1.3

 大きな会社の近くに飲食店が並ぶという地理的な関係は、どんな時代でも変わらない。いくら自動化が進んでも、移動における人間の時間的な労力はそれほど縮まらないから、近い方が楽という価値観は変化しなかった。そして、企業とそこで働く人々も同様に、一緒に働く人が近くに大勢いたほうが便利だから、職場環境も一世紀以上前からある構造から大きく変化していないことのほうが多い。

 だから会社から五分も歩くと手近なカフェに入ることができる。会社勤めの人間がよく利用するから、店舗自体もそれなりに大きい。

 隅のふたりがけの席に座って端末で注文すると、ウェイトレスの格好をしたhIEがコーヒーをふたつ持ってきた。

「そういえば、コーヒーで良かったですか」

 雄呉がこういう喫茶店で話をするときはいつも仕事の話だったから、その時の癖で少女の好みも聞かずにコーヒーを頼んでいた。

「飲めますよ。英国にいると、コーヒーと紅茶が飲めないとやっていられませんから」

 少女が上品に微笑んで言った。カップを持ち上げて口をつける仕草が綺麗すぎて、こんなチェーンの喫茶店を選んだことを後悔した。明らかに格があっていなかった。

 だからこそ、少女がHALとその周りに用事がある理由がわからなかった。少女の振る舞いはハイソサエティで教育を受けたそれに思えた。だがHALはあくまでエンターテイメントの、どちらかといえば低俗な部類の文化だ。このふたつの領域が重ならないとは言わないが珍しいことだった。

 少女がカップを置いて、机の上に手を重ねた。

「私はクレア・グリーンフィールドと言います。あなた達のHALについて、重大な話があって英国から日本まで来ました」

 訥々と語る少女の眼差しから幼さが消えていた。その瞳の奥からは闘志のような炎さえ見えるようだ。だが雄呉には、目の前の少女にこんな目を向けられる理由がわからなかった。

「矢畑雄呉です。HALのプロジェクトチームの中核で彼女の開発に関わっていました」

 そう言いながら端末を操作して相手の端末に自分の身分や連絡先をまとめたデータ、つまり電子的な名刺を送る。

 クレアと名乗った少女が端末に表示されたデータを見て怪訝そうな顔をしていた。

「フリーランスの方なのですか?」

「そうですね、会社員ではありません。プロジェクトリーダーの能登にスカウトされて、HALに関わることになりました。怪しく見えるでしょうが、問い合わせてもらえば本当だとわかります。そのデータを見せれば、会社とあなたがしたい話をすることもできると思います」

 自惚れではなく、今、彼の名刺にはそれくらいの価値がある。HALとはそれだけ大きな影響を及ぼしていた。

「どうしてここまでしてくれるのですか。私がこの名刺を悪用するとは考えませんか」

「いえ、まあ、妙に他人事ではないような気がするというか、私はあなたと会ったことがありませんか」

 先程からずっと感じていた違和感だった。どこかで聞いた声といい、外見もどこかで見たような、という既視感がちらつく。その正体を知りたくて彼女に優しくしていた。この少女と出会ったことは何か重大な出来事のような気がしたのだ。

「日本人はそういうことを言わないと聞きましたが。ナンパですか」

 少女が冷ややかに雄呉のことを見ていた。駄目な大人を見る目だった。

「いや、違う! 違うぞ! ちょっと待て、仮にも社会人なんだから、そんなことするわけ無いだろ」

 焦って素が出ていた。十代が相手だと冗談にもならなかった。

「そこまで動揺されると逆に気になるのですが」

「……申し訳ない」

 どうにも情けなさすぎた。雄呉は黙ってカップを取って、コーヒーに口をつけた。沈黙が気まずかった。二人はまだ会って一時間と経っていない。世間話で場を濁そうとも、歳も育った場所も違いすぎて共通の話題といえばクレアの本題しか無い。

「――グリーンフィールドさん、あなたの言う『HALの重大な問題』とはなんですか」

 企業がアレほど大きなプロジェクトを動かすとき、そうした重大な問題につながる権利や利益に関する根回しと合法性を徹底的に突き詰める。そこに隙があると利益を横から掻っ攫われかねないからだ。だから、この期に及んで重大な話が突然湧いてくるなどあり得なかった。

 雄呉は話半分程度で聞くつもりだったのだ。


「HALの声は一体どこから手に入れたのですか」


 背中に氷を一杯にぶち込まれたような悪寒が雄呉を襲った。

 それが問題だからではない。クレアという少女が、HALの声はどこかで手に入れたものだと確信していたからだった。それは今まで誰も気付かなかったHALのHALである所以だったからだ。

 動揺が顔に出ていることを自覚しながら、雄呉はそれを隠そうとした。震えそうになる手で、コーヒーカップを手にとって口をつける。コーヒーの香りと酸味が口の中に広がって、そのことが少しだけ考える余裕を取り戻させた。

 今更とぼけたところで、追求されて何もかも暴露することになるだろうなと思った。目の前の少女はそのことを確認するためだけにわざわざ英国から日本に来たのだ。

「なぜそのようなことを聞くのでしょうか」

 性急に話を進めないために質問を質問で返した。褒められた話ではなかったが、焦るとおそらくろくなことにはならなかった。

 だが、雄呉は年頃の女の子がどれだけ生き急いでいるかを見誤っていた。

 少女がカップを置いて、あたり見回した。客がまばらにしかいないことを確認して、突然席を立つ。

「マナー違反であることはわかっていますが、これが一番早いと思います」

 そう言ってクレアが大きく息を吸った。雄呉にはそれが歌手の歌いはじめの律動だとわかった。待て、という声は間に合わず、少女が歌いだした。

 何事かと、店内の客が雄呉たちの方を振り返った。雄呉は頭を抱えたい気分になった。

 だが、空気が変わった。いや、違う、雄呉がその歌声を知っていて、無意識のうちに戦慄していた。

 馬鹿な、という声が漏れそうになった。

 眉を潜めていた他の客たちも最初の一章節が終わる頃には驚愕に顔の色を変えていた。

 今、雄呉の前には、HALがいた。

 HALと全く同じ声で歌う少女が、HALの歌を歌っていた。あり得なかった。HALの声を選んだ雄呉でさえ、クレアとHALの声の差異がわからなかったからだ。似せることはできてもここまで同じだと、声帯の構造そのものが同じだとしか思えなかった。

 そもそも、人間の声をhIEが真似ることはできても、hIEの声を人間が真似ることは声質がよほど似ていない限りほとんど不可能に近い。

 そしてクレアの歌声は、雄呉たちが全力で挑んだHALの歌声と比べても遜色がないほど美しかった。多分、雄呉の目指した一つの芸術の形が、この安っぽい喫茶店の中にあった。

 いつの間にか歌声が止んでいた。歌い終わった高揚感からか白い頬を赤く染めて照れたように、呆けて見つめる雄呉から視線をそらした。

「はしたない真似をしたとは思っています」

 少女の横顔に汗で張り付いた金の髪がひどく艶かしく見えた。

 誰ともなく拍手が起こって、雄呉は我に返った。そして釣られるように小さく手を叩いた。

 裕吾は彼女が日本に来た理由を理解した。

 今、雄呉は一つの才能がまさに花開かんとしている瞬間に立ち会っていた。

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