場合を条件に再び元の職場と契約を結んだのは、さらに十分後だった。

 わずか一日で出戻りというのはいくら何でもないんじゃないかと、雄吾は人知れず落ち込んだ。

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