1.5

「詰んだわー」

 佐奈は机に突っ伏して呻いた。いつもはしっかり整えられた後ろでくくった髪が、ぴょんとはねている。

 HALのプロジェクトが佳境になったときも、これくらい憔悴していた。

「やられたわー。いやー、ほんとやられたわー」

 言いながら突っ伏した顔をあごを机につけたままあげて、雄吾のことを恨みがましそうににらみつけた。

 雄吾は苦笑いすることもできない。

 画面に、金髪の少女が喫茶店で熱唱する様子が流れていた。動画投稿サービスに昨日の夜あげられていた動画だ。

 それが今まさに大炎上していた。彼女の歌声がHALと似すぎていたためだ。HALの声が彼女の生体データの盗用ではないかと疑う声と、たまたま似ただけだと擁護したり、そもそも歌声の改ざんを疑う声がせめぎ合っていた。

 だが、この動画が大きな問題になった要因はクレアの歌声ではなかった。いくらでも改ざんがきく出自もわからない動画程度では、疑いの声の方が説得力があるからだ。

 問題は、少女の対面に雄吾が座っているということだった。

「ねえ、矢畑雄吾さん。私はいつも露出に気をつけるようにと言っていましたよね。あなたは自覚が足りませんが、HALの中核メンバーとして功績があると世間は見ているのですよ」

「すまん」

 雄吾はただ頭を下げることしかできない。わざわざ言葉遣いを取引先用に切り替えているのが怖すぎた。

「あなたが彼女と一緒に映っているせいでこの動画が一定の説得力を持ってしまいました。本来、内々で処理すべき案件が先に表面化して、我々は後手に回っています」

「いや、もう本当にすまん」

「人型ロボットを学校に持ち込んだ結果、学校という特殊な空間の日常風景が盗撮されたという事件が頻発して問題になったのをあなたはより身近に知っているでしょう。あれが社会的に大問題になって人型ロボットはそもそもセンサーの塊だということは常識になったと思いましたが、忘れていましたか」

「本当に申し訳ない」

 動画はおそらく喫茶店にいたhIEの記録を引っこ抜いてそのままアップロードしている。端末で誰かが撮影していたにしてはやけに視点が高く、手ぶれがないせいだ。

 これは企業の行為としては、顧客のプライベートに関わるコンプライアンス違反だ。だが、hIEの記録の読み出しはさほど難しいことではないし、教育が十分に行き届いていない従業員が、こうして動画をアップロードすることも珍しいことではなかった。

「正直、動画を削除しようと動けばさらに疑いを向けられます。謝罪だけではhIEという立場としては弱すぎるHALを完全に追い込んでしまいます。少なくとも早急に彼女と話をつけなくてはなりません」

 言いながら佐奈は画面の向こうの応接室で待たせているクレアに目を向けた。彼女は座ってコーヒーを飲んでいる。こうして待たされることもなれた様子だった。

「喫茶店で突然歌い出すとは思えない落ち着きね」

「嫌みか」

「狙ってやったんじゃないかってこと」

 佐奈の口調が元に戻っていた。まだ怒りはあるようだったが、佐奈の切り替えの早さが彼女を今の立場まで押し上げた。

 雄吾も彼女の切り替えの早さに感謝して話に乗る。

「そういえば、そもそもなんでhIEは止めに入らなかったんだ。あれ、迷惑行為だろ」

「それがAASCの真骨頂っすからねー」

 脳天気な声とともに、小柄な人影が部屋に入ってきた。「どもーっす。いやー、おひさです、姐さん。雄吾パイセンも一ヶ月ぶりですかね」

「姐さん言うな」

 佐奈がぶすっと言う。そう呼ばれて不機嫌と言うより、向けられた純粋な好意を扱いかねて照れているようだ。

「悪いな、いきなり呼び出して。フランスからだとさすがにきつくなかったか、安藤」

 安藤巴は佐奈より二つ年下の技術者だ。

 年は若いが、HALのクローンAASCの記述を任されている一流の技術者だ。

 眼鏡と白衣を着ているところが、わざわざ技術職ですと名乗っているようでわざとらしい。それでもわざわざ雄吾のことを先輩と敬ってくれるのだから、稚気のかわいらしいものに見える。

