1.4
結局、雄呉とクレアは喫茶店を逃げ出すようにあとにした。クレアのことを新人かこれから売り出そうとしている歌手なのだと誤解して、店の客たちが詰め寄ってきたからだ。
改めて仕切り直す場を見つけられなくて、二人は公園のベンチで座り込んでいた。なんで一日に二度もこんなことやってるんだと、ジェイドと逃げだしたことを思い出す。
平日の昼間ということもあって公園に人気はなかった。それでも時折人影が歩いているのが見える。公園を定期的に歩き回る公共のhIEだ。人影が公園の中にあるだけで閑散とした寂しい場所には見えないため、人々が公園を利用するときのハードルをhIEが下げているのだ。それは同時に広すぎる公園が人気の無さから犯罪の現場になることを防いでいるということでもある。
ロボットに常に監視されていることに不満を訴えるものもいるが、後ろめたさがなければそれほど気になることでもない。
そう思っていた。
雄呉の横を見ると十代の少女が汗を浮かべて座っている。平日の昼間に四十代間近の男が一緒にいるには若すぎて、微妙すぎる距離感だった。
まだ数時間も一緒に居ないのに、相手の抱える問題が雄呉にとっても重すぎて突き放すことができない。だから、友人というほど近くもないが、他人のように距離を置けない雰囲気が二人の間に漂っている。傍から見るとこれは、まるで怪しい関係になった年の離れすぎた男女のようだ。
そのことに気づいて、背中を冷や汗が滝のように流れる。hIEの目はカメラで、監視カメラと同様にその記録は法的な証拠にもなりうるのだ。
慌ててベンチを立つ。雄呉はまだ捕まりたくない。冤罪ならば尚更だ。
クレアが突然立ち上がった雄呉を見上げて怪訝そうな顔をする。
立ち上がった言い訳のために口を開く。
「グリーンフィールドさん、あなたはあなたの声が不正に利用されているのではないかと疑って日本に来たんですね」
分かりきったことへのただの確認だった。雄呉は大人として、立場をはっきりさせなければならなかった。
「そうです。私は私の声だけでなく私自身をHALの『素材』として扱われたのではないかと疑っています」
芸術が幅広く普及し創作者が増大すると、『素材』の問題にしばしばぶち当たる。
芸術はどうしても『人間が認知し得るもの』という限界があるのに、消費者は創作者に個性を求める。芸術が実際は模倣と試行錯誤で積み上げてきたものであり、過去は創作者の絶対数と発表の場が少なかったから問題にされなかった作品ごとの類似性が、創作者の急増で浮き彫りになった。
これを回避するために、他の人間が使わない『素材』が求められるようになったが、AIによる自動化で、『素材』さえ慢性的に不足している。作品が多すぎて、新規性に乏しく価値観がぶつかるのだ。つまり、創作者も消費者も『どこかでみたことがあるもの』に辟易していて、同じ『素材』を使っているのに作品ごとに価値観が違うから摩擦が多い。それは作品が切磋琢磨しているともいえるが、ストレスフルな環境でもある。そうした環境に疲れて創作や作品そのものから離れる人間も少なくない。そして離れられない人間は、ズルをすることもあるのだ。
クレアは雄吾にそうした非合法な手を使ってHALを作ったのではないかと言っていた。
HALの製作者の一人である雄呉は彼女の『敵』だ。それが明らかな雄呉の立場で、何故かひどく悲しかった。
ミュージシャンは人を楽しませることこそが本文なのに、子供から敵意を向けられているからだった。ミュージシャンという立場で客から恨まれることに慣れていないのだ。
「君の声は使ってない。俺たちは真っ当にHALを作った」
口調に焦りと迷いが出た。
真っ当なはずだった。だが、それが本当にそうだったのか雄呉には判断がつかない。ありえないと思っているのに、確信が持てなくなっていた。
それほどクレアの歌声は似ていたのだ。
自分とプロジェクトに対する不信感を覆い隠すように質問を重ねていた。
「君は、私たちにどうしてほしいんだ?」
「私の『声』を返してください」
即答だった。
それはHALをこの世界から消せということだ。
だが、まだ、HALとクレアの声が法的根拠に基づいて同じものだと決まったわけではない。
「君の声だと決まった訳じゃ無い」
「それでも、確認しない理由にはなりません」
大人と正面から向き合って怯まないほど少女の意志は固い。青い瞳は若さにあふれている。
少女には社会のしがらみなど見えていなくて、ただ自分の望みに忠実だ。そこには欲しかないからこそ、信念が被さると強く見えた。
雄呉はため息をつこうとして止める。大人が子供にそういう態度を取ったらどう思われるかなど百も承知だった。
「――君は、歌手になりたいのか」
そしてため息の代わりに、問いを重ねていた。
確信めいた問いだった。クレアがこれほど自分の声に執着する理由が他に考えられなかったからだ。
「なりたいのではありません。私は歌手になります」
強い確信を込めて少女が言った。彼女はそのことを疑いもしないのだ。
ただ眩しかった。少女のひたむきな思いを見ると、雄吾は昔の自分を思い出す。自分がまだ一流のミュージシャンになれると思い込んでいた頃だ。あの頃は何でもできる気がしていた。
今の
あの時代、多くの人が『人間らしさ』を叫んだ。
雄呉もまた、『人間らしさ』を示すために楽器を手に取った。若い彼は芸術は人間だけのものだと思っていたからだ。