「まあ強行軍過ぎてきつくはありましたねー。ヨーロッパと日本を十時間で結ぶ超音速旅客機初めて乗りましたけど、あれそこまでGの軽減されないんすよね。席立つのもめんどくさいんでずっと寝てましたけど」

「あー」

 あれか、と雄吾も思わず眉をしかめる。確かに、佐奈が招集をかけたのは昨日の午後だろうから、どう頑張っても今日着くにはソレしかない。

 雄吾も過去に一度だけ乗る機会があったが、決して乗り心地が良いとは言えなかった。

 超音速旅客機自体は二十世紀末期に就航している技術的に不可能ではないものだ。けれど当時、絶望的な燃費の悪さと搭乗客数がわずか百人という利益率の低さ、そして太平洋を越えることができない上に衝撃波の影響で海上でなければ超音速航行できないという致命的な欠陥を抱えていたため、すぐに運用されなくなった。

 現在では、マスドライバーで成層圏ぎりぎりの高度まで投射して超音速航行を行うため、多くの課題が解決されていた。

「hIEのAASCはそもそもどういう仕組みなのか先輩たちは知ってますか?」

「は?」

「雄吾先輩がさっき言ったじゃないっすか。なんでhIEが止めなかったんだって」

「あ、ああ、言ったな」

 唐突な話の変わり方に戸惑っていた。巴はどうも、脳内で勝手に会話の流れを補完するせいで、他者から見ると唐突に話が飛んだような会話をする。本人は他人に同じことをやられても、同じように会話を追えるためたいして違和感はないらしい。

「AASCはミームフレーム社が提供している、hIEを他律制御するためのミドルウェアっていうのは知ってますよね」

「ああ」

 雄吾は相づちを打つ。若い技術者は蕩々と説明を始める。自分の専門分野を他人に語って楽しいのは、音楽家であれ、技術者であれ変わらないと苦笑する。

 佐奈は、もう勝手にやってと言わんばかりに端末に向き合い始めた。責任者の彼女には仕事がたまっている。どうせ皆が集まらなければ始まらないのだから、時間の使い方はそれぞれだ。

「人間型ロボットってもともと自律制御が主流だったんですけど、二十年前のリスボン会議で参加していた九機の超高度AIすべてが自律制御ロボットはいずれ制御できなくなると結論づけたんですよね。それで今度は全世界にある人型ロボットの他律制御方式の利権を巡った開発競争が始まったんですけど、結局、ヒギンズが『AASC』っていう人類未到産物レッドボックスを生み出すまで決定的な物は生まれなかったんです。これはヒギンズがhIEを制御することに特化した超高度AIだからできたことです」

 雄吾もリスボン会議の話は知っていた。それは雄吾は大学生で社会の人間が居場所がなくなっていく時期に放り込まれた特大の燃料だったからだ。自律制御の危険性が指摘されたのに、経営者たちはそれらを使ったり売ったりすることをやめなかった。

 機械に居場所を奪われた人たちにとってそれは人間への裏切りに見えたのだ。

 今でも雄吾にはあのときの熱が感じられるようだ。少し昔話をしただけなのに幻想の中の焦げ臭いにおいが鼻梁をくすぐる。

 幻想を振り払うように、疑問を口にしていた。

「hIEの制御に特化してるってどういうことだ」

 人類の知性を超えたモノを使う用途としては随分ちゃちなものに聞こえた。人形遊びをするために核兵器を用いているようなスケールの違和感があった。

 巴はうんうんと満足げにうなずく。まるで生徒が良い質問をしたことに喜ぶ先生のようだ。

「よく勘違いされるんですが、別に超高度AIは何でもできるわけではないんです。そもそもIAIA条約で超高度AIの建造は厳しく規制されていますから、高度AIが技術的特異点シンギュラリティを突破することに賭けるしかないんですよ。なので、超高度AIは高度AIの時に組み込まれた思考フレームを元にして、その枠を封印状態で自立発展させていくしかないんです。じゃあ得手不得手も出てきますよね」

「人間と一緒ってことか」

 雄吾が乱暴にまとめた言葉を、巴は微妙に悩ましげな顔で受け止めていた。

「そもそもAIの思考が人間の思考と全然違うので、一緒ってことはないんですが、とりあえずその理解でいいです」

「まあ、AIの得手不得手はまだわかるが、hIEを制御してるのはAASCとそれを稼働させてる行動管理サーバーだろ。超高度AIは外界に接続できないよう封印されてるんじゃないのか」

「本気で超高度AIを外界から完全に遮断できるなんて思っていますか。国家が所有している『たかちほ』や『進歩八号』がどうやって現在の情勢に合う回答をはじき出してると思ってます? 封印状態というのはインターネットに接続させず、外界に実行力を持たせないということで、情報自体は人間を媒介したりして受け取って常に更新してますよ」

 そもそもほしい回答を得るために入力している情報が外界との接続とも見なせるのだ。そして回答を出力しているのだから、間接的に超高度AIは外界とつながっている。

 考えてみれば至極当たり前の話だった。

「じゃあAASCって何なんだ」

「ヒギンズを巨大な脳だと思ってください。そしてhIEは私たち人間で言うところの五感に相当する感覚器です。私たちが五感で受け取った情報を脳で処理して再び感覚器に命令するように、AASCとはヒギンズという巨大な脳がhIEをリアルタイムに監視して人間社会との協調行動を取らせ続けるための制御方式です。行動管理クラウドとは、八億近いhIEの行動計算のすべてをヒギンズが一手に引き受けることが全く現実的ではなく、ヒギンズに外界への直接の実行力を持たせないためのバッファです」

 巴が一気に説明しきったせいか頬を上気させていた。彼女は説明し始めると、ちゃらんぽらんな空気が次第に抜けて変に硬い口調になる。

「いや、待て、なんでhIEの店員が歌うのを止めなかったのかの説明になってないぞ」

「人間社会との協調行動を監視してるって言ったでしょ。あそこで止めれば人間が不快な感情を抱くっていう人間の振る舞いを、ヒギンズが学習してAASCに反映させてるの」

 佐奈が画面から目を離さずに口を突っ込んできた。仕事をしながらよく聞いてたなと思う。

「相変わらず器用だな」

「ヒギンズは人間社会から反発を受けてることくらいわかってるから、かなり気をつかってるわよ。AASCが『ガバガバ』って言われるような運用されてる理由わかる? そうしないと排除されるとわかってるからよ」

 佐奈は雄吾の変な感心を無視して言葉を続けていた。

「だからHALもAASCを使えたんすけどねー」

 巴が口調を戻していた。微妙に熱を持って語ったことが恥ずかしかったように髪を指に巻き付けていた。

「アイドルや歌手の振る舞いなんて最も記録として残ってるものなんで、いくらでも振る舞いを作れるんですよね。HAL以前からアイドルhIEなんて珍しくもないし、誰でもできることです。でも、おんなじモノ作ったってしょうがないじゃないですか。だからAASCに手を入れて、これだけの予算と時間と人をぶっ込んで『わたしたちがかんがえたさいきょうのあいどる』を作ってやろうってのが、まあ楽しそうに見えたんですよね」

「別に『さいきょうのあいどる』を作ろうとしたわけじゃないわよ。hIEって道具なんだから、もっと自由に使ったっていいじゃないって思ったの。絵画の絵筆みたいに芸術を創出する道具にしたっていいでしょ」

 雄吾は少し驚いていた。

 佐奈がインタビューで語ったことは本心でもあったのだ。「なんで意外そうな顔してるのよ」

 佐奈が雄吾のことをとがめるように見ていた。すねるような顔に彼女の稚気がのぞいていて、室温が上がったように感じた。

「いや、別に、」

「――相変わらず博識だな、トモエ嬢」

 声に振り返ると、色男が扉のそばで腕組みをして壁にもたれかかっていた。ジェイド・シュミールは近代の貴族が着るような肩飾りの付いた服に勲章のようなモノをつけている。相変わらずおかしな格好だった。