けれど現実にやってきたのは、芸術でさえ人間が必要でなくなってきているという実感だ。人間が人間だけの物と考えてきた、『人間らしさ』はたぶん百年かけて人間が自ら
クレアが、将来を断言するほど歌手に執着するのかはわからない。ただ、雄吾は少女に昔の夢破れた自分を重ねていた。それは単に世間知らずなだけかもしれないが、この時代にも人間は夢を見ることができるのだという希望だと思いたかった。少女の夢を大人の自分が潰すようなことはしたくなかった。
「これは、仕方ないよな」
慰めとも言い訳とも付かない独り言だった。HALはもはやクレアという大問題を避けて通れない。ならばせめてましな結末にするしかなかった。
「君の保護者の方に話をしたい」
クレアは、おそらく未成年だ。西洋人の彼女を日本人の雄呉が一目見て十代だと思う程度には、彼女の顔立ちは幼い。
そして、未成年のクレアだけでは社会的責任を取り切れない。HALの問題がどう決着するにせよ、未成年の彼女だけがカーペント社という巨大な企業と立ち向かうのはアンフェアだ。
だが、クレアの顔色は冴えない。思い悩むように言葉を探していた。
「必要ありません、私が決着をつけます」
「グリーンフィールドさんは、もしかして成人してるのか」
外国人の年齢は外見からは分からないな、と思っているとクレアは首を振った。
「いえ、私は十四歳です。問題がありますか」
「君が不利になる」
そう言って、なぜ自分はこの少女の味方をしているのだろうと不思議に思った。雄呉がクレアの味方をする意味はないはずなのだ。
クレアも不思議そうに雄呉を見ていた。
「いや、まあ、それに全く無関係というわけにはいかないだろ。君が日本に何しに来てるかくらい、知ってるだろう」
そう言いながら気づいた。彼らが、HALが裁判を起こされていないのは何故か彼女の保護者がそういう手段をとっていないというだけだ。雄呉たちはすでに薄氷の上に立っている。
先ほどとは違う意味で冷や汗が伝う。
クレアが言いにくそうに口を開く。
「何も言っていないのです。お父様に心配をかけたくはありませんでした。黙って日本まで来ましたから」
「そ、」
それは無理だろ、という言葉を飲み込んだ。
少なくとも日本では個人認証タグの紐付けは伊達ではない。未成年ならば、支払い義務は保護者に行くから、その気になればあらゆるサービスの利用状況を保護者は監視できる。
日本は個人認証タグによるライフログの取得が過剰過ぎると言われる。個人認証タグの施策自体、かつての超高度AI『ありあけ』が始めた個人に狙い撃ちで行政サービスを展開するためのものだ。
監視が行き過ぎて過干渉にさえなるから、大抵の保護者はあまり監視しない。恋人と会っていることを覗き見される気まずさは親世代もすでに経験していることだ。
それでも流石に国外へ出ることくらいは通知される。それは英国も変わらないのだろう。どれほど放任主義の親でも、勝手に国外へ出ることなど許さないはずだ。クラウドを通して空港に差し止めができるのだから、それをしていないという事はやはり、クレアの保護者はすべて承知している。
そう考えると、クレアがそんなことにさえ気付かないというのもおかしな事だった。この気立ての良い少女が、世間知らずの箱入り娘に見え始めた。
背筋がぞわぞわした。雄呉には、クレアの親が一体何を考えているのかわからない。世間知らずの娘を単身異国に放り込むのは、雄呉でもかなりどうかと思う事だ。
「お父様はいつも、私の好きにするようにとおっしゃいます。ですから、私には大きな裁量が与えられているのです」
雄呉の疑問を察したようにクレアが答えた。
裁量という問題か、と思う。それを言うなら雄呉にすればすでに子供の裁量を超えているように思えた。
「なら、その君の裁量でお父上と話をさせてほしい。少なくともご家族に話をしなければ、俺達が社会的責任を問われる」
その言葉は保身かも知れなかった。雄呉の考えが正しければ彼女の父親は既に気づいているのだ。
クレアはまだ悩んでいる。
「考えさせてください」
「じゃあ、こうしよう。明日、HALのチームとリーダーに君を会わせる。もともと君が望んでいたことだ。それからもう一度考えたら良い」
子供に大人が寄ってたかって交渉するのは気分のいいことではない。ずるい大人が経済と立場を背景に良いようにできるからだ。そして雄呉もそのずるい大人側の人間だ。この提案をすること自体、罪悪感があった。
「分かりました。私はいつでも問題ないので、連絡をこちらにください」
ぽん、と雄呉の端末に連絡先が送られてきた。情報が最低限の、本当に連絡するためだけのものだ。
「それではこれで」
「ホテルまで送ろう」
「必要ありません。タクシーを拾いますから」
それでも公園の出口まで一緒に歩く。端末を操作すれば、すぐにタクシーはやってくる。タクシーを拾う、という言葉自体、昔からある慣用句を慣習で使っているだけだ。
既に待っていたタクシーに少女が乗り込んで、走り去っていくのを確認してから雄呉は佐奈に連絡を取る。
身内扱いとはいえ、彼は佐奈の誘いを蹴っている。
その不義理を押し切って、アポイントをどうねじ込んでもらうか考えていた。
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