「ジェイドさん!」

 ぱっと巴が駆け寄って右腕に抱きついた。心底うれしそうな顔をしていた。

「お久しぶりです! 全然連絡くれないから寂しかったんですよぉ。どおして、連絡してくれないんですかぁ。もしかしてご迷惑でしたか。それとも私のことキライですか」

「いや、ちょっと待て。とりあえずこの腕を放してくれ、レディ。だいたいトモエ嬢とは一週間前にも打ち合わせで会っているだろう」

「一週間も会ってないじゃないですか。それに私はプライベートで会いたいんですよ」

 巴は顔が良くて、爆発するような才能にあふれた人がタイプらしい。それ以外はどうでも良いらしいが、それはそれですさまじく理想が高いんじゃないかと雄吾は思う。

 ジェイドが巴に迫られているのを見るのももう何度目かわからないから、佐奈はふっと興味を失ったように仕事に戻る。雄吾は友人の助けを求めるすがるような目に苦笑で返してやることしかできない。馬の後ろ足で蹴られるのはごめんだった。

「相変わらず騒がしいな。黙って集まることもできんのか」

「賑やかな方が楽しいじゃないか。辛気くさい面でみんなでうなってるよりさ」

 神経質そうなやせぎすの男と、妙に楽しそうな長身の黒人の男が入ってきた。

「上野。それにロベじゃないか」

「よーう、ユウゴ。元気にやってたか」

「いやロベ、おまえ、今トルコじゃないのか。ライブはどうした。おまえ腐っても演出家だろ」

「こっちの方が面白そうだから全部ハルヒサに投げてきた」

「おまえ、春久って、あいつまだ十八だぞ。そんなぶん投げてどうすんだ」

「俺が必要なとこはもう全部やってきたぞ。それにユウゴ、おまえも過保護すぎるんだよ。変に気を遣うからハルヒサにウザがられてるんだって前から言ってるだろ。ほっといてやれよ。芸術家なんて自由奔放くらいでいいんだからさ」

 自由奔放を体現するような行動力に唖然として声も出ない。ロベはHALのライブ演出を担当する、アフリカから売れ始めた演出家だ。まだ二十六歳と若く、将来を嘱望されている。そのHALのライブの演出家がトルコ公演一日前にして日本にいた。

「よくそんなあちこち行く気になるな」

「楽しいからな。ジュンヤも行ってみればいい。楽しいぞ」

「……嫌だよ」

 上野淳也は四十二歳の引きこもりだ。人間嫌いだが、hIEの造形に関しては一流だった。元はhIEメーカーの技師だったという。

 執務室がいっぺんに騒がしくなった。何人かいないメンバーもいるが、HALを作っていたときの雰囲気に似ていて、雄吾は懐かしさに目を細めた。

 その喧噪を手を叩く音が鎮めた。

「今日来れそうな人はみんな集まったみたいだし、挨拶抜きで本題に入るわよ。一応みんなには伝えてあるけど、結構今、不味い状況なのよ」

 佐奈が、スクリーンに紅茶を飲んでいる少女を映した。

「この子がクレアよ。炎上してる動画も見てくれたわよね。正直、あれ、HALと区別が付かない歌声なんだけど、だれか区別付いた人いる?」

 全員が押し黙った。誰も区別が付かなかったのだ。

 普段発言しない淳也が、言葉を口にした。

「区別が付かないというか、このクレアという少女の声は、HALの元になった声と声紋がほぼ一致している。日常動作の中の声まで、HALの声と似ているんじゃないか?」

 雄吾にはだんだんと、クレアの疑念が現実に迫っているように感じた。HALには元になった素材がある。だが、それはもはや訴えようがないほど昔の、権利的に問題がない素材だったはずだ。今を生きる誰かを素材にしたはずではないのだ。

「HALは過去二百万人から選んだ声帯データから造形したhIEだ。技術的な問題で、素材を引っ張ってくるしかなかった。だから、瑕疵があるとすればそこだ」

 淳也は淡々と語る。HALのhIE主機に一番詳しいのは彼だ。そしてHALに人の声という素材を使うことを提案したのも彼だと聞いていた。だが。

 淳也は、雄吾の方を見ていた。彼だけではない。皆が雄吾の方を見ていた。

「雄吾、君が選んだ声は、一体誰の声だったんだ」


 だが、HALの声を選んだのは雄吾なのだ。

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